二十節 萌芽
高校生活が始まった。
旭は小さな心機一転として、眼鏡からコンタクトレンズへと変えた。
学校までは自転車で片道十分ほど。
雨の日も風の日も、旭は三年間絶対に自転車で通い通すと心に決めていた。
交通費で浮いたお金を、少しでも将来行く専門学校の資金に回してほしかったからだ。
母はとにかく財布の紐が硬い人だった。
家族で外食に行ってもドリンクバーは禁止され、
「水で我慢しなさい」
と言われた。
お祭りに行っても
「家で作れるんだからいらないでしょ」
と焼きそばすら買ってもらえない。
ファストフード店でも
「クーポンがあるものから選びなさい」
と、常に制限ばかりだった。
一番忘れられない出来事がある。
ある日旭が
「今日はどうしてもチキン屋さん(フライドチキン)のが食べたい」
とおねだりした時のことだ。
母は珍しく
「わかったわ」
と頷いてくれた。
胸を躍らせて帰宅すると、夕食の食卓に並んでいたのは
母が作った少し焦げた手作りの唐揚げだった。
「買ったら高いじゃない」
悪びれもなく言う母を見て、旭は心の中で叫んだ。
(だったら最初から『わかった』なんて言わないでほしい……)
そんな家庭環境だったからこそ、旭の自立心は自然と研ぎ澄まされていった。
高校での部活は、迷わず演劇部を選んだ。
先輩たちと、同級生が数人。
だが同級生たちは中学からの仲良し三人組でグループが出来上がっており、
わざわざそこに割り込む隙も、必要も感じなかった。
クラスでも徹底して目立たないように振る舞った。
中学の時のように、余計なことをしてまた居場所を失うのが怖かったのだ。
クラスメイトとは「ただの同級生」として適度な距離を保った。
けれど、部活の時間は最高に楽しかった。
発声練習、滑舌のトレーニング、台本の読み合わせ。
秋の地区大会に向けて役も与えられた。
演劇部では、舞台装置も自分たちで手作りする。
ダンボールにペンキを塗りたくり、古い木箱に見えるように何個も何個も仕上げていった。
制作の途中、舞台転換の効率が問題になった。
「どうすれば暗転の短い時間で、素早く正確に木箱を配置できるか?」
悩む部員たちの中で、旭がぽつりと提案した。
「箱の裏面に、あらかじめ配置番号を書いておくのはどうですか?」
その案は見事に採用された。
ブロックごとに『A-1』『A-2』とナンバリングされた木箱群は『Dブロック』まで及び、本番の転換スピードは劇的に向上した。
演劇の世界では、役に入りさえすれば先輩も後輩も関係なくなる。
役名で呼び合い、互いの芝居にフィードバックを送り、高め合っていく。
舞台の上では全員が対等だった。
旭にはそれが、たまらなく心地よかった。
プライベートで仲良くならなくても、同じ作品を作り上げる過程で相手を深く知っていく。
それこそが、旭の求める楽しさだった。
一年の夏の終わり。
家から二駅離れた場所に、現役の声優が運営する養成スクールがあることを知る。
プロから直接指導を受けられると知り、胸が激しく高鳴った。
旭はすぐにアルバイトを始めた。
土日だけの短時間、ファストフード店での勤務。
目的はただひとつ、スクールの入会金と月謝を自分の力で稼ぐためだ。
そして十一月。
旭はついに、スクールの扉を叩いていた。
部活とは一味違う本格的なレッスン。
滑舌のための『外郎売り』
そして何より嬉しかったアフレコのレッスン。
だが、一番の収穫は「仲間」だった。
少し先に入所していた先輩たちと、芝居を通してすぐに打ち解けた。
プライベートで遊び歩くような関係ではない。
けれど、同じ温度で芝居を語り、同じ熱量で演技をぶつけ合える。
そこだけが唯一、旭が偽りのない「自分」でいられる、奇跡のような心の拠り所だった。
高校生活は、目まぐるしく過ぎていった。
平日は学校と部活。
土日は早朝からバイト、そしてスクール。
休む暇など一秒もなかったが、旭の心はこれまでにない充足感で満たされていた。
本当に、自分にはお芝居しかなかった。
そして、演じることがもっともっと好きになっていった。
秋の大会では惜しくも上位入賞は逃したものの、審査員から
「舞台セットの木箱が本物にしか見えない素晴らしい出来栄えだった」
と絶賛された。自分たちの手で作った努力が初めて評価され、旭は飛び上がるほど嬉しかった。
あっという間に二年になり、演劇部に新しい後輩が入ってきた。
女子が多い演劇部には珍しく、男子が三人。
男役の幅が広がるのは願ってもないことだった。
その新入生の中に、一人だけ妙に気の合う男の子がいた。
他愛もない雑談から芝居の話まで、彼と話す時間は自然と増えていき、
放課後の空気に少しずつ新しい彩りが加わっていった。




