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消えたクラス


翌朝、旧校舎は封鎖されていた。

黄色い立入禁止テープが渡り廊下を横断している。職員が数人立ち、生徒を迂回させていた。


雨は止んでいたが、空気にはまだ昨夜の湿気が残っている。曇天の光が校舎の窓へ鈍く張り付き、建物全体を薄灰色へ沈めていた。


「マジで封鎖してる」

風間が低く言った。

「大事になってんな」


「え、あそこ使えないの?」

「昨日まで普通だったじゃん」

「漏電らしいよ」

「いや転落事故って聞いた」


周囲では生徒たちが好き勝手に噂している。だが誰も、“あの階段”の話をしない。まるで最初から存在しなかったみたいに。


仁十《にと》は足を止めた。

封鎖された渡り廊下の奥に、一瞬だけ別の通路が重なる。

古い蛍光灯。濡れた壁。地下へ続く案内表示。


〈連絡通路〉


知らない名前だった。瞬きをすると消える。


ホームルーム開始直前、鼎《かなえ》が教室へ入ってきた。白衣は昨日と変わらず整っている。

「旧校舎側への立入は禁止します」


穏やかな声だった。

「昨夜、一部設備で不具合がありました。安全確認が終わるまで近づかんように」


教室内に小さなざわめきが走る。

「センセ、何あったんすか」

風間が気軽に聞く。


鼎は黒板へ視線を向けたまま答えた。

「生徒が一人、迷いました」

「迷う?」

「校舎は広いですから」


それだけだった。だが仁十は気づく。鼎は“消えた”とは言わなかった。“迷った”。

言葉を選んでいる。


授業は続いた。だが集中できない。窓の外を見るたび、存在しない渡り廊下が繋がっては消える。視界が定まらない。


昼休み。

仁十は弁当を持ったまま、何となく教室を出た。騒がしい場所にいる気分ではなかった。


昨夜から続く違和感が、まだ身体の奥に残っている。窓の外は曇っていた。雨は上がっている。だが校舎全体が湿気を抱え込んだまま沈んでいるように見えた。


足は自然と、旧校舎の見える側へ向いていた。渡り廊下からは離れた、視聴覚室裏の空きスペース。人通りが少ない。

使われなくなった備品棚と換気設備に挟まれた半端な場所だった。


昼休みでも滅多に人は来ない。

仁十が壁際へ腰を下ろした時だった。

「ここにいたか」

声がした。振り向くと、風間が紙パックの飲み物を片手に立っていた。


「何となく来そうな気がした」

「俺も何となくだ」

風間は隣へ腰を下ろす。


その数分後には真昼が現れた。

「やっぱり集まってる」

呆れたように笑う。


「待ち合わせしてたの?」

「してない」

「してないな」

二人同時の返答に、真昼が肩を竦めた。


数分後。誰も呼んでいないはずなのに、澪まで姿を見せた。彼女は何も言わない。空いている場所へ静かに腰を下ろしただけだった。


誰かが連絡したわけではない。約束もしていない。それなのに昨夜あの階段を見た四人だけが、同じ場所へ集まっていた。


古い換気扇の低い駆動音が続いている。曇天の光がコンクリートの床へ鈍く落ちていた。

しばらく誰も口を開かなかった。


だが沈黙は不自然ではなかった。昨夜見たものを、まだ言葉にできる者はいなかったからだ。


「で、結局なんなんだよ、あの廊下」

風間が壁へ背中を預けたまま言った。

すぐに答える者はいなかった。


真昼は弁当箱の蓋を閉じ、澪は窓の外を見ている。

「分かるわけないか」

風間は小さく息を吐いた。


仁十は窓の外を見た。曇り空の下、封鎖された旧校舎が沈んでいる。あの建物だけ、時間が違う。そんな感覚が離れない。


澪が静かに口を開いた。

「あなた、最初から見えてたでしょう」

仁十は視線を動かさない。数秒の沈黙。

「……たぶん」


