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流れ行くもの

京王線四番ホーム事件から、数日が経っていた。


逢坂学園は、表面上は平常へ戻っている。


旧校舎側の封鎖は一部解除され、廊下には以前と同じように生徒の声が戻った。

職員室前の掲示板には行事予定が貼られ、教室では小テストの範囲に対する不満が飛び交い、昼休みの購買には相変わらず長い列ができている。


だが、仁十《にと》には分かっていた。


戻ったのではない。

戻ったように、整えられただけだった。


校舎は元に戻ったように見えた。

だが渡り廊下の端に残る鉄扉や、用途の分からない壁の継ぎ目へ視線が向くたび、どこかで帳尻だけを合わせたような違和感が残る。


そういうものが、以前よりも近くなっている。

見ようとしなければ見えない。

けれど、見ないで済ませるには、もう遅かった。


放課後、仁十たちは職員棟の図書資料室へ呼ばれていた。

古い書棚と、積まれた地図。

紙の湿った匂い。

窓の外では、曇り空が新宿の高層ビルを鈍く曇らせている。


常葉《ときわ》鼎《かなえ》は、机の上に一枚の地図を広げた。


「学園の内側だけ見ていても、分からんことがあります」

いつもの穏やかな声だった。

白衣の袖口は整っている。

表情も変わらない。

けれど、その言葉は教室で聞くものより、わずかに冷たかった。


「外側を見た方がええ」


風間が、机にもたれたまま眉を寄せた。

「外側って、どこまでだよ。新宿全部とか無理じゃん」


侑理は地図へ視線を落としていた。

タブレット端末と紙の古地図を並べ、現在の道路と過去の地形を照合している。


「神田川、ですか」


侑理が地図を見る。

鼎は頷いた。

「淀橋周辺です」


仁十は地図へ目を落とした。

神田川。

その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが引っ掛かった。


「仁十くん?」

真昼が覗き込む。

「顔色悪いよ」

「……別に」


侑理が地図を見る。

「川が気になる?」

仁十は少し考える。

「分からない」


本当に分からなかった。

ただ、その場所へ行かなければいけない気がした。

風間が肩を竦める。

「嫌なフラグ立てんなよ」


月無瀬澪は、窓際に立っていた。

会話には入らない。

ただ、硝子の向こうを見ている。

黒髪は光を吸い、白い頬だけが薄く浮いていた。

外を見ているようで、もっと遠い場所を見ているようにも見える。


「月無瀬さん」

侑理が呼ぶ。


澪は少し遅れて振り返った。


「何?」


「神田川周辺で、何か感じることはある?」


窓際の澪が顔を上げる。


「……」


何かを聞いているようだった。

仁十はその横顔を見た。


澪は少しして、


「まだ、いる」


と言う。

資料室の空気が冷えた。


「日暮里君」

鼎の声がした。


仁十は顔を上げる。


「君も来なさい」


仁十は少し間を置いた。

「俺が行くと、余計におかしくなるんじゃないですか」

鼎は穏やかに笑った。

「その可能性はあります」

風間が顔を上げた。

「おい」


「けれど、君が行かんでも、おそらく起こります」

鼎は地図を折り畳む。

「なら、見える者がおった方が都合がええ」


仁十は、すぐには言葉を返せなかった。


見える者。


その言い方に、胸の奥が冷えた。

自分が何かを選んで見ているわけではない。

ただ、勝手に重なる。

見なくていいものが、向こうから視界へ入ってくる。


「……分かりました」


そう答えると、隣から声がした。


「仁十くん」

真昼だった。

仁十はそちらを見る。

「ん?」

「大丈夫?」

「何が」

真昼は少しだけ首を傾げる。

「また何か見えたのかなって」

仁十は息を吐いた。

「大丈夫」

「ならいいけど」

真昼はそれ以上聞かなかった。


鼎は先に立ち上がった。

「では、現地で会いましょう」

それだけ言う。

風間が何か言いかけたが、鼎はもう資料室を出ていた。


「絶対説明足りねえだろ、あの人」

風間が呟く。


真昼が苦笑した。

「でも、聞いても教えてくれなさそう」


それには誰も反論しなかった。


資料室を出る頃には、空はさらに低くなっていた。

校門を抜けると、街の音が一気に近づく。


車道を走る車。

遠くの工事音。

濡れた路面を踏む靴音。

駅へ向かう人の流れ。


新宿は、曇天の下でも明るかった。

