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第85話 流るる風の跡を

 酒精アルコールを含んだ消毒液の匂いが、微かに漂う無機質な部屋。

 少し年代物の寝台に、勿朽流華は横たわっていた。


 僕、風見宙飛は彼女を起こさないよう、足音を忍ばせて部屋へ入る。

 両手には、二人分のカレーを載せた盆を持っていた。昼食を届けに来たのだが、勿朽は静かな寝息を立てている。


 わざわざ起こすこともないだろう。

 僕は盆を脇の台へ置き、寝台の傍らにある椅子へ腰掛けた。


(いつもと逆だな……)

 入学して間もない頃、訓練中に倒れた僕を保健室まで運び、目覚めるのを待っていたのは勿朽だった。

 今は僕が、眠る彼女を見守っている。


「……みたき」

 不意に、勿朽が小さな寝言を漏らした。


(みたき? 人の名前だろうか……)

 家族か、友人か。


 考えてみれば、僕は勿朽のことをほとんど知らない。

 そんなことを考えていると、勿朽が「うぅん」と小さく唸った。


 ゆっくりと目を開き、腕を寝台につく。 まだ傷が痛むのだろうか、上体を起こした際、僅かに顔を歪めた。


「風見くん……ここで何をしているの?」

 眠気の中に疑問と警戒を滲ませた顔で、勿朽が尋ねる。


「えっと、昼食ができたから持ってきたんだ」


「……そう。ありがとう」

 その時だった。


「ぐぅ」

 静かな部屋に、勿朽の腹が鳴る音が響いた。


 彼女の顔が一気に赤くなる。


「……どうぞ」

 何か気の利いた言葉を掛けた方がいいのだろうか。


 だが、こういう時に何を言えば相手の恥を軽くできるのか、家族以外の女性と碌に話した経験もない僕には分からない。穂月燐峯との会話は参考にしてはいけない気がするので、除外する。


 結局、僕は何も触れず、持ってきたカレーを差し出した。


「いただきます」

 勿朽は匙でカレーを掬い、口へ運ぶ。


 一口、二口と食べ進めていくうちに、その表情が徐々に険しくなっていった。

 額には冷や汗が滲み、目尻には薄く涙が浮かんでいる。


(そういえば、辛いって伝えるのを忘れていたな……)

 僕も自分の分のカレーを手に取り、食べ始める。


 やはり、かなり辛い。

 以前の勉強会で破竹灯に料理を振る舞われた時にも思ったが、彼の料理は非常に美味しい反面、全体的に辛味が強い。


 先ほども、満足そうにカレーを頬張る緋鞠の隣で、真神と深林坊が泣きそうな顔をしながら匙を動かしていた。


(でも、勿朽でも辛いのか)

 以前、彼女が購買で売られていた山葵寿司(なんでそんなものが売っている?)を、美味しそうに食べているのを見たことがある。

(まあ、山葵と唐辛子の辛さは別物か……)


「女性が食事をするところを、じろじろ見るのはマナー違反だよ」

 勿朽が頬を赤くしたまま言った。

 照れているのか、カレーの辛さによるものなのかは判断できない。


「あっ、ごめんなさい」

 僕は慌てて視線を逸らす。


「そうだ。飲み物でも持ってこようか。何がいい?」


「じゃあ、トマトジュース。なければ何でもいいよ」


「了解」

 僕は椅子から立ち上がる。


 無表情で冷淡に見えるのに、勿朽の感情は、よく見れば案外その顔に表れている。


(みたき、か……)

 あれは誰の名前なのだろう。


 彼女がどんな境遇を経てきたのかも、人より傷の治りが早い理由も、僕は何一つ知らない。


 そんなことを考えながら、僕は部屋を後にした。

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