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僕たちの物語  作者: 鎧
皇女編

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九節 代受

ある日のこと。

カタンと、小さな音が響いた。

ただ何かが床に落ちただけだった。

皇女の肩がビクッと跳ねた。


「……」


落ちたものを凝視する。

別に怪しいものでも何でもない。

皇女はそれを拾い上げ、元の場所へ戻した。

それから何事もなかったかのように、また歩き出した。


けれど、その日を境に、何かが少しずつ壊れるように変わっていった。

扉が開く音がすれば、過剰に振り返るようになった。

誰かが近づけば、その足音の微かな響きに耳を澄ませる。

遠くから声が聞こえれば、怯えたようにそちらを見やる。


何がそれほどまでに怖いのかは、自分でも分からなかった。

ただ、理屈ではない恐怖が胸を締め付けていた。

ある日のことだった。 背後から、そっと肩に触れられた。


「ねえ」

「っ……!?」


皇女の身体が大きく跳ね上がった。

弾かれたように振り返ると、そこには心配そうなお嬢が立っていた。


「……私よ」

「……うん」

「どうしたの?」

「びっくり……しただけ」

「そう」


皇女はぎこちなく笑ってみせた。

けれど、胸の奥では心臓が激しく鐘を打っていた。

呼吸も浅く、乱れている。


どうして。

私は何に怯えているの。 分からない。


皇女は、胸元をぎゅっと強く握りしめた。

お嬢は何も追及しなかった。

皇女もそれ以上は何も語らなかった。


それでも、いつもの日々は続いていく。

皇女はいつも通りに目を覚ました。

歩き、話し、笑った。

好きなものを見つければ無邪気に喜び、外へも出かけた。

かいと共にお芝居も繰り広げた。

身体は、いつも通りに動いていた。

だから、自分は大丈夫なのだと思っていた。


ただ、何もない空間を意味もなく振り返る回数が増えた。

扉が開くよりも早く、吸い寄せられるように扉を見つめる。

誰かが近づけば、その足音の微小な揺らぎを聞き分けようとする。


――そして、ある日。

屋敷の中に、思いがけず大きな音が響き渡った。

皇女の身体が、弾かれたように強く震えた。


「……違う」


何が違うのか、自分でもまったく分からない。ただ、何かが狂っている。

お嬢が驚いて振り返った。


「皇女?」

「違う……っ」


一歩、後ずさる。 呼吸が急速に浅く、速くなっていく。

目線が何かから逃げるように彷徨う。

けれど、そこには誰も、何もない。


「皇女」


お嬢が宥めようと近づこうとした。


「来ないで!!」


皇女は悲鳴のような叫び声を上げた。

甲高い自分の声に、皇女自身が恐怖で目を見開く。


「……あ」


けれど、一度乱れた呼吸はもう元には戻らなかった。


怖い。

逃げないと。

不気味な何かが迫ってくる。

本能がそう告げていた。


「違う……違う、違う……!」


皇女は混乱した眼差しで周囲を見回す。

一刻も早く逃げ込める場所を探す。


「違う、違う……っ!」


そして、皇女は無我夢中で駆け出した。


「皇女!?」


呼び止められても、もう足は止まらなかった。

ただひたすらに走った。

何から逃げているのかも分からなかった。

どこへ向かえば助かるのかも分からなかった。

それでも、ただこの場所に留まることだけが耐え難かった。


廊下を疾走し、角を曲がる。

さらに足を前へと突き出す。

その先には、逃げ場など何もない。

誰の姿もない。

それでも皇女は逃げ続けた。

後ろから、焦ったお嬢が追ってくる。

さらにその後ろを、影のように護衛の男がついてくる。

けれど、二人とも無理に皇女を力づくで捕まえようとはしなかった。

皇女が一体何に怯え、狂おしく逃げ惑っているのか、誰にも理解できなかったから。


ついに足がもつれた。


「っ……!」


壁に激しく手をつく。

そのまま支えを失い、ずるずると床へ座り込んでしまった。


「皇女……!」


お嬢が息を切らせて追いついた。

助け起こそうと近づこうとする。


「来ないで……っ!!」


またしても皇女は喉を引き裂くように叫んだ。

お嬢の足がぴたりと止まる。


