十八節 代償
旭はいつものように鏡に向かっていた。
小さかったはずの肌色は、今や十円玉ほどの大きさにまで広がっていた。
いくら髪の分け目を変えても、うっすらと地肌が透けてしまう。
それでも旭は、ひたすらに隠し続けた。
誰かに打ち明けたところで、どうせ何も変わらないと知っていたからだ。
けれどある日、ついに母に気づかれてしまう。
きっかけは些細なことだった。
透けた頭皮の不思議な感触が気になり、
無意識に何度も触ってしまうのが癖になっていたからかもしれない。
「旭……!? それ、どうしたの!?」
背後からの叫び声にハッとした。
見つかってしまった。
恐怖で頭の中が真っ白になる。
「すぐ病院に行きましょう!」
半ば強引に連れていかれた皮膚科の診察室で、医師は静かに言った。
「……円形脱毛症ですね。強い精神的ストレスが原因で発症することがあります」
「旭、なんでママに言わなかったの!?」
詰問する母に対し、旭は固く口を閉ざした。
「とりあえず頭皮に直接塗るお薬を出しておきますね」
処方箋を受け取り、病院を後にした。
その日から、母の過剰な監視が始まった。
旭がふと頭に手を伸ばそうとするだけで、金切り声が飛んでくる。
「触らないの、旭!」
無意識の癖を抑えられずにいると、母は荒々しく旭の手を弾き飛ばした。
「ほら、また! ダメでしょう!? 旭!!」
拒絶され、監視され、叩かれる手。
旭の心はさらにすり減っていった。
――ある夜、母がぽつりと呟いた。
「一体、何が原因なの……?」
何を答えたのか、旭自身も覚えていない。
親に頼ることを完全に諦めていた旭が、母にどんな言葉を返したのか――
覚えているはずもなかった。
「……そこまで追い詰められていたなんて」
母は心底ショックを受けたような顔をして言った。
「旭、部活はもう辞めていいわ」
「え……?」
すでに三年生の春。
夏の大会を残すだけの、最後のタイミングだった。
そこからの手続きはあっけなかった。
退部届が出され、その噂を聞きつけた部活の同級生数人が、
下校途中の旭を待ち伏せていた。
「旭ちゃん!!」
呼び止められ、旭は足を止めた。
「なんで……? なんで今辞めちゃうの!? 私たち、この年のためにここまで一緒に頑張ってきたじゃない! 今抜けられたらダブルスのペアが変わっちゃうの! もう時間がないんだよ!?」
(何を言っているの……? あなたたちが)
冷め切った心で旭は思っていた。
「今までのことは謝るから! だからお願い、辞めないで!!」
そう言って泣き出した同級生の姿に、猛烈な吐き気がした。
泣きたいのは、奪われ続けてきたこちら側だというのに。
まるで自分が身勝手な裏切り者にされ、相手が被害者のように振る舞う理不尽さ。
退部の本当の理由は、誰にも伝えられていなかった。
旭は黙って、頭頂部の髪をぐっと押さえ、分け目をずらした。
夕闇の中、隠されていた裸の皮膚が、生々しく晒される。
泣いていた同級生の顔からスーッと血の気が引き、絶句した。
思春期の彼女たちにとって、それはあまりにも重く、
生々しい衝撃だったに違いない。
溢れ出てくる涙をぬぐいもせず、
旭は凍りついた同級生に向かって冷ややかに言い放った。
「だったら……私の髪、返してよ」
それだけ言い捨てると、旭は二度と振り返ることなく、暗い家路を歩き出した。




