十五節 兆候
二年生になる頃、旭は髪を結うようになっていた。
位置は低めの二本結び。
小学生の頃は髪を梳かすことすら面倒がっていたのに、
自分で手入れをし、鏡の前で丁寧に櫛を通して髪を整えた。
鏡の中に映る旭は、いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
二年生になっても、クラスにはあまり溶け込めずにいた。
自分から何を話せばいいのか分からなかったからだ。
けれど、小学生時代からのオタク友達とは、大好きなアニメの話や、
作品に出てくる架空の文字を使った交換日記を楽しんでいた。
その輪の中でも、旭の声は良く目立った。
声が「大きい」というよりは、遠くまで「通ってしまう」声だったのだと思う。
だからこそ、心ない同級生から「オタクのくせに」と嘲笑されることもあった。
それでも旭は話し続けた。
好きな世界に浸っていたかったからだ。
友達と感想を言い合い、空想を膨らませ、物語を広げていく。
その時の旭の瞳は、眩しいほどに輝いていた。
そんなある日、友達に教えてもらった音楽が、旭の人生を激しく揺さぶる。
パソコンのスピーカーから流れてきたのは、
今まで聴いたこともない異色の音楽だった。
『――幻想物語組曲』
重厚なBGMと共に、語りが入る。
セリフが交わされ、物語が紡がれていく。
そしていつの間にか、まるでミュージカルのように美しく切ない曲へと誘われていく。
背筋がゾクゾクと震え、歌詞の言葉ひとつひとつが胸に突き刺さった。
初めて聴いたはずなのに、どこか懐かしく、どうしようもなく心が惹きつけられた。
当時の旭には「コミケ」という文化の知識もなく、
自由に動ける年齢でも、お金もなかった。
だからこそ、試聴できる短い音源を、何度も何度も繰り返し聴いた。
この頃から、旭が心に強く決めていたルールがあった。
――何があっても、体に傷は作らないこと。
表現者は、どんな役にでもなれなければいけない。
だからこそ、いつか夢を叶える日のために、自分の体を綺麗なままで保っておきたかった。
学校での日々は辛く、腕を傷つけたい衝動に駆られることは何度もあった。
けれど旭は、声優になるという夢のために、
溢れ出しそうな自傷衝動を必死で押し殺した。
その代わり、夜になると涙が止まらなくなった。
大好きなアニメの主題歌やキャラクターソング――
そんな希望に満ちあふれた曲を聴きながら、旭は布団の中で声を殺して泣き続けた。
「辛いよ、シノ……。なんで部活を辞めちゃいけないの? 私に生きる価値なんてあるの? 私は、なんでここにいるの……?」
自分が存在することの意味すら見失いそうになる夜があった。
「なんでこんな世界に見えてるの? なんでこんなに悲しいの……? ねぇ教えてよ、シノ」
語りかけても、シノは黙ったままそこにいた。
冷たく濡れていく枕に顔を埋めながら、旭は心から願った。
(明日なんて、来なければいいのに……)
けれど、自分の手で自分を傷つけることだけは、夢のために固く禁じていた。
逃げ場のない苦しみが、胸を締め付ける。
(……いっそ誰かが、私の声を取り上げてくれればいいのに。いっそ誰かが私を殺してくれたら……そうすれば、夢を諦める言い訳ができるのに)
そんな絶望を抱えながらも、朝は容赦なく訪れ、無情にも日々は過ぎていった。
――そして、ある朝のこと。
いつものように鏡の前で髪を梳かしていた旭は、頭皮に妙な違和感を覚えた。
「あれ……? ここ、髪が生えてない……?」
つむじのあたりに、小指の先ほどの小さな肌色の円が浮かび上がっていた。
(……とりあえず、隠せばいいか)
旭は分け目を少しずらし、見えないように髪を結び直した。
いつもの、低い二本結びに。




