二十七節 道程
春になった。
中学生の頃から待ち侘びていた専門学校の門をくぐる時がやってきた。
旭は胸を高鳴らせながら、期待に膨らんでいた。
生活の景色は、これまでと一変した。
朝早くに電車へ乗り込み、新宿へと向かう。
そこから徒歩で校舎まで通った。
地下鉄を使えば近くまで行けたが、定期代を少しでも抑えたかったからだ。
これ以上、余計な負担をかけたくはなかった。
校舎は二棟に分かれており、
遠い方の校舎は駅から歩いて五十分ほどの距離があった。
旭はそれを苦にもせず、毎日歩き通した。
一年生の必須クラスでは、舞台の基礎を叩き込まれた。
六十分の身体づくり、三十分の台本稽古。そんな日々。
それ以外の時間は、自ら選んだ選択科目を履修していった。
用意された項目は多岐にわたった。必要な単位もあったが、
時間割に合わせて取るか否かを選択することの方が、
旭にはむしろ難しく感じられた。
それでも基礎レッスンは、難なくこなしてみせた。
体を動かすことも、文章を読むことも好きだった。
コンタクトレンズに変えてから焦点が定まりにくく、
文章が読みづらいこともあったが、発声や滑舌の練習を怠ることはなかった
。
旭の毎日は、生き生きと輝いていた。
大好きな芝居がすぐそばにある。
ただそれだけで、心から楽しかった。
特に強く印象に残ったのは、講談の授業だった。
周囲が独特のリズムや台詞を覚えられずに苦戦する中、
旭はスムーズに身につけていった。
そしてある日、講師から声をかけられる。
「旭さん、私の教室で前座を務めてくれない?」
授業の枠を飛び越え、本物の舞台を掴み取る初めてのきっかけだった。
教室での演目を単なる課題で終わらせない。
その経験に、旭の胸は激しく高鳴った。
本番の日曜日。
年配の女性客が多い客席の袖に、講師とお弟子さんたちの姿があった。
「今日はよろしくお願いします!」
旭は元気に挨拶を交わした。
舞台に立つこと自体は、スクールで慣れていた。
けれど、講談は一人きりだ。
己の語りだけで客を惹きつける。
新しい高揚感が旭を待っていた。
緊張はなかった。
ただ、目の前の客を楽しませたかった。
拍手で迎えられ、大きな拍手に送られて退場するまで、
旭はひとりの講談師として振る舞いきった。
新しく、満ち足りた時間だった。
一年の後期、同じクラスのひとりが声優デビューを果たした。
正直、羨ましかった。
周囲と群れることなく、ただ一人で淡々と稽古に向き合う子だった。
けれど、その姿こそが正解だったのかもしれてない。
旭は仲間と切磋琢磨しながら学ぶ時間を愛していた。
だからこそ、孤独を厭わない彼女の佇まいが、どこか魅力的に映ったのだと思う。
それでも、自分は自分の道を進もうと心に決めていた。
それが、一番悔いを残さない生き方だと思えたから。
同時期、スクールでも満たされる時間が増えていった。
仲間と共にひとつの舞台を作り上げることに全力を注ぎ、
何時間も、何日も自主稽古を重ねた。
制作した作品が高く評価されたり、旭の所属するチームが即興劇で優秀賞を獲得するなど、最も華やかな日々が続いていた。
けれど、記憶の欠落や離人感は、消えずに残ったままだった。
それでも旭にとっては、それすらも日常の一部と化していた。
ノートを開き、日記としてその日の出来事を書き留めることが増えた。
あるページには、見覚えのない色のペンで、
自分の知らない一日が綴られていることもあった。
ノートの余白で、自分以外の誰かとの交換日記が始まっていた。
一年生の後半、それまで特別親しかったわけではないクラスメイトに、
不意に告白したことがあった。
「実は私、こういう状態かもしれない」
打ち明けたきっかけは覚えていない。
ただ、新宿の地下にあるファストフード店だったような気がする。
彼女は
「そうなんだ」
と言ったきり、否定も肯定もせず、ただ静かに聞いてくれた。
旭にとって、その子はいつの間にか、特別な存在になっていた。




