第10章 欺瞞に満ちた故郷
二か月の時を経て、マルコは無事、故郷の港に帰ることができた。そして、あの大きな貿易船『サンタ・アナ号』唯一の生き残りとして、一躍脚光を浴びることとなった。
「マルコさん。新聞社の者です。漂流中の出来事を取材させてください!」
「いや、マルコさん! 手記を出版しましょう! きっと大売れしますよ!」
「マルコ様! お持ちの財宝を是非うちの銀行へ!」
「マルコよ。すべては神の思し召し。それは教会に寄付すべきものだ」
マルコはあまりの注目ぶりに、いささか困惑したこともあり、暫くはサンタ・アナ号での出来事を、誰にも告白できずにいた。
港のドックには、サンタ・アナ号より、さらに大きな船が建造中だった。それもまた、船主はフランコである。サンタ・アナを失ってもなお、奴隷ビジネスを、なんとしてでも成功させようとしているようだ。それを知ったマルコは、殺された船員たちの無念を思い、ついに勇気を振り絞って裁判所に告発したのだが。
「裁判長、マルコ氏の言う事は、全くもって荒唐無稽であります。サンタ・アナ号が貨物を運んでいなかったなど、船主としてフランコ氏の認識ではありえないことだと・・・」
証言台に立つマルコに、フランコの弁護人が厳しく追及する。
「でも確かに、奴隷を五百人輸送する計画だったと、船長が話していたのを僕は聞きました」
「おいおい、待ってくれたまえ、マルコ君。ワシの船は、奴隷運搬船ではないのだよ。そのようなこと、あるはずがない!」
「静粛に!」
裁判長はガベル(木槌)を叩いた。
「事実、復路では奴隷をどれくらい乗せていたのか、マルコ氏は知っていましたか?」
「いいえ、裁判長。僕は正確な人数は知りません。しかし三十人程度が荷室に入れられていたようです」
「フランコ氏、もし無届で奴隷を輸送したとなると、それは大きな罪になりますが、何か申し開きされることはありますか?」
「裁判長、奴隷を非合法に運ぶなどありえません。三十くらいの人数なら、きっと現地で採用した人夫の数ですな。あれだけ大きな船です。荷物も多いので、それくらいは追加で必要になったのでしょう」
「マルコ氏、サンタ・アナ号に火を放ったのは、“あなた自身”で間違いないですな?」
「裁判長、あれは海賊に襲われて・・・」
言葉を濁した。マルコ自身も放火犯としての被告なのである。
「あれは、ワシの母の名を冠した大事な船だった・・・しかしマルコ君、君は海賊の襲撃から、仲間を守ろうとしてくれたんだね。それは理解しておるよ」
「では、海賊が船を襲撃し、乗員を皆殺しにしたという事で間違いないですな」
「いいえ、違います裁判長。それは監査官が・・・」
「なあ、監査官がどこの誰だったのか、警護士が何者だったのか、何も記録が無いのだから・・・」
フランコはマルコを諭すように、穏やかに言った。
「では船主であるフランコ氏は、その監査官の乗船を知らなかったという事で、間違いはないですか?」
「ワシは全くもって、そのような人物は存じ上げません。裁判長」
フランコは涼しい顔をして、そう答えた。
「まっ、待ってください! 証人がいます」
「マルコ氏、その証人とは誰ですか?」
裁判長は、静かに落ち着いた声でマルコに訊いた。
「僕と一緒に生還した男です。彼はサンタ・アナ号に奴隷として乗せられていました」
「なんだと! マルコ君、他に生き残りがいるというのか?」
「そうです。フランコさん。彼も監査官を見ています」
裁判は中断し、裁判長は傍らの役人たちと、何やら念入りに話し合いを行った。
(これで、監査官の犯罪を公にすることができる。殺された船乗りたちの無念も少しは・・・)
やがて裁判長は前に向きなおり、ガベルを2回叩いた。
「奴隷を証人として召喚することを、却下します!」
マルコは愕然とした。それでもなんとか、証言台の上で踏みとどまった。
「マルコ氏、他に申し述べることはありますかな?」
視線の先には裁判長、その奥には無表情な役人たち。そして傍聴席の隅、柱の影に立つクンタの姿があった。彼と目が合った。何も語らないその瞳が、あの夜の炎と、波の音と、首にかけたロープの重みを思い出させた。
(ここで全部を話せば・・・)
喉の奥がひりついた。監査官の悪行も、船の中で起きたことも、すべてを暴けば、いくらかの正しさは証明できるだろう。だが同時に、記録に残らない“もう一つの事実”も掘り起こされる。自分が火を放ったこと。自分が人を殺したこと。そして・・・奴隷として連れてこられた彼が、今そこに立っているということ。
(クンタは、また鎖につながれてしまう)
その想像だけで、胸の奥が鈍く痛んだ。海はすべてを奪う、と父は言った。だが、あの海は確かに一つ、与えていたものがある。命だ。目の前にいるこの男の、そして自分の。
「マルコ氏、答えなさい」
裁判長の声が落ちてくる。マルコはゆっくりと息を吸った。乾いた空気が肺を満たす。あの日、砂浜で取り戻した呼吸と同じだった。
「・・・襲撃したのは、海賊です」
言葉は、驚くほど静かに出た。
「船は炎上し、乗員の多くが殺されました。僕は・・・混乱の中で海に飛び込み、ただ生き延びただけです」
口にした瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。それでも彼は、真実を話さなかった。正義などない。嘘ばかりがそこにあった。そして自分もまた嘘を言うことで、守ることができるものがあった。
沈黙が法廷を満たす。やがて記録官の羽ペンが走る音だけが響いた。判決の言葉は、遠くから聞こえる波のように曖昧だった。無罪、証拠不十分、記録なし・・・もう、どうでもよかった。それでもただ一つ、守れたものがある。
法廷を出ると、冷たい風が吹いた。石段の下で、クンタが待っていた。
「マルコさん」
短い呼びかけ。マルコは少しだけ笑った。
「終わったよ」
クンタはしばらく彼を見つめ、それからゆっくりとうなずいた。
「あなた・・・言わない」
「・・・ああ」
それ以上の言葉は要らなかった。二人は並んで歩き出した。遠くに海が見える。あの穏やかな椰子の木はここにはない。それでも、あの島で交わした沈黙と同じものが、二人の間にあった。
鼓膜を突き刺すような、重い鉄のきしむ音に、マルコは一度だけ振り返り、まさに閉ざされようとする扉を見た。そこには真実が置き去りにされている。だが彼は、後戻りできなかった。
(これでいい)
そう思うように、自分に言い聞かせていた。
海は、すべてを奪う。そして、選ばれた嘘だけを残すのだ。
マルコの仲間の船乗りや奴隷たちは、海賊に殺されたのか、はたまた沈没して溺れてしまったのか、もう知る由もなかった。今となっては、それだけが心残りだ。




