第二話「北の町」
次の日の朝。宿屋を出た二人は準備を済ませて城下町の門前で落ち合った。
「ちなみに今日はどこに行くか決めているのか?」
「はい。一度故郷に戻ってこれからの事を考えようと思ったのですがよろしいでしょうか?」
「構わない。むしろどこに行くか聞いていなかったからな。」
「すみません。昨日は酔ってしまって……」
二人は笑いあった。そして二人は馬車を確保して北の街へと向かうのだった。
「故郷に帰るなんていつぶりかしら。もう五年近くは帰っていない気がするわ。」
マリーナは馬車の外の景色を覗きながら独り言を呟いていた。一方でレオンはというとずっと俯いていた。
___いい加減にしないか若造!騎士団はお前一人の都合で動かすものではないんだぞ!
___あっれぇ?若くて実力あるエリートの僕にそんな態度取っちゃっていいのかなぁ?
___お前……!
___おっと?その顔はギルドマスターの息子である僕にその拳を振るう気かな?
___ぐっ……!
___ふっ!これだからおっさんは嫌なんだよなあ。そんな固い思考だと、若い才能の芽を潰しちゃうぜ?そんな怖い顔してる暇あったらさっさと引退してくださいなぁ〜。
「……さん。」
「……」
「レオンさん?」
「……なんだ?」
「大丈夫ですか?なんだか険しい顔していますけど。」
「……すまない。少し考え事をしていただけだ。」
「でも、顔色が悪いですよ?」
「大丈夫だ。」
そう言ってレオンは再び視線を窓に向けた。
(ああは言ったものの、やはり考えてしまうと気分が沈むな……)
◇
数時間後。レオンとマリーナの乗った馬車は北の街に到着した。二人は馬車を降りるとマリーナの案内で街の中へと入っていった。北の街は南の城下町程ではないが、人々の行き交いも活発でとても賑わっていた。
「結構盛んだな。」
「北の山脈で採掘された鉱石などの輸送ルートの一つですし、それに北の森林地帯にあるダンジョンから持ち帰られた素材も扱っているんです。」
「ほう。ダンジョンか。」
レオンは興味を持った。ダンジョンの多くは王城や城下町を始め各地の要所にはあるが、レオンの住んでいた地域にダンジョンは存在せず騎士団の任務でも訪れたことがなかった。
「まずは大教会へ行きましょう。神官様に久しぶりにご挨拶したいですし。」
「神官か。どんな人なんだ?」
「優しくて知識のある女性なんです。聖職者としての腕も素晴らしくて私も色々教えていただきました。」
「なるほど。」
そして二人は北の街の大教会へと向かって歩き始めた。
「あらあら?もしかしてマリーナちゃんじゃないの?」
歩いていると前方から二人よりも年配の女性が歩いてきた。
「ローズおばさん!ご無沙汰しております。」
マリーナは嬉しそうに返事をするとその女性に駆け寄った。レオンは二人の様子を見守っている。
「まぁまぁ!見違えるほど美しくなって!あれからどうだったの?ハイラルド君はどうしたの?」
「それが色々ありまして……」
マリーナはローズと会話を始めた。二人の会話によるとどうやらマリーナとこのローズと言う名前の女性は昔からの付き合いらしい。レオンは静かに聞き耳を立てて二人の話を聞いていた。
「そうだわ!うちで採れた新鮮な野菜を持って行きなさい!沢山あるから遠慮せずたくさん持って行って!」
「えっ!そんな……!お気持ちだけで十分です!」
「いいのいいの。ほら!」
ローズはマリーナの持っていた鞄の中に野菜を入れると笑顔で送り出した。
「あ、ありがとうございます。久しぶりなのにこんなに頂いちゃって……」
「全然構わないわよ!ところで…」
ローズはレオンの方に視線を移した。
「お連れさんはどなた?」
「俺はレオンだ。今は冒険者としてマリーナと共にパーティーを組んでいる。」
「あら!まあまあ!マリーナちゃんったら、いつの間にこんなたくましい旦那さんを見つけたの!」
