三十二節 侵食
救急車のサイレンが止まった。 チャイムが鳴る。
「こちらです」
旭は救急隊員を部屋へ案内する。
応急処置が行われ、同伴を求められた。
必要なものを手にとり、救急車に乗り込んだ。
病院で長い時間待たされた。
どれほどの刻が流れたのかは覚えていない。
名前を呼ばれて中へ入ると、その子の容態は少し落ち着いていた。
原因は、不明。
「とりあえず痛みが強かったため、鎮痛剤を投与しました」
医師から説明を受ける。
原因が突き止められない以上、それ以上の対処のしようがなかった。
処方された痛み止めを受け取り、旭とその子は家へと戻った。
けれど、何日経っても頭痛が治まる気配はなかった。
家事も仕事も互いに分担するはずだった計画は、
次第にすべて旭の手へと委ねられていく。
経済的な面でも、確実に負担が重くのしかかった。
救急の診療費は、決して軽くない痛手だった。
健康には代えられない。それでも、一向に良くはならない。
劇団に通うことも、家事をこなすことも、バイトをすることも、
彼女の介助をすることも、すべてが旭の果たすべき役割となっていった。
少しずつ己の世界が狭まりつつあることに、旭自身は気づいていなかった。
その子にも、体調のいい日はあった。
そうした日には言葉を交わし、笑い合うこともできた。
互いの好きなものについて語り合うこともできた。
けれど、できなくなることは着実に増えていた。
外出すること、働くこと、
その子自身が社会へと踏み出す機会が、削ぎ落とされていく。
そしてある日、稽古を終えて遅く帰宅した旭に向かって、その子は言い放った。
「私より、芝居が大事なの?」
「……え?」
旭にとって芝居がどれほどかけがえのないものか、
これまで何度も話してきたはずだった。
それを知り抜いた上で、彼女はその言葉を口にしたのだった。
「ねぇ、どうなの?」
彼女は返答を急かすように問い重ねる。
唐突な問いを前に、旭は言葉を失い、ただ呆然と立ちつくしていた―――。




