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終電前


“消えたクラス”の生徒を見た――。


そんな噂が最初に流れたのは、三日後だった。

昼休みが終わる頃には、その話は学年を越えて広がっていた。


新宿駅西口地下で撮影された動画。

逢坂学園の制服を着た少女が映っているらしい。

誰かが言い出し、誰かが拡散し、気づけば教師たちまで内容を把握している。


だが奇妙なことに、動画の話だけが広まり、その少女が誰なのかを知る者はほとんどいなかった。


放課後。仁十《にと》たちは視聴覚室へ集まっていた。

窓ガラスを伝う雨粒が曇天の光を滲ませ、室内を薄暗く見せていた。


侑理《ゆうり》がノートパソコンを開くと、画面には問題の動画が表示されていた。再生時間は十数秒、駅構内を歩きながら撮影された、ごくありふれた映像だった。


雑踏と、改札へ向かう人の流れ。

聞き取りづらいアナウンスが遠く響いている。

誰も気に留めない日常の断片。


だが動画の終盤、人混みの向こうを一人の少女が横切る。

逢坂学園の制服だった。

「ここ」

侑理が映像を停止した。


少女の横顔が映っている。

画質は荒い。

輪郭も不鮮明だった。


真昼が小さく息を呑んだ。

「……見たことある」

その声は確信と迷いの中間にあった。


侑理が頷く。

「三年C組の出席名簿」

室内が静まる。

雨音だけが聞こえた。


風間が眉を寄せる。

「待てよ」

椅子へ深く腰掛けたまま腕を組む。

「つまり何だ」

誰に聞くでもなく言った。

「消えた奴が地下歩いてるって話かよ」


「断定はできない」

侑理は画面から目を離さなかった。

「でも問題はそこじゃないの」

「この動画、変なの」

侑理は画面を拡大した。

「変?」

仁十が覗き込む。


「背景」

侑理は通路奥を指差した。

「この案内板」

誰もすぐには分からない。


侑理が続ける。

「今の西口地下街に、こんな位置の案内板なかったの」


真昼が画面を覗き込む。

「もしかしたら動画はフェイク?」

「その可能性もある」

侑理は即答しなかった。


再び沈黙が落ちる。

古い空調の風が室内を巡っていた。


仁十は動画を見ていた。

少女ではない。

その後ろだった。


人波の向こう。

通路の奥。

一瞬だけ映り込む案内板。

白地に黒文字。

古びた書体。


〈京王線 4番線ホーム〉


その文字が妙に気になった。

見たことがある気がする。


――いや。


正確には違う。

見たことのないはずの景色なのに、どこかで既に知っている。

そんな感覚だった。


胸の奥が重くなる。

動画が終わっても、視線を外せなかった。

「……行って確かめる」


風間が真っ先に反応する。

「行かねえ理由はないな」


侑理も否定しなかった。

真昼だけが黙っている。

動画ではなく仁十を見ていた。

「仁十くん」

呼ばれて視線を向ける。


真昼は少し迷うような顔をした。

「最近、変じゃない?」

仁十は眉を寄せた。

「何が」


「何か」

真昼は言葉を探しているようだった。

「遠く見てること増えた」


答えられなかった。

図星だった。


ここ数日、妙なことが続いている。

駅へ向かう途中。

地下街を歩いている時。

人混みの中にいる時。


存在しない音が聞こえる。

列車接近音。

遠いアナウンス。

人の流れ。

振り向いても何もない。

だが確かに聞こえる。

しかも日に日に近くなっていた。


その時だった。

視聴覚室の扉が開いた。振り向くと、白衣の肩を少し濡らした鼎が立っていた。

外の雨はまだ続いているらしい。

「話、聞こえてましたよ」

平然と言う。


風間が即座に顔をしかめた。

「盗み聞きかよ」


鼎は椅子を引いて腰を下ろした。

そのまま動画を見る。

何も言わない。

だが映像が終わる頃には、表情がわずかに変わっていた。


ほんの僅かだった。

見落とす程度の変化。

「……まだ残っとったか」


侑理が反応する。

「知ってるんですね」

「ある程度は」

「説明してください」


雨が強くなっている。

ガラスへ打ち付ける音が聞こえた。


「……新宿駅いうんはな、古い通路を潰して、新しい通路を作る。その上へまた別の構造を被せる。同じことを繰り返しとる」


窓の外で雷鳴が遠く響いた。

「終わり切らん場所いうんは、案外残るもんです」

仁十が腕を組む。

「残る……?」


鼎は少し考えた。

言葉を選ぶような間だった。