ローズは両手を合わせて嬉しそうに顔を綻ばせた。その言葉にレオンは思わず咳き込みそうになり、マリーナは慌てて手を振った。
「ろ、ローズさん!違いますって!レオンさんはそういうのじゃなくて、普通にパーティーメンバーなんです!」
「ええ?そうなの?」
ローズは不思議そうな顔をして首を傾げるとマリーナは苦笑しながら否定した。そのやりとりを見てレオンは少し安堵した様子を見せた様子だった。そんな時だった。
「あーっ!マリーナだ!」
道端で遊んでいた三人の子供の一人がマリーナの姿を見つけると走り寄ってきた。突然現れた子供の登場にマリーナは驚きつつも嬉しそうに迎えた。
「久しぶり!見てない内にこんなに大きくなったのね!」
遅れて残りの二人も来た。
「マリーナもおっきくなってる!すごーい!」
「ホントだぁ!」
マリーナは三人の頭を撫でた。
「あらあら。また来てるのかいこの子達ったら。」
呆れた様子でローズが言った。
「ふふふ。」
マリーナは子供たちに囲まれて楽しそうにしていた。
レオンはそんなマリーナの様子を見て笑っていた。
(ホント人々から慕われているんだな。)
「そういえば、教会の人達はお元気かしら?」
「ああ、そういえばマリーナちゃん知らないわね。」
「え?」
マリーナが聞き返すと、ローズは暗い面持ちで答えた。
「実はね……神官のムッツ様が大病にかかっらちゃったらしいの。他のシスター達も看病をしてはいるんだけどなかなか良くならないみたい。」
「そんな……!それなら早く神官様の所に行かないと!」
ローズの話を聞いたマリーナは血相を変えて大教会へと急いで向かい始めた。レオンも駆け足でマリーナの後を付いて行った。
◇
マリーナとレオンは大教会に到着した。立派な造りの大教会の扉を開けるとそこには黒い衣装を纏った大人たちが入り口付近に立っていた。
「マリーナ様!?」
「ああ!マリーナ様が帰ってきてくれた!」
年下のシスターや僧侶達がマリーナに気づくと安心したように声を上げた。その中の年配の一人が駆け寄ってきて涙目で話し始めた。
「良かった!マリーナ様が来てくれただけでもムッツ神官はきっと喜んでくださいます……!」
「落ち着いて。早く案内してください。」
マリーナに促された僧侶はすぐに彼女を神官が居る個室へと通した。その後をレオンが付いて行くとマリーナは扉を開けて中に入った。
「ムッツ神官……」
室内に居たのはベッドに横たわり弱々しい表情で天井を見つめる初老の女性だった。周囲にシスター達が心配そうに見守る中、マリーナはムッツ神官に呼び掛けた。
「神官様?」
ムッツ神官はゆっくりと視線をマリーナに向けると驚いたように目を見開いた。
「マリーナ……!」
「お久しぶりです。」
マリーナはムッツ神官の手を握るとムッツ神官は安堵を覚えたように目を閉じた。シスターの話では数日前に大病に罹ってしまい日に日に容態が悪くなってしまったらしい。
「私は大丈夫だから、早く旅の続きにお行き……」
ムッツ神官は途切れ途切れに言った。するとマリーナはムッツ神官の額に手を当てた。
マリーナの手が触れた瞬間、ムッツ神官の眉間の深い皺が少し緩んだ。しかし彼女の呼吸はまだ浅く速く、顔色も紙のように白かった。
「もう……ダメかもしれぬ……」
「諦めないでください!」
マリーナの声には確信が籠もっていた。「かつての私はあなたから多くの事を学びその学びに旅の中で何度も救われました。今こそあなたに報いります!」
彼女は深く息を吸い込み、目を閉じて集中力を高めた。
彼女の周囲には柔らかな金色の光が漂い始め、小さな粒子のようにキラキラと輝きながら彼女の手元へ集まっていく。その光景にレオンも目を奪われた。
「ヒール・ライザ…!」
マリーナの口から紡ぎ出されたその言葉は、古文書に記された秘術だった。この魔法は並みの人間が習得することのできない極めて高度な技術であり、通常は王宮の最高位魔導師のみが扱えるようなものだった。それを彼女は自らの意志で使おうとしているのだ。
