四十三節 突破
笑いが止まらなくなって以降、旭は感情の整理がつかない日々を過ごしていた。
静かに涙を流す日も多かった。
けれど、確かな変化が足元から始まっていた。
ある日、ほんの些細な出来事をきっかけに、旭は突然泣き崩れた。
家の中で感情を表に出すことなど決して許されなかった旭が、
子供のように声を張り上げて泣き叫んだ。
舞台で培われた声量は、言うまでもなく圧倒的だった。
両親は取り乱し、必死になってそれを止めようとした。
旭の体の上にまたがり、手で強く口を覆い隠す。
それでも制することができないと分かると、口に布を噛ませた。
さらにその上から重い布団をかぶせ、押し潰すように体圧をかけた。
それは旭の苦しみを止めるためではなく、
単に外へ声が漏れるのを防ぐための執拗な処置だった。
けれど、旭の涙は止まらなかった。
力任せに押さえつけられれば押さえつけられるほど、
堰を切ったように声の限り泣き喚き続けた。
そうした状態は、旭の体力が途切れ、意識が遠のくまで続いた。
そんな荒んだ日常が繰り返されるにつれ、妹の不機嫌さは日ごとに増していった。
自分の領域へ旭が踏み込んできたという拒絶感なのか、理由は定かではない。
けれど、旭に対する当たりが暴力的に強くなったのは紛れもない事実だった。
ある夜、いつものように妹と会話を交わしていた時のことだった。
妹が些細な言動に腹を立て、突然激昂し始めた。
口にする暴言にとどまらず、拳を振るい、
足を蹴り上げ、噛みつこうとまでかかってくる。
その瞬間、これまで必死に押し殺してきた感情の制御が、
旭の中で完全に効かなくなった。
旭は衝動的にキッチンへと走った。
シンク下の扉を素早く開き、包丁を一本手にする。
刃先をスッと、妹の目の前へと突き出した。
細かな記憶は残っていない。
ただ、何かを喚き散らそうとする妹に対し、
旭はどこまでも冷ややかな一瞥をくれ、瞬時に身を翻した。
廊下を抜け、玄関の扉を押し開けて外へと飛び出した。
バタン。
重い扉が閉まった直後、旭はハッと正気に返った。
足元は裸足のまま、肌を刺す冷たい夜気。
そして右手には、鋭く光る包丁――。
顔から血の気がサッと引き、
旭は落としそうになる包丁を震える両手で固く握り直した。
こんな物を持って外へ出てしまったという事態の重さに、恐怖で足がすくんだ。
身震いしながら立ち尽くしていたが、
誰かに見つかれば取り返しのつかないことになると考え、
旭は自家の脇にある暗闇の中へ小さく身を潜めた。
しばらくして、一台のパトカーが家の前で静かに停車した。
サイレンは鳴らされていなかった。
けれど、数名の警察官が急ぎ足で家の中へと入っていく。
刃物を所持したまま娘が外へ飛び出した――
その通報だけで、現場の緊迫感は十分だった。
警察官たちはすぐさま周辺の捜索を開始した。
勢いよく飛び出したことから、
すでに遠くへ逃げ去ったと踏んでいたのかもしれない。
自ら姿を現す勇気もなく、旭は包丁を両手で抱えたまま、
暗がりの中でじっと時が過ぎるのを待った。
どれほどの時間が流れただろうか。
近隣の捜索を一通り終えた一人の警察官が、ふと家の脇の隙間に目を留めた。
暗闇の底で、小さく丸まっている旭の姿を見つけ出す。
「ここにいたぞ! 確保!」
幸いなことに、旭が誰かを傷つけることはなかったため、
事態は書類上の手続きのみで処理された。
けれど、その夜を境に、旭の胸中の認識は決定的な変容を遂げることとなる。
あぁ、外の世界に助けを求めても、いいんだ。
先刻までの恐怖は次第に引き波のように遠のき、旭の心には確かな安堵が満ちていった。
そう、家の中ではなく、外に向かって助けを求めればいいのだ―――。




