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第42話 笠間稲荷

 8月1日の月曜日。実家に戻っていた僕、風見宙飛かざみそらとは、早朝の畦道を走っていた。


 先日、玄の間で見た文章が、まだ頭から離れない。

 勿朽家。玄冬家。贄。

 焦る気持ちはある。けれど、そのために何をすべきか、今の僕には分からない。

 だから僕は、とりあえず走ることにした。


「ふっ、ふっ、ふっ」

 走っていると、とある家の庭から、馴染みのある暑苦しい声が聞こえてきて、僕は思わず立ち止まる。


「……何してんの、涼?」

 塀越しに庭を覗くと、紺色の短髪を持つ少年、折霜涼おりしもりょうが、汗だくで腕立て伏せをしていた。


「見りゃ分かんだろ。鍛えてんだよ」

 僕が訊きたかったのは、なぜ半裸で、しかも屋外でやっているのか、だったのだが。

 まあいいか。どうでも。


「そうだ宙飛、今日暇か?」

 涼が手拭いで汗を拭きながら言う。


「別に予定はないけど」


「母さんから頼み事があるらしいんだ。それで神社に行くんだけど、宙飛も来ない?」

 面倒事の気配がするので、正直なところ気乗りはしない。

 けれど。


「涼の母親って、巫女だっけ?」


「そーだよ。うちは代々、神職の家系だし」


「……まあいいか。付き合ってやるよ」

 訊きたいことも、あるしね。




 僕と涼は、目的の神社、笠間稲荷かさまいなりに到着する。


「母さん、来たぞ」

 社の片隅にある事務所に入ると、巫女装束の女性が座って食事をしていた。

 涼の母親、折霜天泣おりしもあまなさんだ。


「あら、早かったね。あ、宙飛くんもいらっしゃい」


「お久しぶりです」

 気さくに話しかけてくる天泣に、僕は会釈する。


「二人とも朝ごはんは食べた?」

 そう言って、彼女は稲荷寿司の詰まった箱を僕らに差し出した。


「いただきまーす。ほら、宙飛も」

 涼に促され、僕も一つ貰う。


「いただきます」

 甘じょっぱいお揚げの中には、胡桃入りの酢飯が詰まっていた。

 うむ、美味。


「で、用事ってのは何だよ」

 涼は親指を舐めながら尋ねる。


「最近、筑波山つくばさん蝦蟇がまの妖が出没するみたいでね。被害が出る前に対処したい。ちょっと涼たちで退治してきてくれないかな?」

 涼の母は、お茶を啜りながら言う。


「妖退治? おれ達だけで?」


「ああ。今のところ、大した被害は出ていない。けれど、放っておけば面倒なことになる。涼も高校生になったんだ。そろそろ実地の経験を積んでおいて損はないだろう?」


「まあ、そうだな。宙飛もいいか?」

 涼の問いに、僕は少し思案して答える。


「僕は構わないけど、そういうことなら錬次も誘おうよ」


「ん、そうだな」


「ありがとう、助かるよ。この紙に詳細が書いてある。そうだ、倒した蝦蟇のイボは採取してきてくれないか。蟾酥せんそという生薬の材料になるからね」

 母親からの追加の要求にげんなりする涼を尻目に、僕は穂月錬次ほづきれんじに電話を掛ける。


『もしもし、どうした宙飛?』


「錬次、今日は何か予定ある? 筑波山に蝦蟇の妖を退治しに行くんだけど、一緒にどう?」


『何だそりゃ? よく分からないな。でもまあ予定はないし、行くよ』


「じゃあ、涼が家まで迎えに行くから、準備しといて」

 そう言って僕は電話を切る。

 すると、涼が不満げな視線をこちらへ向けていた。


「おれが行くのか?」


「当たり前だろ。お前が受けた依頼なんだし。僕は蟾酥を採る準備をしているよ」


 涼はぶつぶつ文句を言いながらも、結局は事務所を出ていった。

 その背中が見えなくなったのを確認してから、僕は涼の母親へと向き直る。

 稲荷寿司の甘さが、まだ舌の上に残っていた。


 さて。本題に入ろう。

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