↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/6

忘れられた道


淀橋の一件から、数日が過ぎていた。


逢坂学園は何事もなかったように、夏休み前の気配を濃くしている。


仁十は窓際の席に座り、校庭を眺めていた。

運動部の掛け声や誰かの笑い声が、いつも通りの午後を作っている。

けれど仁十には、その平穏の奥に薄い膜が一枚挟まっているように感じられた。

見えているものと、そこにあるはずのものが、わずかに噛み合っていない。


神田川の黒い水面。

澪が言った、流れているんじゃない、という言葉。

消えたのではなく、残っている。

それが耳の奥で、まだ乾かずにいた。


「仁十くん、また窓見てる」


振り向くと、真昼が声を掛けてきていた。

弁当箱を片づけながら、こちらへ体を少し傾けている。

淡い髪が午後の光を受け、輪郭だけが柔らかく透けて見えた。


「見てるだけだよ」


「それは見れば分かるよ。問題は、何を見てるのかってところ」


「校庭」


「もう。ちゃんと聞いてる?」


真昼は笑った。

責めるような笑いではない。


後ろの席から風間が紙パックを片手に身を乗り出す。


「最近の仁十、前より難しい顔してんだよな。見えるもの増えました、みたいな顔」


「そんな顔あるのか」


「ある。俺が今作った」


「いい加減だな」


「だいたい合ってりゃいいんだよ」


真昼が小さく吹き出した。

風間は笑っていたが、その目だけは軽くなかった。

彼は気安く話しながら、仁十の顔色や手元の動きを見ている。

異変に対する勘は鈍くない。


「藤守さんは?」

仁十が聞くと、真昼は廊下の方へ視線を向けた。


「生徒会室にいると思う。というか、たぶん住んでる」

「住んでる?」

「昨日差し入れ持っていったら、書類の山から出てきた」


風間が頷く。

「俺も見た。コピー機とほぼ一体化してたな」

「それ本人に言ったら怒られるよ」

「言わねえよ。怒られるの分かってて言うほど馬鹿じゃない」

「そこは分かるんだ」


その時、教室の扉が開いた。


常葉鼎が入ってきた。

白衣の袖口はいつも通り整っていて、手には教科書と出席簿がある。


騒がしかった教室が、ゆっくりと静まっていく。

教師として強い声を出すわけではない。

ただ、彼が教壇に立つと、場の温度が一段落ちる。


授業は現代文だった。

鼎は教科書の一節を読み上げたあと、しばらく黒板へ視線を向けていた。

チョークを持つ指が止まる。


「道というものは、残ったから道になるんです」


唐突だった。

何人かが顔を上げる。


「人が歩く。荷が通る。地図に記される。名前がつく。そうして初めて、道は街の一部になる。逆に言えば、歩かれなくなった道は、いつか道ではなくなる」


仁十は手元の教科書を見た。

そこにそんな話はない。


「ただし、消えた道が何も残さんとは限りません。街は、忘れたものを完全には捨てられない。捨てたつもりで、継ぎ目だけ残すことがあります」


教室は静かだった。

風間が少しだけ眉を寄せる。

真昼はノートにペンを置いたまま、鼎を見ていた。


鼎はそこでいつもの柔らかな声に戻った。


「……まあ、本文とは少し離れましたね。戻りましょう」


それきりだった。


放課後、仁十は職員室へ提出物を届けた。

廊下には生徒の姿がまばらで、校舎の奥からは吹奏楽部の音階練習が細く響いている。

職員室前の窓には、曇った夕方の光が鈍く張り付いていた。


扉を閉めたところで、鼎と鉢合わせた。


「ああ、日暮里君」


「提出物です」


「助かります」


鼎は書類を受け取り、机上へ置いた。

そこで終わると思ったが、彼は仁十を見たまま少し間を置いた。


「最近、真っ直ぐ帰っていますか」


仁十は返事に困った。

質問の意味が分からない。


「普通に帰ってます」


「普通、ですか」


鼎は小さく笑った。


「新宿では、普通がいちばん危ないこともあります」


「どういう意味ですか」


「真っ直ぐな道は、見えるものだけを見せるようにできているんです」


鼎の声音は穏やかだった。

だが、その奥には教師の雑談とは違う硬さがあった。


「たまには遠回りしてみるのもええですよ。日暮里君には、そちらの方が見えるかもしれません」


何が、と仁十は聞きかけた。

けれど鼎はそれ以上言わなかった。

職員室の中へ戻り、他の教師と何事もない顔で話し始める。


仁十だけが廊下に残された。


