追憶 一度目の“彼”
暗いです。さっと読んで下さい。
僕は、この世界が大嫌いだった。
この世界は僕にとって、悲しみだけしかなかったからだ。
日常が、痛みと苦しみしかなかった。
僕を産んだ女は僕の全てが気に入らないようで、常に暴力を振るった。殴って蹴って物を投げて、ヒステリックに喚き叫ぶ。
時折、父親だという男が家に来て女の暴力に加わり、嗤いながら僕を罵りいたぶっていった。
時間を問わず、女はふらりと外に出ていく。僕は外に出ることを許されず、部屋の中に閉じ込められていた。
だから僕にとって世界とは、この汚く薄暗い小さな部屋だった。
ある時、知らない大人が二人、家に来た。その大人は“小さな世界”から僕を連れ出し、温かい場所に連れていった。後から女がやって来て、沢山の知らない大人と話をして一人で帰っていった。
僕はその様子を、温かい場所からただ見ていた。
知らない大人達は皆優しかったが、僕は何故ここにいるのかよく意味が解らず、ただ呆然とし恐怖を抱いていた。
僕はその場所で数日を過ごし、また女のところに戻された。
僕が戻った時、女はいつにも増して機嫌が悪かった。女は、いつも以上に暴力を振るった。
――お前のせいで恥をかいた。
女は暴力を振るいながらそう言った。顔は醜く歪み、およそ人間には見えず、自分とは違う“別のイキモノ”になったんだ、と僕は本気で思った。
僕には女の言葉は理解できなかったが、女が恐ろしかったので、いつも通り大人しくして終わりを望んだ。
それから時々知らない大人が来て、あの温かい場所に連れていかれたが、戻る度に女が“別のイキモノ”へと変わり恐ろしくなるので、僕は行きたくはなかった。
暖かい場所にいる知らない大人達にはそれが分からないらしく、時折僕の前に現れては女を変えていった。
そんな風に僕の世界は、暴力で満ちていた。
僕には、幼い頃の記憶はほとんどない。家からは出られなかったし、いつも目の周りが腫れていて見えづらかったせいだと思う。
でも、それでも構わなかった。特に今までの僕に意味など無かったし、これからもないだろうと、思っていた。
痛みも苦しみも悲しみも、いつしか感じなくなっていた……。
けれど、“彼女”との出会いで全てが変わった。
白黒だった世界に、暖かい光が差し、色がついた。
彼女も僕と似ていた。
彼女の親は、子供に無関心な親だった。生活費を渡す為だけに帰ってくる、そんな親だった。
彼女は家から閉め出され、公園のベンチで座っていた僕に声をかけ、たどたどしい言葉を聞くと家に連れていった。
そしてそのまま、彼女の家で夜を明かした。
今改めて思うといけないことだったのだろうが、女のもとに帰りたくなかった僕は、彼女に甘えてしまった。
それからは時々、家から閉め出された日は公園に行き、彼女が居たら彼女の家で寄り添って過ごした。
誰にも知られないように……。
そうして時が流れ、小中高と学校には通った。
あの女は相変わらずで、彼女の親も変わらなかった。
女は成長し身体が大きくなった僕に、まるで自分を誇示するように暴力を振るった。いつからか、女の瞳に“恐怖”が見え隠れして見えていた。
そのことに僕は気付いてはいたが、既に僕には抵抗する感情や意思など無かった。女のことなど、等の昔にどうでもよくなっていたからだ。
僕と彼女を取り巻く世界は変わらず、ただ僕達だけが変わった。
ずっと二人でいた。お互いの存在が必要で、全てだった。それは“依存”と呼ぶものだったのかもしれないけれど、僕達はそれでよかった。
僕は彼女を愛していた。
彼女も僕を愛してくれていた。
――高校を卒業したらこの地を離れよう。
そう、約束をした。
けれど、その約束が果たされることはなかった。
卒業式を明日に控えた夜、僕は最後の確認の為、彼女の家を訪れた。
彼女に貰った合鍵を使って、家に入った。
彼女の家のリビングの中の光景が目に入った瞬間、僕の頭は理解することを拒絶した。
彼女が床に倒れている。
彼女はうつ伏せで、腹部を抑えるように倒れていた。そこから大量の赤いナニかが流れ、彼女の制服の白いブラウスと床を濡らしていた。
彼女のすぐ横には、あの女が立っていた。手と手に握っている包丁は赤く染まっていて、服にも赤が飛び散っている。
女は僕に気付き、狂気を孕んだ瞳で嗤った。
――お前だけ幸せになることは許さない。
その言葉が耳に届くと同時に、身体に軽い衝撃が走った。下を見れば、女が握っていた包丁が、胸に深々と刺さっていた。
あぁ、刺されたのか、と他人事のように思った。
女は僕を突き飛ばして、そのままの姿で外に走っていった。
僕は突き飛ばされて壁にぶつかったが、最後に彼女に触れたくて、ふらつく身体を動かして彼女の傍らに座り、彼女の顔を覗き込む。
彼女は、穏やかな顔で微笑んでいた。
彼女が苦しんでいない事に安心して、彼女の頬を撫でる。彼女の身体にはまだ微かに温もりが残っていて、ただ穏やかに寝ているようにも見えるけれど、そこに生命は感じられなかった………。
涙が頬を伝う。
僕は彼女に出逢って、失っていた感情を取り戻していった。ただ感情が動くのは、彼女に関してのみだったけれど。
その中で、“泣くこと”が今までどうしても出来なかった。“悲しみ”はあっても、涙を流すことなんて出来なかった。
だから僕の代わりに、いつも彼女が涙を流していた。
不謹慎だけれど、僕はその涙がとても愛しかった。
僕は今、泣いている。
涙を流している。
やっぱり、僕の感情を動かせるのは彼女だけなんだ、と場違いな笑みが口元に浮かんだ。
彼女の頬を撫で続けて、静かに瞳を閉ざす――
僕はこの世界が大嫌いだった。
そして、僕の【唯一】を奪った世界に絶望する。
これが、僕の一度目の人生だ………。
読んで頂いてありがとうございました。




