十六節 介入
その日、旭の心は重く沈んでいた。
「また試合の応援かぁ……」
遠くのテニス場までわざわざ足を運び、自分は出ない試合で先輩やレギュラーを応援する意味がどうしても分からなかった。
「実際にプレーする人だけ行けばいいのにね、シノ」
呟くと、シノが鼻をピクピクと動かして旭の顔を見つめてくれた。
毎日泣き濡らしていた目は、どれだけ笑顔を作ってみせても腫れを隠しきれなかった。
「部活に行かなきゃって思うだけで、気持ち悪くなっちゃうんだ。なんでだろうね、シノ」
そっと顔を寄せてきてくれたシノの体を撫でながら、旭は呟いた。
「ありがとう。私は、大丈夫だからね」
だが――絶望の瞬間は、突然訪れた。
「旭、最近なんだか変よ?」
ある日、母が尋ねてきた。
「……そうかな?」
旭は咄嗟に作り笑いを浮かべる。
「何か困っていることがあるなら、ママに言ってみなさい」
その温かい言葉に、旭はなぜか心を許してしまった。
縋りついてしまったのだ。
それほどまでに、旭の心は限界を迎えていたのだった。
「……実はね――」
ポロポロと打ち明けた直後、母は激しい勢いで立ち上がった。
「部活でそんな酷いことがあったのね! 〇〇ちゃんのママとはお友達だから、ママが直接言ってあげるわ! 旭、行くわよ!」
母に引っ張られるようにして、旭は部活の同級生の家の前に立たされていた。
胸の中で、嫌な予感が激しく警鐘を鳴らす。
「あら、〇〇ちゃんのママ。〇〇ちゃんにお話しがあるから、呼んでもらえる?」
突然の訪問にもかかわらず、相手の母親は同級生を玄関口に呼び出した。
そして母は、悪びれもせずに言い放った。
「うちの旭を、もういじめないでほしいの」
その瞬間、旭は母を信じてしまった自分を激しく呪った。
目の前に立つ同級生の瞳から、すっと温度が消えていくのが分かった。
「ママ、やめて……!」
耐えきれず割って入ろうとしたが、母は制した。
「ダメよ旭、こういうことは大人がはっきりさせなきゃ!」
(あぁ……やっぱり、私が馬鹿だった)
同級生の冷ややかな視線を浴びながら、旭は自分の未来がどうなるかを残酷なまでに悟っていた。
守ってくれるはずの親が、旭が必死で保っていた崩壊寸前の平和を、跡形もなく壊したのだ。
「……〇〇には、よく言い聞かせておきますから」
相手の母親の引きつった言葉で、その場は終わった。
旭はこの日、固く心に誓った。もう二度と、親になんて頼らない、と。
翌日。
部活の練習場に足を踏み入れると、肌が痛むほどの緊張感が張り詰めていた。
「あんた、チクったんだって? 親に。ふざけんじゃねえよ!」
同級生は旭を睨みつけると、これまで旭と仲良くしていた仲間たちに向かって言い放った。
「こんな奴と一緒にいるなんて正気じゃないよ。こっちのグループに来るなら、見逃してあげる」
「見逃す」が何を意味するのか、その場にいた全員が理解していた。
――旭の側にいれば、まとめて次の標的にする。
そう言っているのだ。
その日を境に、数人いた仲間はたった二人だけに減った。
小学生の頃からの深い縁があったからこそ、残ってくれたのだと思う。
友達と交わす大好きなアニメの話だけが、唯一の救いだった。
けれど、部活は苦痛でしかなかった。
テニスの上達なんてどうでもよくなり、ただ「辞めたら高校受験の成績に響く」という大人の言葉だけが頭を支配していた。
(ここで逃げ出して、高校に行けなくなったらどうしよう)
その恐怖だけが、旭を繋ぎ止めていた。
だが、家に帰ると、さらなる地獄が待っていた。
「旭、ママね。念のために顧問の先生にも、全部言っておいてあげたからね!」
誇らしげに微笑む母の前で、旭の視界は真っ暗に染まっていった。