「土地の記憶です」

誰も動かなかった。


雨音だけが続く。

「人間は毎日同じ道を歩く。毎日同じ場所を通る。そういう流れは土地へ残る」

穏やかな声だった。


だが内容だけが不穏だった。

「忘れられたはずの場所でも、人が通り続けた記憶だけは消えへんことがあります」


仁十は無意識に拳を握った。

聞いているうちに、頭の奥が重くなってくる。


駅の匂いだった。

存在しないはずのホーム。


鼎の視線が向く。

「日暮里くん」

仁十は顔を上げた。

「君、最近、音を聞くでしょう」


心臓が一拍遅れる。

室内が静まり返った。

「……なんで分かるんですか」

鼎は、それには触れなかった。

ただ静かに言った。

「境界が浅なっとる」


その言葉だけで、空気の温度が下がった気がした。

「放っておいたら?」

「戻れなくなります」

短い返答だった。

誰も続けられなかった。


その時。

澪がふいに窓の外を見た。

今まで一度も口を開いていない。


だが表情だけが変わった。

白い頬がわずかに強張る。

「……来る」

小さな声だった。

誰も反応できなかった。


直後。

照明が落ちた。

視聴覚室が暗闇へ沈む。

空調音が止まる。

パソコンの駆動音も消える。

世界から音だけが抜き取られたような静寂だった。


そして、その奥から聞こえた。


列車の接近音だった。

重い振動を伴う低い走行音。

地下深くから迫ってくる。


仁十の喉の奥で息が止まった。

学校の四階だ。

線路など存在しない。

それでも音は近づいてくる。


窓ガラスの向こうで景色が揺れた。

校庭が消える。

雨の街も消える。

代わりに現れたのは地下ホームだった。


濡れたタイル。

古びた柱。

煤けた案内板。

無数の人影。

その全てが、曇ったガラス越しに見える。


列車が滑り込んでくる。

深い緑色の車体。

だが行先表示が、文字が滲んで読めない。


窓際に人影が立っていた。

少女だった。

制服姿。

消えた教室の生徒。

彼女はこちらを見ていた。

何かを待つように。


停電が復旧した瞬間、風景は消えた。

照明が戻る。

空調が再び動き出す。

誰も声を出さない。

だが全員が見ていた。

幻ではなかった。


澪が静かに呟く。

「終電が来る前に行かないと」


誰も反論しなかった。

窓の外では雨が降り続いている。

そして仁十は、自分たちがもう後戻りできない場所まで来てしまったことを理解していた。


* * *


新宿駅西口へ着いた頃には、雨脚はさらに強まっていた。

地上へ溢れる光は濡れた舗道の上で滲み、車のヘッドライトや大型ビジョンの映像を曖昧に引き延ばしている。

排気熱を含んだ湿った空気が低く滞り、夜の街全体を覆っていた。


終電まではまだ時間がある。

それでも駅へ吸い込まれていく人波は途切れない。


地下へ降りた瞬間、仁十は足を止めた。


空気が違う。

地下街特有の人工的な空気の奥に、別の匂いが混じっている。

長い間陽の当たらなかった場所の匂い。

地下水の気配。

まるで封鎖された施設の奥へ足を踏み入れたような感覚だった。


「……近い」

澪が呟く。

彼女は改札脇の壁面を見ていた。

広告パネルが並ぶだけの場所だった。


行き交う人々は誰一人として立ち止まらない。

だが仁十の目には違うものが映っていた。


壁の向こう。

ほんの一瞬だけ。

暗い通路が重なる。

古い蛍光灯。

剥がれかけた塗装。

錆びた案内板。


瞬きをすると消える。

だが見間違いではなかった。


侑理は歩きながら、持ってきた資料を見比べていた。

スマートフォン。

紙の図面。

複数の資料を何度も確認している。

「昭和五十年代以前の図面だと、旧連絡通路が存在する」


真昼は周囲を見回していた。

駅構内はいつも通りだった。


アナウンス。

改札音。

人の流れ。

売店の照明。

何一つ異常はない。


なのに胸の奥だけが落ち着かなかった。

自分たちだけが別のものを見ている。その確信だけがあった。


鼎だけは変わらない。

人波の中を歩きながら、普段と同じ顔をしていた。

「長居はしませんよ」


風間が鼻を鳴らす。

「戻れなかったら?」

半分は冗談だった。

だが鼎は笑わなかった。

「その時は」

少し間を置く。


「今の新宿には帰れへんでしょうね」


真昼が思わず振り返る。

鼎は平然としていた。

冗談を言った人間の顔ではなかった。


地下通路を進むにつれ、人の流れが減っていく。

営業を終えた店舗。