看板の色、信号の光、ビルの硝子面。

それでいて、その明るさはどこか冷えている。

人の多さに反して、街そのものは誰にも関心を持っていないようだった。


神田川へ近づくにつれ、歩行者は少なくなった。

駅へ向かう人波は途切れ、代わりに車の流れが目立ち始める。

大型車が通過するたび、湿った空気が押し流された。


「そもそも放課後に橋を見に行く高校生なんて終わってるって」

「風間くん、言い方悪いよ」

「事実だろ」

侑理が地図を確認しながら言う。

「一応、理由はあるの」

「じゃあ行くしかねえか」


仁十はそのやり取りを聞きながら、少し後ろを歩く澪へ視線を向けた。

澪は人の流れからわずかに外れて歩いていた。

誰ともぶつからない。

だが避けているというより、周囲の方が自然に彼女を避けているように見える。


「日暮里くん」

ふいに澪が言った。


仁十は振り返る。

「何?」

「さっきの地図……」


そこで言葉が止まった。

澪は道端の水たまりを見ていた。

何を見ているのか分からない。

ただ、視線だけが水面から動かなかった。


けれど仁十の目には、一瞬だけ別の影が混じった。

古い橋脚。

低い護岸。

傘を差さない人影。


仁十は視線を戻す。

澪は続きを言わない。


「……別に」

仁十が言った。

「仁十でいいよ」


澪が瞬きをした。


「仁十」


確かめるような声だった。


「うん」


澪は少しだけ考えた。


「じゃあ、仁十くん」


それ以上、会話は続かなかった。

だが、言葉が変わったことだけは、妙にはっきり残った。


やがて道の先に、川が見えた。


神田川だった。

都市の中を流れる川は、自然というより、細く残された傷に近い。

護岸に固められ、道路と建物に挟まれ、流れることだけを許された黒い帯。

水面は曇った空を映さず、欄干と濡れたコンクリートの影だけを抱えていた。


車の流れは途切れなかった。

信号待ちの列が続き、道路は絶えず唸るような音を立てている。

その歩道脇に、鼎が立っていた。

いつの間に来たのか分からない。


白衣ではなく、薄い上着を着ている。

それでも、遠目にも鼎だと分かった。

川を見下ろす姿勢が、学校にいる時と変わらない。


「来ましたね」


風間が眉を寄せる。

「なんで先に着いてるんだよ」

「車で来ましたから」

「だったら、乗せてくれりゃいーのに」


侑理は欄干越しに川を見た。

「……普通の川ね」


「見えるもんだけが全部やないんですよ」


真昼が欄干に近づきすぎない位置で立ち止まった。


「先生、この川ってそんなに特別な場所なんですか?」


鼎は、その問いに答えなかった。


仁十は欄干へ手を置き、川面を見る。

曇った空が映っている。

そのはずだった。


水面が揺れる。

その揺れの向こうで、何かがずれた。

何が違ったのかは分からない。

ただ、今見ている川とは別の川が重なった気がした。


水面の向こうに何かが重なった。

橋だった気がする。


仁十は息を止める。


澪が低く言った。


「流れてない」


全員が澪を見る。

澪は川面から目を離さない。


「まだ、いる」


その声が、橋の上に落ちた。

誰もすぐには聞き返さなかった。

大型車が通り過ぎる。

その音だけが妙に遠かった。


風間が小さく呟く。


「……何が」


澪は答えない。

鼎も、口を開かない。

川だけが、黒く流れていた。


六人は橋を渡り始めた。

車の音が頭上を流れる。

神田川は橋の下で黒く光っていた。

すれ違う通行人はいない。


そう思った。

橋を渡り終えた瞬間までは。


誰かとすれ違った気がした。


思い出そうとする。

顔が出てこない。

声も出てこない。


制服だった気もする。

違った気もする。

そもそも本当にいたのか。

それすら曖昧だった。

それでも、確かに誰かがいた気がした。


仁十は振り返らない。

確かめる気にはなれなかった。

思い出せないものには、思い出せない理由がある気がした。


車の流れは絶えない。

大型車が通過するたび、川面が細かく揺れた。

青梅街道の車列が途切れることはない。

その足元を、神田川だけが黒く流れ続けている。


だが、その流れだけが妙に遅く見えた。

川というより、都市の底を流れる黒い傷のようだった。


鼎は先頭を歩いていた。


「橋いうんはな。昔から色んな話が残るんです」


誰に向けたとも分からない口調だった。


風間が眉を寄せる。

