第45話 溶けない氷
おれ、折霜涼と錬次、宙飛の三人が筑波山に登って、一時間ほどが経った。
登山道を外れ、獣道を進んでいく。
狐雹が動かす探妖計の反応は、山の奥へ進むほど強くなっていた。
「ねぇ、何か聞こえない?」
宙飛が足を止める。
「誰かの足音かな。それと、大きな物体が跳ねる音。……追いかけられてる?」
その言葉に、錬次がおれを見る。
「急ぐぞ。どっちだ、涼!」
おれは探妖計の指す方向へ駆け出した。
「こっちだ!」
走り出してすぐ、おれにもその音が聞こえてきた。
枝を折る音。土を蹴る足音。
それから、地面を跳ねる、重く湿った音。
音の方へ目を凝らすと、フードを被った女性が走っているのが見えた。
その後ろから、巨大な影が迫っている。
その光景に、おれの足がすくんだ。
次の瞬間、おれの背後から二人が飛び出す。
宙飛が左から迂回し、風を纏わせた忍者刀を手に駆けていく。
錬次が右から迂回し、炎を纏わせた日本刀を手に駆けていく。
二人は同時に、巨体へと斬撃を浴びせた。
しかし、巨体は身震いをしただけで、左右の刀を弾き飛ばす。
(間違いない。こいつが目的の蝦蟇だ)
そこでようやく、おれもその巨体の正体を見た。
青みがかった粘液に覆われたヒキガエル。
身の丈は、縦も横も高さも、おれの身長ほどはある。
頭部には角のような突起があり、濡れた光を怪しく反射していた。
「た、助けて……」
蝦蟇に追われていた女性が、おれに縋り付いてくる。
その瞬間、蝦蟇の口がわずかに開いた。
「きゃっ!」
考えるより先に、おれは女性を突き飛ばしていた。
「ぐっ……!」
彼女が声を上げるのと、おれの肩に衝撃が走るのは同時だった。
蝦蟇の舌が、おれの肩を打ち据えていた。
湿った鞭のような一撃に、体勢が崩れる。
「大丈夫か、涼! なんで氷で防がないんだよ!」
宙飛の声が飛ぶ。
「ちっ、涼の悪癖が出たか」
錬次が舌打ちする。
「あいつは一般人の前じゃ、忍術が使えないんだよ!」
使えない。錬次の言葉が、胸の奥に刺さった。
違う。使わないだけだ。
そう言い返そうとして、指先に冷気を集めようとする。
けれど、何も起こらなかった。
喉の奥が詰まる。手のひらが汗ばむ。
蝦蟇の姿ではなく、別の光景が視界に重なった。
小学三年生の頃。おれは、クラスの中心にいた。
明るくて、正義感が強くて、何でもできるような気でいた。
あの日までは。
上級生たちが、おれのクラスメイトをいじめていた。
よくある話だ。ありふれた学校の風景。
ただ、おれだけが普通じゃなかった。
見過ごせなかった。だから立ち向かった。
親から固く禁じられていた忍術を使って。
上級生たちは、全員病院送りになった。
彼らがおれを見る目は、化け物を見るそれだった。
それは、まだいい。
問題は、助けたはずのクラスメイトまで、同じ目でおれを見ていたことだ。
その瞬間、おれの心は折れた。
両親は、約束を破ったおれを叱らなかった。
叱れなかったのだと思う。
そのくらい、おれは酷い顔をしていたのだろう。
言われなくても、もう人前で忍術を使う気にはなれなかった。
それどころか、忍びではない人間がいる場所では、どんな軽微な忍術さえ発動できなくなってしまった。
指先が冷たい。なのに、氷は生まれなかった。