気にしなければ済む。

そう思いながら、仁十は何度も同じ言葉を思い出した。


遠回り。

真っ直ぐな道。

見えるものだけを見せるようにできている。

どれも説明にはなっていない。

けれど説明ではないからこそ、引っかかった。


その日、仁十は校門を出てから駅へ向かわなかった。


空は薄く曇り、湿った風が街路樹の葉を低く揺らしていた。

新宿の中心へ向かう人の流れから外れると、街の音は少しずつ背後へ退いていく。

大通りを離れ、細い坂へ入り、マンションと古い木造家屋が混在する住宅地を歩いた。


新宿という名の下に均された街の中にも、整え切れなかった皺のような道がある。

道幅は急に狭くなり、舗装の継ぎ目が不自然に折れ、建物の塀が斜めに迫ってくる。


仁十は足を止めた。


一本の細い道が、周囲の区画を無視するように斜めへ伸びていた。

現在の道路に従っているのではない。むしろ、その道を避けて後から付け足されたように見える。


歩き出すと、空気が変わった。

車の音が遠ざかる。

遠くで鳴っていた信号機の電子音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。

坂を上がるたびに、湿った土と古い木の匂いが濃くなる。

東京の住宅街にあるはずのない、乾いた石段の気配が近づいてくる。


やがて、鳥居が見えた。


西向天神社。


石段の上に、古い社が沈むように立っていた。

周囲にはマンションがあり、道路があり、電線が張られている。

それなのに境内の木々だけが、街の時間から切り離されたように深く暗い。

仁十は石段を上った。

足元の石はわずかに湿り、踏むたびに靴底から冷えが伝わってくる。


境内へ入った瞬間、音が消えた。


完全な無音ではない。

葉擦れの音はある。

どこかで鳥が短く鳴いた気配もある。

それでも、街の音だけが境内の外へ置き去りにされていた。

まるで鳥居を境に、聞こえるべき音と聞こえない方がいい音が分けられているようだった。


仁十は立ち止まる。


古い木々の奥で、何かが動いた気がした。

人影、と思った。

だが視線を向けると、そこには幹と枝葉の重なりしかない。

風が抜け、葉が静かに揺れる。

その隙間に、ほんの一瞬だけ、細い道が見えた。


土の道だった。

現在の東京には似合わない。

人ひとりが通るほどの幅で、両側には低い草が伸び、道の先は夕暮れの陰に沈んでいる。

舗装も、標識も、電柱もない。

けれどそれは、廃道ではなかった。

いまも誰かが歩いている道のように、踏み固められた色をしていた。


仁十は瞬きをした。


道は消えていた。

境内の奥には木立があるだけだった。

だが胸の奥には、消えたはずの道の形が残っている。

初めて見たはずなのに、どこかで知っていたような感覚があった。


彼はしばらく動けなかった。


川とは違う。

あれは残っていたものが、下からこちらを見上げていた。

今見えたものは、もっと静かだった。


「日暮里くん」

声に振り返ると、藤守侑理が立っていた。

生徒会腕章は外している。

「……なんでいるんだ」

「それはこちらの台詞」

「生徒会は?」

「終わらない。だから逃げてきた」


侑理は境内を見回した。

「それで?日暮里くんが一人で神社に来る理由」

仁十は少し考えた。

隠しても仕方ない気もした。

「さっき、道を見た。今はない」


侑理の目が僅かに細くなる。

否定しない。

代わりに周囲を観察し始めた。

石段、木々、社殿、境内の配置。

視線が動く。

「この辺り、昔からある神社でしょう。新宿でもかなり古い」

侑理は社殿の奥を見ていた。

「昔、この辺に古い道があったらしいの。鎌倉時代くらいまで遡る可能性はある」

「はっきり分かってるのか」

「そこまでじゃない。資料は少ないし、断定できるほど綺麗には残ってない。でも、人が行き来していた痕跡はある」


仁十は木立を見た。

それはまるで誰かが歴史を削り取ったあとに、形だけ残ったみたいだった。

境内の奥で風が吹く。

ほんの一瞬。

仁十には見えた。

さっきと同じ道。

細い土の道。

木立の向こうへ伸びている。


「……日暮里くん?」

侑理の声で現実へ戻る。

「どうしたの?」

仁十は木立を見たまま言った。

「行ってみるか。その道があった場所」

夕方の風が再び境内を抜ける。

西向天神社の木々が揺れた。

その奥で。

誰にも知られず残り続けた何かが、静かにこちらを見返している気がした。