シスターたちはその光景に目を見張った。自分たちも何度となく祈りを捧げてきたが、どれだけ願っても快方には向かわなかった。しかし今目の前に広がる光景は、まさに奇跡と言えるものであった。光が増幅され、やがてムッツ神官の身体全体を包み込むと同時に空気が清浄なものへと変わっていく。室内にいた誰もがその神秘的な変化を肌で感じ取ることができた。
マリーナの全身から流れ出す聖なる光がムッツ神官に注がれていった、そして――。
「お、おお……」
ムッツ神官の呼吸が徐々に安定していき、顔色にも血の気が戻り始める。やがて小さく息を吐き出すとその表情には穏やかな息吹が宿っているようだった。
「奇跡だ……」
レオンとシスターたちはその光景に言葉を失いながらも希望を感じ始めていた。
マリーナの瞳からは自然と涙が零れ落ち、その温もりある雫は静かにムッツ神官の頬に流れていく。まるで生命の水を与えるかのように。それを受け入れるようにムッツ神官はマリーナの手をそっと握り返し微笑んだ。
「ありがとう、マリーナ。」
その一言は彼女にとって最上の答えとなった。
◇
それから数分後すっかり元気になったムッツ神官はベッドから起き上がると日光を全身で感じていた。
「ムッツ神官!いきなり起きてはなりません!」
シスター達は焦って制止しようとするがムッツ神官は気にしなかった。
「大丈夫じゃ。見てみなさいこのピンピンしたふくらはぎを!」
ムッツ神官はスクワットをしながらそう答えた。先ほどまでの病人とは別人のような回復速度に一同は戸惑うばかりであった。
「しかし、これも束の間。当分は薬草を採りに癒しの洞窟には行けないねえ……」
「癒しの洞窟に何かが起きているのですか?」
マリーナが聞くと、ムッツ神官は真面目な表情に切り替えて話し始めた。
「ちょうど一週間ぐらい前の事だったよ。薬作るためにを採りに癒しの洞窟に入ったのだけれど、そしたら危険な魔物は住んでいないはずの洞窟内に病原菌を纏った獅子が居たんだよ。わたしゃかくれんぼしてた子供達を逃がすために獅子の気をそらそうとしたら引っかかれてねえ。かすり傷だったもののさっきのざまだったんだよ。」
ムッツ神官は自分の腕を擦った。どうやらかすり傷と言っていたが重症のようだった。それにマリーナの治癒魔法で治ったとはいえ病原菌に感染していたらしい。
「その獅子はまだ洞窟内に?」
「ああ。最近は大人しいがずっと洞窟内の中央に陣取っていてねぇ。下手に刺激して暴れられたら困るし……。かといって騎士団に助けを求めようにもこんな田舎みたいな街には目もくれないみたいで申請しても却下されてしまうんだよ。」
「あいつらどこまで性根が腐っていやがるんだ…!」
話を聞いていたレオンはかつて自分と同期達で引っ張った騎士団が一瞬で腐敗している事に遺憾を覚えた。するとマリーナが「レオン殿。」と声をかけた。
マリーナを見ると覚悟を決めた表情を浮かべていた。レオンはマリーナの意図が分かっていたため強く頷いた。
「神官様。その洞窟にいる獅子の討伐依頼を私たちにお任せください。」
「あなた達が……?」
ムッツ神官は心配そうに見つめた。それもそのはず、帰ってきたばかりのかつての教え子を死地に行かせたくない気持ちがあった。
「大丈夫です。」
マリーナは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「強い魔物なら昨日も倒した。心配は要らない。」
「ふむ。それならいいのだが…」
ムッツ神官は不安ながらも納得した。
「なら頼むとしよう。ただし条件がある。必ず生きて戻ってくること。そして二人とも無理をしてはいけない。危ないと感じたらすぐに引き返すこと。いいかい?これは命令ではなくお願いだよ。」
