四節 好き
小学生になった旭は、学校では驚くほど活発で明るい子供だった。
リーダーシップがあり、困っている友達がいれば真っ先に守る。
それはまるで、テレビで見るアニメの主人公そのものの姿だった。
そんな旭が、心から愛していたのが動物たちだった。
亀、ハムスター、インコ。
言葉を持たない生き物たちと触れ合っている時だけは、彼女の心はひどく穏やかだった。
動物たちは絶対に、自分を裏切らないし、理不尽に傷つけてこないから。
けれどある日、言葉にならないほどショックな事件が起きた。
旭が登校した後のことだった。
母がベランダで鳥カゴを日光浴させていた際、飼っていたインコが自らカゴの隙間を開け、外の世界へと飛び去ってしまったのだ。
それは、旭が雛の時から愛情を注ぎ、大切に大切に育ててきたインコだった。
カゴを開ければ、いつも一目散に旭の肩へと飛んできてくれた、愛おしい相棒。
それが、二度と帰ってこなくなった。
(妹の飼っている鳥がカゴの開け方を覚えて、それを真似したんだ。だから、あいつら(妹と鳥)のせいだ)
そう思わずにはいられなかった。
旭のなかに、家族への黒い怒りと憎しみが静かに、けれど確実に積み重なっていく。
そんな家庭環境のなか、旭の日常はたくさんの習い事で埋め尽くされていた。
プール、ピアノ、そろばん、体操……。
けれど、その数ある習い事の中でも、彼女にとって特別だったのが「空手」だった。
きっかけは、あるテレビドラマだった。
画面の向こうで、圧倒的な強さで悪を倒す主人公の姿に目を奪われた。
(役者さんって、なんでもできるんだ。あんなに強くなれるんだ!)
「自分じゃない誰か」を演じる役者への憧れと、「誰も自分を傷つけられないくらい強くなりたい」という渇望。
そのふたつの想いに突き動かされるようにして、旭は自らの意志で、空手の道衣に袖を通した。
旭は、想像することが大好きだった。
テレビの中で動く、アニメのキャラクターたちにも夢中になった。
特に、モンスターと共に世界を旅するような冒険ファンタジーが大好きだった。
人間とモンスターが種族を超えて結ぶ、強い絆に感動し、食い入るように画面を見つめていた。
そして、その世界の裏側にある、ひとつの職業を知る。
――「声優」。
その存在に触れた瞬間、旭の身体は小さく震えた。
恐怖からではない。
胸の奥から湧き上がる、圧倒的な感動のせいだった。
姿は見えなくても、声ひとつで全ての感情を、世界を表現できる。
なんて素敵な仕事だろう。
マイクの前でなら、性別も、年齢も、種族すら超えて、何にだってなれる。
なんて素晴らしいんだろう。
だから、旭は決めた。
(私は、声優になる)
それからの旭は、国語の授業になると誰よりも積極的に手を挙げ、物語を朗読した。詩の暗唱の宿題にも、死に物狂いで取り組んだ。
役者になるなら、どんなに長いセリフだって完璧に覚えられなきゃいけないから。
学校での旭は、いつもきらきらとした笑顔を絶やさなかった。
自分の家の歪みを、誰にも知られたくなかったし、心配なんてされたくなかったから。
けれど、その完璧すぎる仮面は、やがて歪な弊害を生み出していく。
本当に体調が悪くて、身体が悲鳴を上げている時でさえ、旭の顔には「いつもの笑顔」が張り付いていた。
あまりのしんどさに耐えかねて保健室へ行っても、先生からは「そんな風に笑っていられるなら大丈夫ね」と、あっけなく教室へ帰されてしまう。
それでも、旭は笑っていた。
活発で、正義感の強い「主人公」であり続けた。
休み時間になれば、女の子をいじめる男子の前に立ちはだかり、本気で決闘を申し込むような毎日だった。
そして家に帰れば、大好きなアニメのビデオを何度も見返し、自分だけのオリジナル台本をノートに書き殴った。
セリフを書き写した紙が、部屋にたくさん積み上がっていく。
テレビの音を完全に消し、キャラクターの口の動きに合わせて、自分の声を当てる練習を繰り返した。
何度もタイミングがズレて、失敗した。
それでも、何度も、何度も、納得がいくまで声を出し続けた。
台詞が画面にピタリと嵌まるタイミングを、身体に叩き込んでいく。
ただただ楽しくて、我を忘れるほど夢中だった。
けれど――現実の、学校の勉強だけは大嫌いだった。
「また間違えたのね!」
母の冷たい声が飛んでくる。
旭は、算数が特に苦手だった。
ドリルが全部正解で埋まるまで、母は張り付いたように旭のそばを離れなかった。
視界が涙で滲み、ノートが濡れても、泣きながら鉛筆を動かし続けた。
必死に耐えて、テストでなんとか良い点数を取ってきた日もあった。けれど、母は褒めてなどくれなかった。
「あんなに付きっきりで一緒にやったのに、これしかできなかったの?」
(私は、これでも一生懸命頑張ったのに)
旭はきゅっと唇を噛み締め、心のシャッターをまたひとつ、静かに下ろした。




