三節 受容
嫌なことをされれば、当然嫌だった。
傷つかないわけではない。
投げつけられた酷い言葉はいつまでも胸に残り、 されたことの記憶も消えてはくれない。
悲しいと心が沈むこともあれば、 理不尽さに腹が立つことだってあった。
けれど皇女の中には、感情の渦とは別に、いつもひとつの素朴な疑問が残っていた。
なんで?
なんで、この子はこんなことをするのだろう。
皇女は、純粋にそれを知りたかった。
相手を許したいわけではない。
理解して歩み寄ってあげなければならない、なんて大層なことを思っていたわけでもない。
ただ、分からなかった。
どうして、自分に対してこんな仕打ちをするのか。
背景に何があって、そんな行動に至るのか。
その本当の理由が、知りたかった。
ある日のこと。
皇女は、偶然その子の会話を耳にした。
自分に嫌なことばかりしてくるその子が、別の誰かと話していた。
自分に向けられた言葉ではない。
だから、途中で割り込むようなこともしなかった。
ただ、少し離れた静かな場所で、じっと耳を傾けていた。
兄弟がたくさんいること。
家にいても、心が休まる瞬間がないこと。
どこにも自分の居場所がないように感じていること。
家にいる間中、ずっと息が詰まりそうなこと。
皇女は何も言わず、黙って聞いていた。
そうだったんだ。
ずっと霧がかかっていたものが、少しだけ繋がった気がした。
だから、だったんだ。
それまで自分がされてきた仕打ちが、帳消しになったわけではない。
嫌だった感情が、消えてなくなったわけでもない。
刻まれた傷が癒えたわけでもない。
でも。
理由が分かった。
この子も、苦しかったんだ。
皇女は何も言わなかった。
会話に入ることもしなければ、 相手も、皇女に聞かれていたことなど知る由もない。
けれど、皇女の中でその子の存在の描かれ方が変わった。
ただの「嫌なことをしてくる子」
それだけの存在ではなくなった。
家にいると息が詰まってしまう子。
自分の居場所がないと怯えている子。
胸の中に逃げ場のない苦しみを抱えている子。
それを、知ってしまった。
次の日も、その子はいつも通り皇女に嫌なことをした。
やはり、嫌だった。
傷ついた。
それでも皇女の頭の奥には、あの日漏れ聞こえた言葉がくっきりと残っていた。
家では、息が詰まる。
そうだったんだね。
だから、皇女はその子を単純に「嫌い」という一色で塗りつぶすことができなかった。
私で、少しでも楽になるのなら。
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
自分に吐き捨てることで。
自分に何かをぶつけることで。
その子の苦しみが、ほんの少しでも和らぐのなら。
それなら、いい。
我慢を重ねることが好きだったわけではない。
傷つくことを望んでいたわけでもない。
理不尽な仕打ちをされて嬉しいはずなど、あるわけがなかった。
ただ、理由を知ってしまった。
胸の奥の苦しみを、知ってしまった。
一度知ってしまったものを、最初から知らなかったことにはできなかった。
皇女は、いつでも問いを抱いていた。
なんで?
どうして?
本当は、何があったの?
分からないものがあれば、その根底にある理由を知りたかった。
そして理由を知れば知るほど、それまでとは全く違う景色が見えてきた。
相手にも、抱えきれない事情がある。
相手にも、声にならない苦しみがある。
自分からは見えていなかった、裏側の世界がある。
それが見えてしまうと、
嫌いだから。
嫌なことをされたから。
ただそれだけの理由で、突き放して終わらせることはできなかった。
相手にその胸中を伝えることはなかった。
事情を知っていると告げることもなければ、
「気持ちは分かるよ」と知ったような顔で声をかけることもしない。
ただ、自分の中で静かに答えを見つけ出す。
そうだったんだね。
それなら。
私を身代わりにして少しでも楽になるのなら、それでいい。
それが、純粋な優しさだったのか。
あまりにも歪んだ危うさだったのか。
当時の皇女は、そんな思考を巡らせることさえしなかった。
ただ、
なんでこんなことをするのだろう。
その問いの答えが知りたかった。
そして、その答えを知ってしまえば。
その人を、ただの「悪い人」として切り捨てることなど、どうしてもできなかった―――。