ムッツ神官は二人に言い聞かせるように言った。するとマリーナとレオンは互いに視線を交差させ笑みを見せ合うと力強く答えた。
「はい!」
こうして二人は癒しの洞窟の探索を開始する事になった。
◇
癒しの洞窟は北の街を出て北東へ進んだ場所にあった。そこには様々な植物や薬草などがあり洞窟の中心には小さな泉がある。ここでしか取れない特殊な薬草は貴重な薬の材料となっており重宝されている。
二人は準備を整え終わるとすぐさま癒しの洞窟に向かったのだった。
「ここか……」
入口に辿り着くと早速違和感を感じた。本来であれば明るいはずの空洞内は薄暗く湿っぽい。その不自然さを不審に思いながら二人は奥へと進んでいく。
しばらく歩くと開けた空間に出た。ここからが本格的なダンジョンエリアとなる。ここから先は本来魔物は少ない。そのため戦闘は避けられる。しかし今回に関しては別であった。
「あの獅子ですね……」
「ああ。」
前方から大きな足音を響かせて現れたのは体長2メートルを超える大きな獅子であった。しかも普通の獅子とは違い額には二本の角が生えており、毒々しいたてがみに覆われた尻尾を持っている。さらに爪や牙まで鋭利になっている。まさに化け物と言っていいだろう。
(こいつは……)
レオンが武器を構える。一方でマリーナは魔法の詠唱を始める。
「グルルル……」
こちらを睨みつけ威嚇してきた。その眼差しは今まで見たどんな魔物よりも禍々しいものであった。
(まずい……)
直感的に危険を察知する。
「来るぞ!」
「ヒール・プロテクト!」
マリーナの防御魔法で身を守った直後にレオンはハンマーを振りかぶりそのまま突進してきた獅子の頭をかち上げた。獅子はレオンの一撃によって吹っ飛ばされた。しかしすぐに起き上がり再び襲いかかろうとする。
「ではこれなら!ホーリーブレイド!」
レオンの攻撃の隙にマリーナが光の刃を獅子に飛ばした。光の刃は獅子の胴体に命中し、獅子は苦悶の声をあげながら仰け反った。
「効いてます!」
マリーナはすぐに次の攻撃に移り、今度は獅子の足元に向かって魔法弾を放つ。獅子はそれを避けるが背後の壁に当たり爆発を起こす。
爆風を受けて体勢を崩したところにすかさずレオンのハンマーの一撃が入る。獅子はそのまま地面に叩きつけられた。だがすぐに立ち上がって雄叫びを上げた。すると口から紫の霧を吐き出し辺り一面に撒き散らす。
「なっ!?」
咄嗟に距離を取り何とか回避しようとしたが完全に避けることはできなかった。体中に激痛が走る。痛みに耐えているうちに獅子はこちらに向かって突進してきた。
「くそっ……!」
なんとか受け止めようとしたが力及ばず押し倒されてしまう。そして鋭い牙で噛みつこうとする。
「レオン殿!」
マリーナが叫ぶと同時に手から眩い光を放ち目くらましを行う。その一瞬を利用して脱出できた。そしてすぐさまマリーナはレオンにヒール・ライザをかけた。傷は消え、先程の苦痛が嘘のように消えた。
「ヒール・ライザは治療だけでなく、一時的に免疫力も上げています!これなら毒による影響は無いはずです!」
「感謝する!」
そう言うとレオンは再び獅子に向き合う。
「さて、反撃といこうか!」
「グルゥアァッ!」
獅子は吠えると飛びかかる。素早い動きに対応しつつカウンターを狙う。
「そこだ!」
ガツンという鈍い音と共に頭部に打撃を加えることに成功しよろめく。そこに追撃を仕掛けるも獅子は尻尾を使って振り払ってくる。レオンはとっさに防ごうとするが衝撃に押された。しかしマリーナの防御魔法は防御力を底上げしてくれるだけでなく、体幹も強くなっていた。そのためすぐに体勢を整えることができた。そしてそのまま再び接近していく。獅子は爪で攻撃してくるので受け止めつつ懐に入り込み腹に渾身の一撃を叩き込んだ。獅子は悲鳴を上げて後退する。
(マリーナ、ウエポン・エンハンスも使ってくれたみたいだな!)