「まーた急に始まった」

「聞かんでも喋るんだから、聞いといた方が得ですよ」

「その言い方がもう胡散臭いんだって」


鼎は小さく笑った。

「残したいもんも、消したいもんもな。結局、橋を渡るんです」


真昼が首を傾げた。

「消したいもの?」


「昔の話ですよ」


鼎はそう言った。

だが説明はしなかった。


「土地にも記憶があります。人間ほど器用やないから、忘れるのが苦手なんです」


侑理が視線を上げる。

「だから残る」


「流したつもりのもんまでな」


そう言って、鼎は橋の欄干から離れた。


「こっちです」


六人は橋のたもとへ続く階段を降りた。

神田川沿いに広場が続いている。


桜の季節は過ぎていたが、若い木々の葉が風に揺れていた。

橋の上より、川はずっと近かった。

護岸のコンクリートは湿り、神田川はすぐ目の前を流れていた。


仁十は欄干越しではなく、直接川を見下ろす。

水は思ったより近かった。

雨の匂いが残っている。

黒く見えるのは深さではない。

曇天の色だった。

それでも、どこか底が見えない。

都市の下を流れる別の何かを覗き込んでいるような感覚があった。


澪はいつの間にか川際へ立っていた。

誰とも並ばない。

誰かを避けているわけでもない。

ただ気がつくと、少しだけ離れた場所にいる。


風が吹く。

川面が揺れる。

澪はその揺れを見ていた。

水ではなく、その向こう側を見るように。


鼎の説明を聞きながら歩いていたはずだった。

その会話の途中だった。


何か話していた。

誰かが。

内容が思い出せない。

数秒前のことなのに。

誰が話していたのかさえ曖昧だった。


風間の声。

真昼の笑い声。

侑理の質問。

そこまでは覚えている。

それなのに、その間に何かが抜け落ちていた。


「……」


足を止めかける。

その瞬間。


「仁十くん?」

真昼が振り返った。

「どうしたの?」


「いや、大丈夫」


言葉にした途端、何が気になったのかわからなくなる。


通行人がすれ違う。

そのうちの一人が澪の方へ顔を向けた。

だが視線は届く前に逸れた。

そんな風に見えた。


仁十はその光景を目で追った。

自分でも何が気になったのか説明できなかった。


「月無瀬さん?」

真昼が声を掛ける。


澪はすぐには反応しなかった。

数秒遅れて顔を上げる。


「……何?」


「何か見える?」


澪は川面へ視線を戻した。


「流れている」


小さな声だった。


「何が?」

風間が聞く。


澪は、しばらく黙っていた。

間を置いて、


「でも、残ってる」


風間が困ったような顔をする。


「頼むから、主語つけてくれ」


神田川の水が流れている。

黒い水面が一瞬だけ人の形を取ったように見えた。

だが次の瞬間には流れだけが残っていた。


「先生」

最初に口を開いたのは仁十だった。

「どういうことですか」


鼎は川から目を離さなかった。


「答えを求められても困ります。説明したところで、理解と安全は一致しませんから」


仁十の眉が寄る。

何か言い返しかけたが、その前に風間が口を挟んだ。


「要するにヤバいってことだろ」


「それは正しい」


「なら最初からそう言えよ」


「言いましたよ」


風間は盛大に顔をしかめた。

「その言い方で伝わると思ってんのがすげえよ」


真昼が苦笑する。


「先生と話してると、たまに何が正解なのか分からなくなるんだよね」


「そうですか?」

鼎は平然としていた。


澪は相変わらず川を見ていた。

見ているというより、耳を澄ませているようだった。

仁十はその横顔を見る。


白い頬だけが曇天の光を拾っていた。

目を離すと、次の瞬間には別の場所へ立っていそうだった。

人の記憶から薄れる。

橋の上ですれ違った誰かの顔を思い出せないように。

その存在だけが、少しずつ現実から零れ落ちていくように見えた。


「月無瀬」

風間が呼んだ。

反応はない。


「おい」


二度目でようやく顔を上げる。


「何」


「何、じゃねえよ」


風間は腕を組んだ。


「呼ばれてるとか言うな。聞いてる方が嫌なんだよ」


澪はしばし考えた。


「ごめん」


「謝られても困る」


「じゃあ謝らない」


真昼が思わず笑った。

風間も肩を竦める。

重くなりかけた空気が緩む。


だが、その時だった。


川面が揺れた。

風が吹いたわけではない。

流れが変わったわけでもない。