翌日の放課後、空は朝から続く曇天をそのまま引きずっていた。


夏が近いというのに陽射しは弱く、街全体が薄い灰色の膜に覆われているようだった。

グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえ、校門前には帰宅する生徒たちの流れができていた。


その中で、仁十だけが少し違う方向を見ていた。


昨日、西向天神社で見た道。

あれが何だったのか、まだ分からない。

だが、分からないまま放置してよいものでもない気がしていた。


以前ならそこで足を止めていたかもしれない。

見えたものを見えたまま抱え込み、答えの出ない違和感として飲み込んでいた可能性は高い。


淀橋で見たもの。

消えた教室。

京王線四番ホーム。

澪が境界へ引き込まれかけた夜。

それらを経験した結果、少なくとも一つだけ理解していることがある。


見なかったことにしても、消えはしない。

むしろ放置したものほど、後になって別の形で現れる。


校門を出たところで風間が追いついてきた。


「おい、仁十!」


振り向くと、風間は鞄を肩へ引っ掛けながら歩いていた。


「今日行くんだろ」


「何を」


「誤魔化せると思うな」

風間は呆れたように言った。

「昨日から、明らかに何か見つけた顔してる」


「……かなわないな」


その後ろから真昼もやって来る。

「私もそう思う」


「御景まで」


「だって分かりやすいし」


二人とも本気で言っているらしい。

仁十は小さく息を吐いた。

「ちょっと調べたい場所がある。鎌倉古道」


真昼が首を傾げる。

「鎌倉古道?」


「西向天神社の裏手から、古い道筋が残っているあたり」


「あの辺、道が面倒なところだよな」


風間は何となく知っているらしかった。

「なんか真っ直ぐじゃないんだよ」


西向天神社から花園神社の裏手へかけては、古い来歴を抱えた場所や、戦後の名残を思わせる細い路地が残っている。

道幅も建物の向きも一様ではなく、街の奥に入るほど、現在の区画から少しずれたものが顔を出すように見えた。


昨日侑理が言っていた。

資料は少ない。

だが痕跡だけは残っている。


一人で行くつもりだったはずなのに、今さらそんな気もしなかった。


「一緒に行こうか」


「おう!」


西向天神社へ向かう途中、細い路地の入口で澪が立っていた。

こちらを待っていたというより、道の方に呼ばれて来たようだった。

「行くの?」

澪はそれだけ聞いた。

「行く」


澪は小さく頷いた。

「じゃあ、私も行く。止めても行くと思うから」


平日にもかかわらず人通りは多い。

新宿らしい雑多な風景が重なっている。

だが一本路地へ入ると空気が変わる。

道幅が急に狭くなる。

視界の奥へ向かうはずの道が途中で折れ、別の方向へ曲がる。

まるで街そのものが、何か古い形を押し隠したまま上から塗り重ねられているようだった。


「変な感じだな」

風間が周囲を見回す。


「だろ」

仁十は思わず返していた。


風間がこちらを見る。


「珍しいな」


「何が」


「お前から話振るの」


仁十は言葉に詰まった。

確かにそうだった。

自覚はなかったが、以前より周囲へ言葉を向けることが増えている気がする。


真昼が笑う。


「いいことじゃない」


「そうか?」


「そうそう」


その時だった。

仁十の視界の奥で何かが揺れた。

足が止まる。

路地の先。

現在のアスファルトの上へ、別の道が重なっていた。


土の道。

低い草。

傾いた石仏。

人の背丈ほどの木々。

今の新宿には存在しない風景だった。


視界の中で現在と過去が二重になる。

アスファルトの上を歩く通行人。

その向こうを通る旅装束の人影。


自転車。

荷を担ぐ男。

コンビニの看板。

木製の道標。

それらが同時に存在していた。

頭の奥が鈍く軋む。


「仁十くん」

真昼の声が聞こえた。

振り向く。

真昼は少し心配そうな顔をしている。


「また見えてる?」


仁十は頷いた。


「道がある」


「どこに」

風間が聞く。


仁十は路地を指差した。

「昔の道。今の街の下を通ってる」


沈黙。

普通なら意味不明な言葉だ。

だが誰も笑わなかった。


路地の奥で、風が止んだ。


その奥から、声が聞こえた。

「よう見つけましたな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。