四十五節 崩壊
いつものように、警察署のロビーにあるベンチに旭は腰掛けていた。
保護者との連絡がつき、あとは身柄を引き渡されるだけの時間を待つ。
それはもう、完全に日常の一部と化していた。
しばらくすると、母親がやってきた。
疲労の色は隠せないものの、どこか平然とした、
慣れた手つきで警察官とやり取りを進めていく。
「あぁ……印鑑を置いてきてしまったので、拇印でも大丈夫ですか?」
そんな会話が交わされるほど、旭の脱走と保護は当たり前の出来事になっていた。
「では、お気持ちが落ち着かれましたらお帰りいただいて結構ですよ」
警察官はそう短く告げると、二人のそばを離れていった。
母親は旭の隣にそっと腰を下ろした。
もはや逃げる気力すら残っていない旭に向かって、声をかける。
「旭。どうしちゃったのよ、旭」
旭は何も答えない。
またあの家へと連れ戻される――
その現実を受け止めるだけで、頭の中は精一杯だった。
あの地獄のような家へ帰るくらいなら、
いっそ電車に跳ねられて消えてしまいたいとすら思った。
けれど、乗客や見知らぬ人々に迷惑がかかることだけは、どうしてもできなかった。
他人に害を及ぼすことは、旭の本意ではなかったからだ。
(お芝居が、したい――)
けれど、どこで? どうやって? 何より、
「芝居をする権利なんてない」
と言われた自分が、やりたいと望むことすら許されるのだろうか。
再び胸が激しく締め付けられ、呼吸が荒くなっていく。
(助けてほしい。夢を諦めきれないのなら、いっそ誰か殺して……!)
旭の中で苦悩が限界まで膨れ上がっていく。
脳内を過酷な思考が渦巻いていたが、表面上の旭はどこまでも静かだった。
意識はあっても、まるで意志を持たない人形のようにその場に佇んでいる。
ただ酸素を吸って吐くだけの、空っぽの抜け殻のようでもあった。
「旭、帰りましょう」
母親が言った。 旭はぴくりとも動かない。
「ここに長居してもご迷惑になるし、帰りましょう」
それでも、旭は反応を示さなかった。
母親もまた、度重なる事態に疲れ果てていた。
そして母親は、静かに旭の顔を見つめ、言葉を投げかけた。
「―――――――――」
何を言われたのか、その内容など記憶に残っていなかった。
ただ、頭の奥底に凄まじい衝撃だけが駆け抜けた。
これまでの人生で、一度も味わったことのないような激痛と衝撃。
思考の最深部で、何かがパチンと砕け散る音が聞こえた。
今まで必死に押し殺し、堰き止めてきた感情のすべてが、
一気に流れ込んでくる音がした。
ただそれだけだった。
けれどそれだけで、
旭に残されていた最後の意識を途切れさせるのには、十分すぎる激震だった。
旭編 完