それでも水面の下で何かが身じろぎしたように、暗い波紋だけがゆっくりと広がった。

川底そのものが息をしたように見えた。


仁十は視線を留めた。

水面の向こうに別の景色が重なった。

現在の護岸ではない。


低い土手。

木橋。

曇った空。

濁った流れ。


橋の上に人影が並んでいた。

数は分からない。

三人に見えた。

次に見た時には五人だった。

視線を向けるたびに増えていく。


誰も動いていない。

全員が川を見ている。


違う。

こちらを見ていた。


頭の奥が軋んだ。


橋と川。

現在と過去。

二つの風景が重なり合い、境界が曖昧になる。


「仁十くん」

真昼の声が聞こえた。

近かった。


瞬きをする。

景色が戻る。

だが胸の奥に残った圧迫感だけは消えなかった。


「顔色悪いよ」

真昼が言う。

「大丈夫?」


仁十はすぐには答えられなかった。

さっき見た人影がまだ脳裏に残っている。


「……少し」


「座る?」


「いや」


侑理がその様子を見ていた。

観察する目だった。

心配していないわけではない。

侑理はまず現象を見る。

それが彼女だった。


「何を見たの?」


「人」


「何人?」


仁十は言葉を探した。

数えようとしてやめる。


「数えられなかった……」


それだけ言った。

侑理は短く頷いた。

それで十分だったらしい。


その時、澪が歩き出した。

橋の中央へ向かう。


「月無瀬さん」

真昼が呼ぶ。

澪は止まらない。


「おい」

風間も声を上げた。


それでも止まらない。

急いでいるわけではなかった。

走ってもいない。

ただ、行くべき場所へ向かっているような歩き方だった。


鼎の表情が僅かに変わった。

初めてだった。

穏やかな表情から余裕が消えるのを見たのは。


「……予想より早い」


意味は分からない。

それでも危険なのだということだけは伝わった。


澪が橋の中央へ辿り着く。


その瞬間だった。


景色がずれた。


橋の欄干が滲んだ。

コンクリートの護岸が輪郭を失う。

代わりに現れたのは低い土の岸だった。

崩れた橋脚のあいだを濁った流れが走っていた。

湿った土の匂いが鼻の奥へ届く。


現在の新宿と、別の時間の淀橋が一つの場所に存在していた。


真昼が息を呑んだ。


「冗談だろ……」


風間も言葉を失っている。


「見えてる……」


侑理の声は震えていた。

いつもなら言葉を選ばない彼女が、続きを言えずにいた。


「そんなはず……ない」


と言いかけて、だが現実に見えているものを否定できない。


風間も。

真昼も。

侑理でさえ橋から目を離せずにいた。

現在の淀橋の上へ、別の時間の風景が重なっている。


「仁十くん」


澪が言った。

仁十は顔を上げる。

澪はこちらを見ていた。

その視線は仁十を通り越しているようだった。


そして、川を指差す。

仁十は視線を向けた。


川底に何かが見えた。

こちらを見上げている。


人影に見えた。

そう思った。

確信はなかった。

水の揺らぎだったのかもしれない。


その中に、見覚えのある影があった気がした。

橋ですれ違った誰かだったかもしれない。

だが顔だけは思い出せない。

それでも、向こうは仁十を覚えているような気がした。


澪が一歩前へ出る。

仁十が動いた。


「……だめだ!」


それでも澪は止まらない。


「呼んでる」

澪が言った。

一拍置いて。


「……帰れないんだって……」


消えたはずのもの。

忘れられたはずのもの。

流されたはずのもの。

それらが今もどこかに残っている。

そんな感覚が、体の内側に沈んだ。


澪の輪郭が揺れる。

水面へ映った影のように。

薄く。

危うく。

境界の向こうへ引かれていく。


風間が駆け出した。


「月無瀬!」


その瞬間。

橋全体が大きく軋んだ。


神田川の流れが、一瞬だけ止まったように見え、車の音も消えた。

青梅街道を埋めていたはずの走行音が途切れる。

そこにいた全員が顔を上げた。


音がない。


仁十は顔を上げた。

神田川が流れている。

人もいる。

それなのに。

新宿から音だけが消えていた。


橋が軋んだ。


実際に音が鳴ったのか、それとも認識だけが揺れたのか、仁十には判別できなかった。


足元がわずかに沈む。

神田川の流れが遠のき、代わりに別の水音が近づいてくる。


増水した川だった。

護岸のない土手。

橋脚へ打ち付ける濁流。