シャッター。

薄暗い搬入口。

関係者以外立入禁止。


同じ駅の中とは思えないほど空気が変わっていた。

終電前の駅とは本来、人で満ちている場所のはずだった。

だが今いる区画だけは違う。

忘れられた場所。

そんな言葉が似合う。


やがて仁十は立ち止まった。

理由は説明できなかった。

呼ばれたような気がした。

視線の先には広告パネルが並んでいる。

それだけだった。


だが、そこだけ空気が冷たい。

地下全体に漂う湿気とは別の冷たさがある。

壁の向こうから滲み出しているような温度だった。


「……ここだ」

仁十は呟いた。

澪がゆっくり近づく。

白い指先が壁へ触れる。

瞬間だった。

照明が一度だけ明滅した。

周囲の音が遠のく。


改札音。

人の声。

アナウンス。

全てが膜越しになる。


人の流れさえ鈍く見えた。

水面みたいな揺らぎが壁面へ広がる。


風間が思わず声を落とす。

「おい……」

広告パネルの向こう。


通路が現れていた。

古い地下連絡路だった。

現在の新宿駅より天井が低い。

壁面の塗装は剥げ、剥き出しの配線が走っている。

床は濡れていた。

長い年月、陽の当たらなかった場所の色をしている。

だが確かに続いていた。


侑理の顔色が変わる。

「そんな……」

目を見開いている。

仁十が言った。

「行こう」


真昼が仁十を見る。

「大丈夫?」

答えはすぐに出なかった。

頭痛がする。

胸が重い。


「分からない」

真昼は小さく笑った。

「正直だね」


通路内部は異様な静けさだった。

駅の中にいるはずなのに、駅の音が聞こえない。

代わりに遠くから水音が響いてくる。


地下水だった。

見えない場所を流れている。

壁面には古い案内板が残されていた。

汚れた白地。

掠れた文字。


〈京王線 4番線ホーム〉


仁十は立ち止まる。

頭の奥が軋んだ。

視界が揺れる。

通路が重なる。


古い新宿。

再開発前の地下街。

仮設通路。

工事区画。

消えていった人々。


それらが一つの場所へ折り重なっている。

新宿という都市が積み重ねてきた時間そのものだった。


「仁十」

風間の声で我に返る。

「前見ろ」

通路の先に人影が立っていた。

制服姿の少女だった。

消えた教室の生徒。

彼女は微動だにせずこちらを見ている。

感情の薄い顔だった。

まるで長い夢の途中にいる人間みたいに。


真昼が一歩前へ出る。

「ねえ」


少女は口を開かない。

しばらく沈黙が続く。

そして。

静かに口を開いた。

「もうすぐ来るよ」

その声だけが異様に自然だった。


次の瞬間。

地下の奥から風が吹いた。

列車接近時特有の圧力だった。

侑理の顔色が変わる。

「まずい」


風間が振り返る。

「何が」

侑理からの返事はない。

答える余裕がなかった。

通路のさらに奥。

闇の向こうから。

確かに列車の音が近づいていた。


* * *


列車の音は、徐々にではなく、気づけばそこにあった。

地下の奥から響いてくる。

重い車輪がレールを踏む振動。

空気を押し出す風圧。

遠くにあるはずなのに、耳元で鳴っているようにも感じられた。


少女は振り返らない。

まるで迎えを待っていた人間のように、通路の奥を見つめている。


「まずい」

侑理がもう一度言った。

声が硬い。

「だから何だよ」

風間が苛立ったように返す。


澪が静かな声で言った。

「向こうに寄ってる」

その言葉の意味を理解する前に、通路の先が開けた。


ホームだった。

存在してはいけない駅。

仁十は思わず息を止める。

低い天井。

煤けた蛍光灯。

濡れたタイル。

壁面には古い広告が並んでいる。

だが年代が揃っていなかった。

見たこともない地下街の案内図。


ホームには人影がいた。

大勢いた。

誰もが普通の顔をしている。

だが輪郭が曖昧だった。

ガラス越しに見る映像のようにぼやけている。


彼らは歩く。

立ち止まる。

列に並ぶ。

だがこちらには一切気づかない。

同じ場所にいながら、別の時間を生きているようだった。


鼎が静かに言った。

「……あまり見ん方がええ」


だが、遅かった。仁十は見てしまった。

ホームの向こう側。

線路の先。

闇の中に何かが積み重なっている。

人のようにも見える。


見ようとするほど形が崩れる。

それなのに視線だけが吸い寄せられる。

胃の奥が冷たくなった。

あれは見てはいけないものだった。


