第8章 運命の同舟
帆に風が入らなくなったのは、島を出て三日目の夜だった。波は穏やかで、小舟はただ黒い海の上に浮かんでいるだけだった。帆は垂れ下がり、きしむ音すらしない。
「・・・止まったな」
マルコが星空を見上げて言った。クンタも同じように空を見た。雲はなく、手に届きそうなほど星が近い。ただ二人の小舟を照らす月だけが、エネルギーに満ち溢れていた。
しばらく二人は何も言わなかったが、やがてマルコがぽつりと口を開いた。
「父も・・・こういう夜に、星を見ていたんだろうな」
クンタは黙って聞いている。
「船乗りだった。帰ってこなかったけどな」
「・・・海、奪う」
「ああ。でも同時に、与えるとも言ってた」
マルコは小さく笑った。
「意味なんて、わからなかったよ」
しばらく沈黙が続く。
やがてクンタが、ゆっくりと言った。
「ワタシの父・・・戦士」
「戦士?」
「強い。でも・・・負けた。捕まる。ワタシ、売られた」
クンタの声は平坦だった。
だが、その奥には重いものが沈んでいる。
「父、言った。“生きること、戦い”」
「もう、君は自由だよ」
「違う、アベベは自由になった。ワタシ、まだ戦う」
「アベベとは、ずっと友達だったのか?」
「アベベ、東から来た船、乗ってた。ワタシの国で、捨てられた。奴隷市場で知り合った」
「・・・・・・」
マルコは何も言えなくなった。するとクンタは、
「この船、名前、付けたい!」
元気な声で、突然言い出した。
「なんて名付けたい?」
「“アベベ”。自由の船・・・」
二人は再び夜空を見上げた。別々に同じ星を見ながら、違う人生を歩んできた。
だがその夜、初めて同じ場所にいると感じていた。
数日後、空が一変した。風が強くなり、見る見るうちに陽は黒い雲に覆われた。
「来るぞ!」
マルコの叫びと同時に、風が唸りを上げた。帆が裂けそうなほど膨らみ、小舟が跳ねる。
マルコは力いっぱいロープをつかんだが、風をはらんだ帆を引き寄せることができない。
「あぶない、帆、下すか?」
「それじゃだめだ。方向転換ができなくなる!」
「でも、これ、危険」
「帆を巻き上げるんだ!」
「どこまで?」
「四分の一にしよう!」
「四ぶんの・・・?」
「半分の半分だ。帆を小さくしよう!」
「わかった!」
だが次の瞬間、横から波が叩きつけ、船体が傾いた。
「ぐっ!」
マルコの体は弾かれ、船縁に叩きつけられる。その時、手をかけていたロープが滑った。緩んだ帆が大きくはためく。
(まずい・・・)
その瞬間、クンタがロープに飛びついた。そしてロープを、その強靭な体に巻きつけるようにして、全体重で押さえ込んだ。
「マルコさん! 立て!」
だがマルコは立てない。呼吸が乱れている。もう次の波が来る。クンタは一瞬だけ迷い、そして叫んだ。
「ロープ、任せろ!」
自分の腕に食い込むロープをさらに巻きつけると、クンタは歯を食いしばった。大波が来る。
「風に逆らうな! 波に向けるんだ」
マルコは何とか起き上がり、クンタに指示を出した。そして、なんとか船尾の舵取り用のラダーを、つかむことができた。
しかし、船が再び大きく傾いた。それでも、クンタはロープは放さない。島で急ごしらえしたマストは、ぎしぎしと大きな音をたてた。マルコは歯を食いしばり、力いっぱいラダーを操作し、舳先をなんとか、迫りくる大波にむけた。
「今だ、帆を巻け!」
マルコが叫ぶと、クンタは這うようにして動いた。そして二人が震える手で帆を巻き上げると、風がすり抜けていった。その後、船のきしみはわずかに収まった。
粗いロープを巻き付けていたクンタの体からは、血がにじんでいる。
「大丈夫か!」
マルコが息を切らしながら言う。クンタは短くうなずいた。
「死なない」
その一言が、妙に重く響いた。その晩、二人は嵐と、何時間も死闘を繰り広げるのだった。
嵐が去ったあと、空には昇る朝日以外、何も残らなかった。ただ、縫い目が避けて垂れ下がった帆と、疲れきった二人。床下のワインと水の瓶は、あらかた割れてしまっていた。
その時、小舟の上に、一羽の大きな鳥が落ちてきた。渡り鳥だった。マルコがそっと抱き上げようとしても、その鳥は抵抗しなかった。
「・・・だいぶ弱ってるな」
クンタはじっと見ていた。
「大きな鳥、海に。見たことない」
「カツオドリだよ。島々を移動するんだけど、昨日の嵐で翼を痛めたようだな」
「食べる、できる」
「いや」
マルコは首を振った。
「まだ生きてる」
マルコは黙って、片翼と胴体を布で巻いて、固定してやった。
「治る、思う?」
「わからない。でも・・・」
マルコは言葉を探した。
「見捨てるのは、違う気がする」
クンタは何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。