「分かった……分かったわ」


それ以上は、決して近づこうとしなかった。


「私はここにいるから。何もしないわ」


皇女は膝を抱え込み、小さく丸まった。


息を吸う。

吐く。

また吸う。

けれど胸が収縮し、うまく空気を吸い込めない。


「大丈夫よ。誰も、貴女に何もしないわ」

皇女は悲痛に首を振り続けた。

「……いないから」

「……」

「誰も、恐ろしい人なんていないわ」

「……違うの」


絞り出すような、儚い声だった。


「何が違うの?」

「違う……」


それ以上は、もう言葉にならなかった。

頭では分かっているのだ。

ここにいるのは、温かく見守ってくれるお嬢と、自分を護る黒髪の男だけ。

誰も自分を傷つけようなどとしていない。

恐ろしいものなんて何ひとつ存在しない。


分かっている。

分かっているのに、心が、身体が、恐怖に支配されて止められない。


お嬢が、もう一度だけ宥めようとそっと手を伸ばしかける。

その微かな気配だけで、皇女の身体が強張った。

お嬢の手が、切なさそうに空間で止まる。

誰も、触れることすら許されない。

皇女はきゅっと胸元を握りしめた。


「……やだ」


弱々しく呟く。


「やだ……やだ……」


そして、ふと涙に濡れた顔を上げた。


お嬢。

護衛の男。

そして――

少し離れた静寂の中に立ち尽くしている少年へと視線を注ぐ。


「……かいちゃん」


悲鳴のような声で、その名を呼んだ。

かいが静かに顔を上げる。


「ん」


皇女は、縋るように手を伸ばした。

かいが静歩で近づいてくる。

その迷いのない姿を目に捉えているうちに、

皇女の乱れていた呼吸が少しずつ変化し始めた。

かいが、皇女のすぐ前に静かにしゃがみ込む。


そっと、手を伸ばす。

皇女は、その温もりを求めて手を強く握り返した。

――その瞬間。

皇女の胸を押し潰していたドロリとした何かが、

激しい濁流となってかいの中へと流れ込んでいった。


正体不明の強烈な恐怖。

胸を締め付ける息苦しさ。

全身を痙攣させる激しい震え。

今すぐここから逃げ出さなければ殺されるという、錯乱した感覚。


どうして皇女がそんな感情に苛まれているのか、理由は分からなかった。

けれど、かいには確かに分かっていた。


受け止められる。

自分なら、これを受け取ることができる。


かいは逃げることなく、皇女から伝わってくる悍ましい狂気を、

そのまま自分の中へと受け入れ、収め替えていく。


すると、皇女の身体から過剰な緊張が少しずつ抜け落ちていった。

固く強張っていた肩がふっと下がる。

白くなるほど握りしめられていた指先が、ゆっくりと解かれていく。

浅く速かった呼吸が、次第に深く、長くなっていく。


皇女は静かに息を吐き出した。

もう一度、深く深く吐き出す。

全身を苛んでいた震えが、嘘のように引いていった。

皇女はそっと目を閉じた。

しばらくの間、誰も一言も発しなかった。

静寂だけが廊下を包み込む。


やがて、皇女が静かに目を開けた。

周囲をそっと見回す。

さっきまで未知の恐怖を探し求めていた眼差しは、

いつもの見慣れた優しい光を取り戻していた。


「……お嬢」

「なに?」

「ごめんね」

「謝る必要なんてないのよ」

「……うん」


皇女は、弱々しくも温かな笑みを浮かべた。

それから、目の前に佇む少年を見つめる。


「ありがとう、かいちゃん」

「ん」


返事はそれだけだった。

皇女は床を蹴って立ち上がった。

まだ少しだけ足元がふらつく。

お嬢が差し出した手に、今度は拒むことなく素直に身を寄せた。


その日は、それ以上何事も起こらなかった。

翌日。

皇女はいつも通りに目を覚ました。

歩き、話し、屈託なく笑った。

昨日起きた恐ろしい発作のことには、誰も触れようとしなかった。


けれど――数日後のこと。

静まり返った屋敷に、またしても何かが倒れる小さな音が響いた。

皇女の身体が、一瞬でカチリと強張った―――。


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ちょっと、物が倒れやすいお屋敷ですこと。 続きが気になるじゃない
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