真昼は黙って仁十を見ていた。何かを考えているようだった。だが、何も言わない。

その沈黙が、かえって奇妙だった。


その視線の意味は分からない。だが、同じ場所に立ちながら、見ているものが違う。


――見える側と、見えない側。


そんな言葉だけが、ふいに頭をよぎった。


五限目の途中だった。

隣のクラスの生徒が、突然騒がしくなった。

最初は、誰かがふざけているのかと思った。


教師に注意されて終わる程度のことだろうと、誰もが思ったはずだった。

だが騒ぎは収まらなかった。隣の教室で椅子を引く音が続く。

廊下を走る足音が聞こえた。教室の空気がわずかに変わる。


「何だ?」

風間が窓際から身体を起こした。

教師も顔を上げる。廊下側の窓へ視線を向けたまま、数秒動かなかった。


その時だった。廊下の向こうから声が飛んできた。

「おい、本当に無かったぞ」

教室が静まる。

「無かったって何が」

誰かが聞く。

返ってきた声は妙に遠かった。

「三年C組だよ」


一瞬、空気が止まった気がした。理由は分からない。だが、その言葉だけが異様な重さを持って聞こえた。

教師が教科書を閉じる。


「少し待機してください」

そう言って教室を出ていった。残された教室に沈黙が落ちる。


窓の外は曇っていた。昨夜の雨が校舎の隙間へ残り、灰色の光が廊下へ滲んでいる。

誰かが口を開いた。


「三年C組ってどこだっけ」

「三年棟の端じゃなかった?」

「ああ、渡り廊下の向こう」

答えは返る。だが、どこか曖昧だった。


「文化祭の時行った気がする」

「俺も」

「担任誰だっけ」

そこで言葉が止まる。誰も続けられない。数秒の沈黙。


妙な感覚だった。知っているはずなのに思い出せない。記憶の端へ手を伸ばしても、触れる前に霧散していく。その空気だけが、教室全体へ広がっていった。


その時、教師が戻ってきた。顔色が悪い。だが、それもほんの一瞬だった。席へ戻る頃には表情が曖昧になっていた。何かを忘れた人間の顔だった。


「授業を再開します」

教室がざわつく。一人の生徒が手を挙げた。

「先生、三年C組って」

教師は一瞬だけ言葉に詰まった。ほんの一秒。それから静かに首を傾げる。


「三年C組?」

「さっき――」

生徒も途中で止まる。


何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなったようだった。

教師は黒板へ向き直る。


「空きスペースのことですか」

その言葉に数人が顔を上げる。

「空きスペース?」

「いや……」

反論しかけた声が弱まる。


「そうだったっけ?」

誰かが呟く。

別の誰かが頷く。

記憶が揺れている。目の前で。音もなく。教師も生徒も。


何かを思い出そうとしている。だが、そのたびに指の隙間から零れていく。


仁十は言いようのない違和感を覚えた。

自分は知らない。転校してきたばかりだ。だから比較できない。


だが周囲は違う。

さっきまで確かに動揺していた。

何かを知っていた。

それなのに今は、それを忘れ始めている。


窓の外で風が吹いた。曇天の光が校舎の壁を滑る。

その時、仁十の視界の端で何かが揺れた。三年棟へ続く渡り廊下。一瞬だけ、その先へ別の廊下が重なる。


薄暗い蛍光灯。湿った壁。見たことのない古い校舎。

瞬きをすると消えた。だが嫌な感覚だけが残った。

まるで何かが削られている。校舎ではない。人間の記憶そのものが。


放課後になっても、ざわめきは消えなかった。

教師たちは平静を装っていたが、生徒たちの間には説明のつかない違和感だけが残っている。

だが、その違和感も少しずつ薄れ始めていた。


帰り支度をしながら、「結局なんだったんだろうな」と話していた生徒も、校門へ向かう頃には別の話題へ移っている。


忘れ始めている。

そう思った。