現在の新宿には存在しないはずの音が、橋の下から響いている。


「月無瀬!」

風間が橋の中央へ駆けた。


澪は振り返らない。

橋の向こうを見ている。

視線の先には現在の街ではなく、別の時間の川岸が広がっていた。

その向こうには帰れなかった者たちの影が重なっていた。


「残ってる」

澪が呟く。

「ずっと」


風間が腕を掴もうとする。

だが届かない。


一歩で辿り着ける距離のはずだった。

それなのに橋の中央だけが異様に遠い。

空間そのものが引き伸ばされたようだった。


侑理が息を呑む。


「空間がずれてる」


「だからどういう意味だよ」


「測れない。距離が、一定じゃない」

言葉が、いつもより区切れていた。


珍しく声が強かった。

侑理自身も余裕を失っている。


真昼が澪を見つめる。


「月無瀬さん」


その声は大きくなかった。

けれど橋の上で、最も真っ直ぐ届いた。


「戻ってきて」


澪はゆっくり顔を向けた。

先ほどまで遠くを見ていた視線が、ようやくこちらへ戻っていた。

だが足は動かない。


こちら側と向こう側。

どちらへ立つべきか、その境界で揺れていた。


「向こうにも理由がある」

澪が言う。


「知ってる」

真昼は即答した。

「でも、月無瀬さんはこっちにいるでしょ」


澪が黙る。


「私たちと一緒にいる」


風が吹いた。

曇天の下を冷たい空気が抜けていく。


真昼は少しだけ笑った。


「向こうに何があっても、私はこっちの方がいいな」


その言葉に、澪の表情がわずかに揺れた。

真昼はそれ以上何も言わなかった。


鼎が静かに口を開く。


「藤守さん」


侑理が顔を上げた。


「現在位置を」


短い指示だった。

それだけで、侑理には十分だった。

タブレットを開く。


地図を確認する。

現在の橋。

現在の道路。

現在の川。


「神田川」

侑理が言う。

「淀橋」


声は震えていた。

それでも続ける。


「西新宿」


橋の長さ。

川幅。

周辺道路。

現在の地図情報。

侑理は確認した内容を一つずつ口にした。

現在という履歴を、積み上げていく。


橋の揺れが少しずつ収まった。

鼎は小さく頷く。


「それでええ」


風間が再び前へ出る。

今度は距離が伸びなかった。


澪の腕を掴む。


「帰るぞ」


強引だった。

いつもの風間だった。

澪は抵抗しない。

ただ一度だけ川を見た。


その瞬間、仁十の視界が開いた。


川底が見えた。

いや、見えたのは水ではなかった。


流された荷。

名前の残らなかった死。

戸籍に載らなかった人間。

工事で埋められた川岸。

消えた橋。

消えた地名。

上書きされた街並み。


それらが濁った水の奥に沈んでいた。

消えたはずのものが、そこに残っていた。


「日暮里君」

鼎の声がした。

仁十は顔を上げる。

「見えましたか」


問いだった。

答えは分かっているような声音だった。

言葉が、すぐには出てこなかった。


「……消えてなかった」


鼎は目を細めた。


「そうですか」


静かな肯定だった。

鼎はしばらく川を見ていた。

川の流れが妙に重く見えた。


やがて橋は静かになった。

澪もこちら側へ戻っている。

風間はまだ腕を離していない。

侑理はタブレットを持ったまま息を吐いた。

真昼は欄干へ寄り過ぎない位置で立っている。


空は夕暮れへ沈み始めている。

曇り空の向こうで、わずかな光が西へ傾いていた。


鼎が橋を離れる。


「神田川は入口に過ぎません」


仁十が振り返る。


「入口?」


「新宿は広い」


鼎は歩きながら続けた。


「地上よりも下が」


それ以上は語らなかった。


仁十は最後にもう一度だけ川を見る。


水は流れている。

確かに流れている。

だが、その底には何かが沈んでいた。


流されず、忘れられず、残り続けている何かが。


その時、水面へ別の景色が映った。

見知らぬ路地。

曲がり角。

石垣。

現在の地図には存在しない道。


一瞬だった。

瞬きをすると消える。


理由は分からない。

それでも確かめようと思った。


見えたからではない。

消えていくものを、このまま見送ることだけは、したくなかった。


都市はまだ続いている。

消された歴史の上を幾重にも重なりながら。

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