五節 転移
その日は、いつもと少し違った。
皇女はいつものように、少し離れたところにいるかいへ話しかけていた。
かいもいつものように、それを静かに聞いていた。
けれど、その日の皇女はどこか違っていた。
声がいつもより小さく、細い。
話す言葉も、時折途切れてしまう。
いつもならくるくると楽しそうに動く表情も、どこか深く沈んでいた。
何かあった。
それくらいは、かいにも容易に分かった。
「……どうしたの」
かいの問いかけに、皇女が顔を上げる。
それから、溢れ出すように少しずつ話し始めた。
何があったのか。
誰に何を言われたのか。
何が嫌だったのか。
何がそれほどまでに悲しかったのか。
かいは黙って耳を傾けていた。
途中で言葉を遮ることもなければ、 自分から何かを諭したり教えようともしない。
ただ、そこにいて聞いていた。
皇女の声が、かすかに震える。
かいは少しだけ首を傾げた。
「……そういうの、僕は慣れてるよ」
何気なく、その言葉を口にした。
別に慰めようとしたわけではない。
自分なら耐えられるから任せてほしいと言いたかったわけでもない。
ただ、本当に慣れきっていた。
痛い目にあうことも。
怖い思いをすることも。
胸がすり減るような苦しいことも。
それらが自分の中に存在している状態は、
かいにとって何ら珍しいことではなかったからだ。
だから、事実としてそう言ったに過ぎなかった。
皇女はまた、ポツリポツリと胸の内を話した。
かいはそれを静かに受け止めた。
しばらくすると、皇女の声から震えがすっかり消えていた。
少しずつ、いつものように言葉の数が増えていく。
顔に鮮やかな表情が戻ってくる。
最後には、いつもの眩しい笑顔で笑っていた。
「なんか、すっきりした!」
「……そう」
皇女が元通りの元気を取り戻した。
それなら、それでよかった。
――その時だった。
かいは胸の奥底に、異質な何かが存在していることに気づいた。
「……?」
重い。
さっきまでは、影も形もなかったものだ。
胸の奥に、見知らぬ暗い重みが腰を据えるように沈んでいる。
激しく痛むわけではない。
息が詰まって倒れそうというわけでもない。
ただ、なんとなく息苦しく、重苦しい。
かいは、そっと胸元に細い手を置いた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
かいはそれ以上、深く考えようとはしなかった。
皇女はもう、屈託なく笑っている。
かいの胸には、拭いきれない重さが少しだけ残っている。
ただ、それだけのことだった。
二人とも、まだ何も知らなかった。
この短いやり取りの中で、一体何が起きてしまったのかを。
皇女の心が軽くなったことと、かいの心が重くなったことが、
深く繋がっているなんて思いもしなかった。
その能力に、名前などなかった。
発動させるための明確な手順も存在しなかった。
互いの合意も、契約の宣言すら存在しない。
ただ、皇女の抱える苦痛の言葉に耳を傾け、
「自分はそういうものに慣れている」と、何気なく口にした。
そして気がついた時には。
皇女が一人で抱えきれなかった苦痛の破片が、
静かに、かいの身体の中へと移し替えられていたのだった。
それが、すべての始まりだった―――。