「見に行くか」

風間が言った。

誰に向けた言葉でもなかった。


だが真昼も、澪も反対しなかった。


四人は顔を見合わせ、そのまま歩き出した。


問題になっている場所はすぐに分かった。


廊下の途中。

教室が並ぶはずの位置だった。

白い壁。

掲示板。

蛍光灯。


そして何もない。


「昨日まで、ここ三年C組だったよな?」

風間が低く言った。

「そう、だった……よね?」

真昼の声は曖昧だった。

「……」

その時だった。


「失礼」

聞き慣れない声だった。ファイルを抱えた女子生徒が、人混みを抜けてくる。胸元には生徒会章が光っていた。


「三年C組の件、確認させて。最初に気づいたの誰?」

迷いのない口調だった。

「あ、藤守さん」


真昼が小さく手を振った。

「どうしたの?」

「三年C組について、確認してほしいという話が来たの」


真昼が仁十を振り返る。

「日暮里くん、生徒会長の藤守侑理さん」

「はじめまして。藤守です」

「……どうも」

仁十は軽く頭を下げる。


侑理が持ってきた三年棟の配置図。教室番号が途中で飛んでいた。三年B組の次が空白になっている。まるで最初からそこだけ存在しなかったみたいに。


「昨日見たのに」

侑理は画面から目を離せない。

「昨日まで記録があったのに」


風間が低く舌打ちした。

「ふざけんな」

誰へ向けた怒りなのか分からない。

だが、その表情だけは、はっきりと拒んでいるように見えた。


納得していない。受け入れていない。

周囲が忘れ始めていることに対して。

教師たちが平然としていることに対して。


「昨日まで教室あっただろ?」

「だから、それを確認してるの」

「確認してどうすんだよ」

「確認しないと、何が変わったのか分からないでしょ」


真昼は少し離れた場所に立っていた。壁を見ている。いや、見ようとしている。何かを思い出そうとしている。眉がわずかに寄っていた。


「私……」

小さな声だった。

「知ってる気がする」

続かない。指先が、記憶の表面をなぞるように一度だけ動いて、止まった。


記憶の端に指先が触れている。だが掴めない。掴んだ瞬間に崩れていく。そんな顔だった。


澪だけが別の方向を見ていた。壁ではない。空白でもない。その向こう。誰の姿もないはずの場所を見ている。

「静か」

ぽつりと呟く。


侑理が振り向いた。

「何が」

澪はしばらく答えなかった。それから。

「昨日まで、いた」

澪は白い壁の奥を見つめたまま言った。

「たくさん」


誰も意味を尋ねなかった。尋ねるべきではない気がした。空白になった空間の奥で、冷たい空気だけが微かに流れていた。


夕方。

五人は職員棟へ呼び出された。図書資料室だった。古い書籍と資料が積まれている。

民俗学資料。都市地図。地下水脈図。

珈琲の匂いが薄く漂っていた。


鼎が椅子に座ったまま言う。

「単独行動は勧めません」

「どういうことですか」

仁十が訊く。


鼎は少しだけ視線を伏せた。

「消えたもんを追いかける人間は、たいてい帰り道を間違えます」

言葉を返す者はいない。


鼎は静かに、冷めかけた珈琲へ手を伸ばした。

「ひとりで追わん方がええ」

「何が起きてるんですか」

侑理が食い下がる。


だが鼎は首を横へ振った。

「もう始まっとるからです」

鼎の視線が、一瞬だけ仁十へ向いた。

鼎はそれ以上説明しなかった。


窓の外では夕暮れが新宿を灰色へ沈めている。


――たくさん


澪は、そう言っていた。

けれど仁十には、誰一人思い出せない。


もし人まで消えたとしたら、自分たちはそれに気づけるのだろうか。

その問いだけが、妙に頭から離れなかった。

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