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転校生


新宿駅南口は、雨の匂いがした。

小雨が、アスファルトの上を薄く濡らしている。

湿った熱気が高架下にこもり、人の流れだけが絶え間なく街を押し流している。


日暮里《ひぐらし》仁十《にと》は、群衆を避けるように歩きながらスマートフォンの地図を確認した。


人が多すぎる。


仙台の駅前も人はいた。だが、ここは違う。誰もが急ぎ足で、互いに視線を交わそうとしない。立ち止まることさえ許されないように、人波は途切れることなく流れ続けていた。


何気なく顔を上げる。


ビルの隙間に、細い路地が見えた。

濡れた石畳。低い軒先。奥へ沈むような細い道。


思わず目を凝らした瞬間、その景色は消えた。


そこにあったのは、広告看板が並ぶ雑居ビル街だけだった。


「……疲れてるのか」

小さく息をつき、再び歩き出す。


目的地は、私立逢坂学園。

古い校舎を改築した学校だと聞いている。


十分ほど歩き、校門の前で足を止めた。

門柱だけが新しい。

黒御影石に白い文字で校名が刻まれている。


――私立逢坂学園。


その奥に広がる校舎は、何度も増改築を繰り返したような造りだった。

塗り直された外壁の下から、湿気を含んだ古さだけが滲んでいる。


校門をくぐる。

その途端、空気が変わった。

車道の熱気が遠のき、乾いた石と木の匂いが鼻をかすめる。


静かだった。


都心の学校とは思えないほど、街の喧騒が遠い。

校舎を見回した仁十《にと》の視線が、中庭の奥へ吸い寄せられた。


半地下へ沈むようなコンクリートの階段。

黒ずんだ手すり。

薄暗い踊り場。


案内図には、そんな場所はなかったはずだ。


瞬きをする。


植え込みしかなかった。

見間違い――そう思うのに、妙な感覚だけが残る。

知らない場所のはずなのに、前からそこにあった気がした。


「日暮里《ひぐらし》くん?」


声を掛けられ、振り向く。

女子生徒が立っていた。明るい色の髪。大きな瞳。

傘は差していない。小雨が肩先に薄く光っていたが、気にする様子もなかった。雨曇りの光の中で、表情だけがやけにはっきりしている。


「職員室、迷ってるでしょ?」

「……たぶん」


「やっぱり」

彼女は小さく笑った。


「今日、転入初日だもんね。先生に案内頼まれてたんだ。わたし、御景《みかげ》真昼《まひる》」

「日暮里《ひぐらし》仁十《にと》」

「よろしくね!」


真昼は歩き出した。

「この学校、最初は迷うよ」


「そんなに複雑なのか」

「うん。増築ばっかりしてるから。旧校舎と新校舎を無理やり繋いでる感じ」


廊下を曲がるたび、景色が少しずつ変わる。

新しい床材の先に古い窓枠が続き、その先には塗り直された壁がある。

建物を継ぎ足した跡が隠しきれず残っていた。


「慣れるまではちょっと大変だよ」

真昼は笑って振り返る。

「それに、変な噂もあるんだよね」

少しだけ声を潜める。


「噂?」

朝見た階段が脳裏をよぎる。

「まあ、よくある七不思議みたいな話だけどね」

言ってから、真昼は笑った。


その時だった。


廊下の向こうで、男子生徒たちの声が聞こえた。

「聞いた?」

「旧校舎のやつ?」

「一年が消えたって話」

すれ違いざまの小声だった。


仁十《にと》は思わず振り返る。

「ただの噂だから」

真昼は少しだけ間を置いて言う。


「気にしなくていいよ」

そう言って歩き出す。


職員室前には観葉植物が並び、ガラス戸の向こうでプリンター音が響いていた。


真昼が扉を開ける。

「失礼します。転入生、連れてきました」

数人の教師が顔を上げる。その中で、一人だけ視線を止めた男がいた。


白衣姿の教師だった。三十代半ばほど。

整えられた髪。柔らかな目元。研究者のような空気を纏っている。

男は仁十《にと》を見ると、静かに笑った。


「日暮里《ひぐらし》くんですね」

わずかに関西訛りが混じる声だった。


「常葉《ときわ》鼎《かなえ》です。担任です」

仁十《にと》は軽く頭を下げる。


「この校舎、最初は少し疲れるかもしれません」

穏やかな口調だった。

「増築を繰り返してますから、生徒でも迷うことがあります」

そこで一度言葉を切る。


「……古い建物いうんは、よう記憶を溜め込むもんです」

鼎《かなえ》は柔らかく笑う。

「半分、冗談ですけどね」

仁十《にと》は曖昧に頷いた。


鼎《かなえ》は机上の出席簿を手に取る。

「では、教室へ行きましょうか」

「はい」


職員室を出ると、生徒たちの話し声が一気に近づいた。

廊下を行き交う足音。

窓から吹き込む湿った風。


さっきまでの静けさが嘘のように、校舎は生徒たちの活気で満ちている。


「三階です」

鼎《かなえ》が先に立って歩き出す。

真昼は仁十《にと》の隣へ並んだ。


「職員室って緊張するよね」

「少しだけ」

「先生たちはみんな優しいから、そのうち慣れるよ」


階段を上る途中、仁十《にと》は窓の外へ目を向けた。

雨雲が低く垂れ込め、校舎の屋根を鈍い灰色に染めている。

その向こう、中庭の植え込みが風に揺れた。

朝に見た場所だった。