その時だった。

列車が姿を現した。

闇の奥から滑り込んでくる。

濃い深緑色の車体。

古い形式だった。

現在の京王線には存在しない。

ヘッドライトだけが異様に白い。

光というより、穴が開いているような白さだった。


列車がホームへ到着する。

制動音が低く響く。


ホームの空気が変わった。

人影たちが一斉に動き始める。

急いでいるわけではない。

押し合うわけでもない。


ただ自然に。

当たり前の帰宅風景のように、列車へ向かって歩き出す。

少女も同じだった。

一歩。

また一歩。

迷いなくホームの端へ向かう。


風間が動いた。

考えるより先だった。

少女の腕を掴む。

「行くな」

少女は抵抗しない。


振り返る。

その顔には怒りも驚きもなかった。

ただ少しだけ不思議そうだった。

「どうして?」

少女は静かに続けた。

「もう、こっちの方が自然なのに」


仁十は制服の襟を見る。

雨に濡れた逢坂学園の校章。見覚えのある色だった。

「じゃあ何で、制服を着てるんだ」

少女が顔を上げる。

「その制服を着てるってことは、まだ帰りたいんじゃないのか」

少女は視線を向ける。


「学校に、いたでしょう」

真昼の声がわずかに震えていた。

それでも目は逸らさない。

「教室で、みんなでお昼食べて」

「課題が面倒だって言って、購買でパン取り合って、雨の日は最悪だって文句言って」


少女の表情がわずかに変わる。

ほんの僅かだった。

だが確かに揺れた。


真昼は一歩前へ出た。

「そういうの、あったでしょう」

ホームに沈黙が落ちる。


列車の扉は開いたままだった。

人影たちは乗り込んでいく。

誰一人こちらを見ない。


だが少女だけは立ち止まっていた。


「帰ろう」


真昼が言う。


「帰ろうよ」


少女の瞳が揺れる。

何かを思い出そうとしている顔だった。


その瞬間。

澪が壁へ手をついた。

顔色が白い。

「閉じる」

苦しそうに呟く。


鼎が即座に動いた。

侑理が持っていた図面を取り上げる。


「先生?」

侑理が声を上げる。

振り返る余裕もないまま、鼎は図面を床へ広げる。

靴底で踏みつける。

乾いた音が響いた。

「接続が深なる前に戻します」

低い声だった。


ホーム全体の空気が軋む。

照明が明滅した。

列車の窓へ並んでいた人影たちが、一斉にこちらを見る。


仁十の背筋が凍る。

窓の奥。

人影のさらに奥。


暗闇が見えた。

底がない。

どこまでも続いている。

新宿という街が忘れてきたもの全てが沈殿しているような闇だった。

頭痛が走る。

視界が歪む。


だがその時。

真昼の声だけが聞こえた。

「帰るよ!」


少女が顔を上げる。

その瞳に初めて感情が宿った。

迷いだった。

次の瞬間。

仁十は少女を引き寄せた。


ホームの景色が崩れ始める。

壁面が滲む。

広告が剥がれる。

照明が消える。

列車の輪郭が崩れていく。

まるで長い夢が覚める時みたいに。

風圧が吹き抜けた。


仁十は目を閉じる。


そして。

次に視界が戻った時には、地下通路の床へ倒れ込んでいた。


冷たいタイルの感触。

現実の照明。

アナウンス。

人の足音。

駅の音が戻っている。


周囲では一般客が普通に歩いていた。

こちらを気に留める者はいない。

誰も異常に気づいていない。

壁面には広告パネルが並んでいる。


通路は消えていた。

まるで最初から存在しなかったみたいに。

風間が大きく息を吐く。

そのまま床へ座り込んだ。

「……二度と来たくねぇ」


真昼は少女の肩を支えていた。

少女は眠っている。

だが呼吸はある。

体温もある。

確かにこちら側へ戻ってきていた。


鼎は人波の向こうを見ていた。

その横顔は、どこか疲れているようにも見えた。

「街いうんはな」

静かな声だった。

「忘れたもんの上にも、平気で道を作るんです」


人の流れは止まらない。

振り返る者はいない。

ただ自分の帰る場所だけを見ている。

「全部覚えたままやったら、街は前へ進めへん」

鼎はそう言ったきり、もう何も言わなかった。


仁十は地下通路の奥を見る。

もう何もない。

ただ人が歩いているだけだ。


それでも耳を澄ませば、聞こえる気がした。

深い地下の底から。

終電の発車ベルが鳴っている。

誰も乗るはずのない列車へ向けて、いつまでも途切れることなく。

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