四十四節 徘徊
あの日を境に、苦しいことや耐えがたい出来事があると、
旭はフラッと吸い寄せられるように家を飛び出すようになった。
刃物を手にすることはなくなった。
その代わり、祈るような癖となって口をつく言葉が増えていった。
「……かいちゃん……」
嫌なことがあった時、その名前を呟くだけで、
ほんの少し胸が楽になる気がしたのだ。
旭は小柄な体格だった。
居酒屋に入ればごく自然に本人確認を求められるほどだ。
そんな幼く見える人間が夜中に一人で夜道を彷徨っていれば、
当然のように通報が入る。
そして、警察に補導されるのだ。
最初は母親も慌てふためき、動揺を見せていた。
けれど、出歩く回数が重なるにつれ、
周囲の眼差しと空気感が冷ややかに変わり始める。
「保護すべき哀れな対象」から、
「手間をかけさせる要注意人物」へ。
旭の写真は住んでいる市だけでなく隣接する市警察にまで共有され、
いつしか常習犯のような扱いを受けるようになっていた。
連絡先もあらかじめ共有されていたため、
警察から連絡が入るとすぐに母親が引き取りにやってくる。
そして、補導された身柄を引き渡す――
その作業のようなやり取りが、幾度となく繰り返された。
ある時は藁にもすがる思いで消防署へ駆け込んだ。
またある時は、線路の近くを目的もなくうろついているところを通報された。
そうやって愚直に、命がけで自分の居場所を獲得しようともがいていたのだ。
「私には芝居をする権利なんてない……でも、私にはどうしても諦められない……」
出口のない苦悩と葛藤が、旭の心をさらに苛み、追い詰めていく。
そしてある日を境に、旭の精神は本格的に歪み、狂い始めていった。
あの子から携帯に連絡が入るたび、体が拒絶反応を起こして悲鳴を上げた。
そのまま部屋の隅で膝を抱え、怯え続ける日も多かった。
けれど、そんなことでは次第に溢れ出る恐怖を抑えきれなくなっていく。
(逃げなきゃ……!!)
頭で意図したわけではない。それは生き延びようとする本能に近い衝動だった。
ある日、いつものように電子音が鳴り響いた。
「あ……あぁああぁあ!!」
旭は居ても立ってもいられなくなり、狂ったように外へ飛び出した。
「かいちゃん、かいちゃん……!」
涙で視界を濡らしながら、旭はすがるようにその名前を叫び続ける。
「助けて、かいちゃん!」
どれほど叫んでも、胸の重圧は軽くならない。
怖い。
どうすればいいのか、何も分からない。
「かいちゃあぁぁあぁぁん!!」
旭の悲痛な叫び声が、夜の街一帯に朗々と響き渡る。
泣き叫びながら、どこへ向かうあてもなくただ道を走り続けた。
体力が尽きると、その場に座り込んで荒い呼吸を整えた。
自分が今どこにいるのか頭では理解できても、
家へ帰る気など少しも起きない。
帰るだけの気力すら、もう残っていなかった。
旭は地面に小さくうずくまる。
しばらくすると、見慣れた警察官が旭の前に静かに立った。
相手は旭の顔をよく知っているようだったが、旭の記憶には残っていない。
ただ静かにパトカーの後部座席へと乗り込み、
全身の力を抜いて脱力しながら、家の人間が引き取りに来るのをただじっと待つ――
それが自分の役割なのだと、旭は思い知らされていた―――。