そのまま追撃を行おうとするも尻尾による横薙ぎ払いが飛んできた。それを屈んで躱してそのままハンマーを叩きつける。バランスを崩したところを狙って更にハンマーを振り上げた。獅子はそれを前脚で受け止めると噛みつこうとするのでバックステップで回避する。
「グオォン!!」
獅子は怒り狂ったように吼えると大きく跳躍して襲いかかってくる。それに対してレオンもエンハンスで強化されたハンマーを構えて更に力を溜めて待ち構えた。
「今だぁ!」
タイミングを見計らい全力で振り抜くと、獅子の首筋を捉え肉が潰れる感触を得る。そのまま押し切ると獅子は頭から地面に叩きつけられて動かなくなった。
「ふぅ……」
肩の力を抜いて安堵すると共にマリーナの方を見る。彼女は疲弊しており明らかに消耗しているのがわかる。
「大丈夫か?」
「はい……少し魔力を使いすぎましたけど問題ありません……」
「そうか……よかった……」
レオンがほっとした様子を見るとマリーナも笑みを見せる。そんな時だった。二人が倒した獅子が呻き声を上げた。それはあまりにも異様だった。レオンが警戒する中、マリーナが獅子の様子を確認する。獅子は襲ってくる様子はなく、ただただ苦しんでいた。
「いったいどうしたんだ?」
レオンが不思議に思っていると、マリーナが「ひょっとして…」と呟いてある行動を始めた。それはヒール・ライザを獅子に向けて唱えたのだ。
「おい!治したらまた襲いかかってくるぞ!」
「大丈夫です。この獅子には敵意はありません。」
「どういうことだ?」
レオンは戸惑う。だがマリーナは気にせずヒール・ライザをかけ続けた。獅子は徐々に回復していきやがて立ち上がった。しかし攻撃してくる様子はない。それどころか先程までの凶暴性が消え去っていた。
「やはり……」
マリーナは確信めいた表情をする。
「この獅子は熱が出ていました。それが原因で錯乱していたのでしょう。」
「熱?」
「この周辺は季節の変わり目に温度差が激しくなりやすいので、その結果獅子の体温調整機能が狂ってしまったのではないのでしょうか?」
「つまり風邪を引いて暴れていたということか……」
レオンは納得した感じで言った。
「はい。ムッツ神官の病気も熱に侵されていたようですし、悪化した形でうつってこのような症状になってしまったのだと思います。」
「なるほど……」
レオンは腕を組んで言った。
「それにしてもよくこいつ自身も病気だと気づいたな?俺だったら起き上がった時点で追撃していたぞ。」
レオンの言葉に、マリーナは静かに首を振った。彼女の灰色の瞳が、倒れている獅子を優しく見つめている。
「殺戮は最後の手段です。私の役目は癒しと正す事ですから。」
マリーナの声は洞窟の冷たい空気に溶けるように澄んでいた。
「かつての戦いの中で、私は……兄を失いました。」
彼女は一度深く息を吸い込み、遠い目をした。
「殺られたら殺り返す。若い頃はそれが当たり前でした。だから私は兄を殺した兵士が捕虜の中に居た時は自ら配給係になって毒を盛って復讐しました。」
その言葉が空気を震わせると、レオンは僅かに息を飲んだ。普段のマリーナからは想像できない過去の影が垣間見える瞬間だった。
「でも……心は晴れませんでした。兄の墓前で謝りに行った時も、私は泣くだけでした。そんな時にムッツ神官と出会い、憎しみとの向き合い方を教わりました。」
マリーナの声はかすかに震えていたが、どこか穏やかでもあった。
「神官はこう言ったんです――“憎しみは火だ。最初は敵を焼くが、最後には己の心までも灰にする”と。」
彼女はゆっくりと手を握りしめた。
「そして、“その火をどう使うかは、自分次第だ”とも。怒りも悲しみも、誰かを守る力に変えることができる……と。」
