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狭間


雨は、翌朝には止んでいた。

空気だけが湿っている。

新宿の街は、何事もなかったみたいに動いていた。

開店準備を始める飲食店、地下から吐き出される通勤客、始業前の人流。


昨夜、自分たちが見たものを知る者など、一人も存在しないように見えた。


逢坂学園も同じだった。

朝の教室には、いつもの雑談が満ちている。


提出課題。

小テスト。

購買の新作パン。

体育教師への愚痴。


消えた教室の話をする者はいない。


いや。

最初から存在しなかったみたいに、全てが処理されていた。


仁十《にと》は窓際の席で、その違和感を黙って見ていた。

数日前までなら、錯覚だと片づけようとしたかもしれない。


疲労。

睡眠不足。

環境変化。


そういう現実的な理由へ押し込めて、考えないようにしていた。


だが今は違う。


見てしまった。


あれは幻覚ではない。

地下に沈んだ別の新宿。

存在しないホーム。

忘れられた人間。


胸の奥の冷たさだけが、消えなかった。

「……顔色悪いよ」

真昼が席へ寄りかかる。

朝の光を受けた髪が、柔らかく透けて見えた。


「もしかして、寝れてない?」

「まあね」

「わたしも」

少し笑う。

それでも、彼女も疲れていた。

笑うまで、ほんの少し間がある。


仁十は気づいていた。

彼女も昨夜のことを、“日常”へ押し戻そうとしている。

購買の話をして。

授業の話をして。

いつも通りを維持しようとしている。

それが彼女なりの抵抗なのだと、今は分かった。


「……月無瀬《つきなせ》さんは?」

「保健室。朝から来てたけど、ちょっと具合悪そうだった」

「そうか」


澪の顔を思い出す。

地下ホームで、彼女だけが妙に静かだった。

恐怖ではない。

むしろ、“向こう側”へ引かれているみたいだった。

あの感覚を思い出すと、胸の奥が冷えた。


風間は教室後方で机へ突っ伏していた。

「マジで地下は嫌いだ……」

「お前、昨日一番先に入ってただろ」

「勢いだよ勢い。止まったらヤバい気したんだって」


仁十は視線を外す。

誰も平気ではない。

ただ、それぞれ違うやり方で耐えている。


チャイムが鳴る。


教室の空気が、再び日常へ戻っていく。

それでも仁十だけは、どうしても窓の外へ意識が引かれた。


校庭の向こう。


旧校舎。


雨上がりの灰色の壁面。


その窓硝子へ、一瞬だけ地下通路の暗闇が重なる。


すぐ消える。


だが確かに見えた。


最近、頻度が増えている。

以前より鮮明に。

しかも長い。


頭痛も強くなっていた。

人の顔と記憶が、時々噛み合わなくなる。

昨日話した内容を思い出そうとして、二つの記憶が一瞬重なった。

どちらが本当だったか、すぐには判断がつかなかった。


昼休み。

仁十は一人で廊下へ出た。

騒がしい空気から離れたかった。


窓を開ける。

湿った風が入り込む。

遠くで救急車の音が聞こえた。

新宿は今日も動いている。

膨大な人間を飲み込みながら。


「日暮里くん」

振り返る。

声の主は常葉鼎だった。白衣姿。

いつも通り穏やかな表情。


それでも、薄暗い廊下へ立つと、この教師は時々、人間というより“校舎側”の存在に見えた。


鼎は隣へ並んだ。

しばらく何も言わない。

ただ校庭を見ている。


「昨日は、よう生き残りましたね」

「……先生は、知ってたんですか」

「ある程度は」

「ある程度で済ませるんですか」


鼎は少し笑った。

「全部説明すると、君は戻れんようになる」

その言葉だけが妙に残った。


戻れない。

どこから。

どこへ。


仁十は聞けなかった。

鼎が静かに続ける。

「逢坂学園が、どういう場所か考えたことあります?」

「ただの学校じゃないんですか」

「そう思えるうちは、それでいいです」


風が吹く。

旧校舎の窓が鈍く光る。

「どういう意味ですか」

鼎は、それに答えず話を進めた。


「あの旧校舎が残っとるのには理由があります」

仁十は眉を寄せる。

鼎がふと視線を向ける。


「君、最近“呼ばれてる”でしょう」


その瞬間。

背筋が冷えた。

仁十は答えられなかった。


地下ホーム。

窓硝子。

存在しない通路。


最近、異常は向こうから現れる。

偶然ではない。


“近づいてきている”。


その感覚が、ずっとあった。


鼎は仁十の沈黙を否定しない。


「都市いうんはな……」

鼎は少し言葉を切った。


「均衡というもんは、崩れる前に、たいがい先に軋みます」


それだけだった。

「……俺に何か関係あるんですか?」

初めて、自分自身のことを聞いた。


鼎は少し考える。

「原因……というより、中心に近い」

それは否定ではなかった。

仁十の喉が乾く。


自分が歩くだけで、境界が軋む。

自分が見ることで、過去が浮上する。

そんな話を、以前なら笑い飛ばした。


もう、笑い飛ばせない。

地下ホームの暗闇を思い出してしまう。


あそこには確かに、“存在しなかったはずの新宿”があった。


鼎が低く言う。

「せやけど、まだ戻れる」

「……何に」

「普通へ」


その一言だけが、耳の奥に沈んでいった。

鼎は続けない。


チャイムが鳴り、昼休みが終了した。

校舎へ再び日常の音が満ち始める。


生徒たちの足音。

笑い声。

教室のざわめき。


その全部が、“現実”を維持する音みたいに聞こえた。


鼎は歩き出す。


去り際、一度だけ振り返る。

「深追いせんことです。境界は、見返した瞬間に近づいてくる」


白衣の背中が廊下奥へ消える。


仁十は一人残った。


窓硝子へ自分の顔が映っている。


それでも一瞬だけ、その奥に別の景色が重なった。


地下。

濡れたホーム。

深緑色の列車。


暗闇の向こうで、誰かがこちらを待っている。


あれは偶然ではない。

冷たさだけが、最後まで残った。

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