レオンは黙って聞いていた。目の前のマリーナが、ただの優しき女性ではなく、深い過去と痛みを抱えて今の姿に至ったことを、ようやく理解しはじめていた。
「私が今、聖職者として傷を洗って、悪を祓い、苦しむ者を少しでも癒したいと思うのは……あの時、ムッツ神官が私の心を見捨てなかったから。あの人が、私の心に火を灯し直してくれたからです。」
マリーナの語った過去と決意にレオンは何かを思ったかのように考え込んでいた。
「すごい人だよあんたは……」
「……?」
「俺はまだ過去に囚われてしまっているみたいだ。」
「レオン殿?」
「いや、忘れてくれ。では報告しに行くとしよう。」
レオンはそれ以上何も言わず洞窟の外を目指し始めるとマリーナも続いて行った。
◇
「まさか私の病原が風邪うつされたからだとはねえ…」
戻って来た二人の報告を聞いたムッツ神官は目を丸くしていた。
「しかしあの獅子自体は大人しい性格だったので、おそらく迷い込んだ拍子に環境に適せず病気になってしまったのだと思われます。」
「それで病気の身体で暴れてしまってねぇ……全く世の中には恐ろしい病もあるんだねぇ。」
ムッツ神官が笑うとマリーナも釣られて笑う。ちなみにあの獅子はレオンと農家達が、上手いこと誘導して人里から離れた森丘へ移した。
「まあでも、獅子も元気に帰ってくれたし、これで一安心だねぇ。」
「ええ。良かったです。」
マリーナが微笑むとムッツ神官はぶどう酒をマリーナのグラスに注いだ。
「改めてお帰りなさい。マリーナ。」
「はい。ムッツ神官。」
ムッツ神官の言葉にマリーナは頷くとお互いに微笑み合った。二人が戻って来ると、街の人々を怯えさせていたあの獅子が居なくなったのとマリーナが帰ってきてくれた祝いで、教会で夕食会が始まった。マリーナも嬉しそうだが、愛弟子が帰ってきてムッツ神官が一番喜んでいた。レオンはそんな二人の様子を見て酒を飲んでいた。
(あんな過去を持ちながらマリーナは穏やかに振る舞っている…仇に対しての怒りも隠さずにこれからを生きる者達を守る力に……か。)
__レオン、ごめんなさい。でももう限界なんです。あんな人の下で働くなんて……
「……」
レオンは自分が怒った若騎士が原因で自分よりも前に騎士団を止めてしまった女騎士を思い出して、彼女は自分より過酷な現場に晒されて心が壊れてしまっていた事を思い出してしまった。
(今思えば俺は怒りを全面に出してあの若造を叱っていた。同期が自主退団に追い込まれたからとはいえ、あの時の俺に怒りを抑えて説き正す事が出来ていたら、こんな事には……)
「ほら。」
レオンが後悔を頭の中で巡らせているとムッツ神官がぶどう酒を持ってきた。本人が一番飲んだのか、顔が赤かった。
「え……」
「あんたも今日はマリーナと一緒に戦ってくださったじゃない。これくらいしかお礼できませんがどうぞ一杯。」
そう言うとムッツ神官はグラスを持つとレオンに注いだ。レオンはそれを受け取ると乾杯した。
「ああ。どうも……」
「ところで"旦那さん"はマリーナとはいつから知り合ったんだい?」
「ゴフッ!?」
突然の質問にぶどう酒を吹き出しそうになった。
「ちょ……ちょっと待ってくれ!誰と誰の事だ?!」
「あなたとマリーナの事に決まってるじゃないの?」
「む、ムッツ神官!!」
レオンが否定する前にマリーナが大声を出した。その顔は真っ赤になり恥ずかしそうにしていた。
「レオン殿は共に戦ってくれるパーティーであって、まだそういう関係ではありません!」
「おや?今"まだ"と言わなかったかい?」
「あ!いえ、今のは言葉のあやで……!」
ムッツ神官がニヤニヤしながら言ってくるとマリーナは何も言えずに顔を伏せてしまった。レオンも耳が熱くなるのを感じて、誤魔化すように酒を一気飲みするのだった。