思わず視線を止める。

だが、半地下へ続く階段はどこにもない。

植え込みがあるだけだった。


「どうかしました?」

鼎《かなえ》が振り返る。

「……いえ」

仁十《にと》は歩き出した。


三階へ着くと、教室から賑やかな声が漏れてくる。

笑い声。

机を引く音。

どこにでもある高校の朝だった。


鼎《かなえ》は扉の前で足を止める。

扉を開くと、教室のざわめきが少しずつ静まっていった。


「席についてください」

生徒たちが慌てて自分の席へ戻る。

鼎《かなえ》は教壇へ進み、黒板にチョークを走らせた。


――日暮里 仁十


「今日から転入してきた日暮里《ひぐらし》仁十《にと》くんです」


教室中の視線が一斉に集まった。

仁十《にと》は教壇の脇へ立つ。


前の学校でも、こういう時間は苦手だった。

注目されるのは最初だけ。気づけば少しずつ輪の外側へ寄っていく。それが当たり前になっていた。


「日暮里《ひぐらし》です。よろしくお願いします」

短く頭を下げる。


一拍遅れて、教室の後ろから声が飛んだ。

「日暮里《にっぽり》?新宿なのに?」

小さな笑いが起こる。

「日暮里《にっぽり》から来たの?」

仁十《にと》は苦笑してもう一度会釈する。


鼎《かなえ》が教室を見回した。

「質問は休み時間にしてください」

穏やかな口調だったが、それだけで教室は静かになった。


「席は窓際後ろの方です」

仁十《にと》が席へ向かう。

その時、背後で椅子が軋んだ。


「どーも」


振り向くと、後ろの席の男子生徒が片手を上げていた。

短く刈った髪。

少し崩したネクタイ。

人懐っこい笑みを浮かべている。


「俺、風間。風間迅」

「日暮里《ひぐらし》です。よろしく」

風間は机に肘をつき、軽く身を乗り出した。

「転校初日って疲れるよな」

「……まあ」

「便利な返事だな、それ」

仁十《にと》の口元が、少しだけ緩む。


少し離れた席から、真昼が振り返った。

「いきなり絡まないの」

「歓迎してるだけだって」

風間は肩をすくめた。


「転校初日って、誰とも話せないまま終わると結構きついだろ?」

「……それは、まあ」

「だろ?」

風間は満足そうに頷いた。

「はいはい」

真昼が苦笑する。


その様子に、教室のあちこちから小さな笑いが漏れる。

転校初日の教室らしい、気の抜けた空気だった。

鼎《かなえ》は教卓の上へ出席簿を置く。

「では、始めましょうか」


一限は現代文だった。

鼎《かなえ》の授業は静かだった。板書は少なく、講義に近い。


「文章を読む時、大事なんは書かれていることだけやありません」


鼎《かなえ》は教室を見回した。


「書かれへんかったこと。書かれなかったこと。その両方を考えることです」


チョークが黒板を走る。

乾いた音だけが教室へ響いた。

「記録いうもんは、残すものを選びます」


仁十《にと》は何となく窓の外へ目を向ける。


「……日暮里《ひぐらし》くん」

鼎《かなえ》の声だった。

仁十《にと》ははっとして顔を上げる。


「最初の日ですし、緊張しますよね」

「すみません」

「気にせんでください」

鼎《かなえ》は穏やかに笑い、再び授業へ戻った。

仁十《にと》は教科書へ視線を落とした。


それでも、胸のどこかに小さな違和感だけが残っていた。


二限、三限、四限。

転校初日は、自己紹介と「転校生を見る視線」が続くだけだった。

気が休まったのは、昼休みになってからだった。


真昼が弁当箱を持ってやって来る。

「ここ、いい?」

「もちろん」

ほどなく風間も後ろの席から話に加わった。


転校初日ということもあって、話題は仙台のことや東京のことばかりだった。


仁十《にと》は答えながら、前の学校ではこんなふうに話しかけられることはなかったな、とぼんやり思う。


雨は朝より強くなっていた。

濡れた中庭の植え込みが風に揺れている。


その奥。

何かが立っていた。

細い人影だった。

雨の中で、微動だにしない。

顔は見えなかった。

それでも、見られている気がした。


「日暮里《ひぐらし》くん?」

真昼の声で、仁十《にと》は視線を戻した。


「どうしたの?」

「……いや、別に」

「そっか」

真昼はそれ以上追及しなかった。


視線を巡らせる。

教室の一番奥。


黒髪の女子生徒が、一人だけ窓の外を見ていた。

周囲の賑やかさから切り離されたように静かだった。

窓の外ではない、もっと遠く――。

ここではないどこかを見つめているようだった。


その視線が、ゆっくりと動く。

仁十《にと》と目が合った。

ほんの一瞬。

何かを確かめるような眼差しだった。


仁十《にと》は思わず目を逸らした。

ただ目が合っただけのはずなのに、胸の奥を静かに覗き込まれたような感覚が残る。


「誰?」

小さく尋ねる。

真昼はその視線を追い、振り返った。

「ああ、月無瀬《つきなせ》澪《みお》さん」


風間が後ろから口を挟む。

「静かなやつだけど、悪いやつじゃねえよ」

澪は二人の声が聞こえていないように、窓の外を見たままだった。

雨粒が硝子を伝い、ぼやけた中庭を幾筋も流れていく。


仁十《にと》はもう一度だけ彼女を見る。

その横顔には何の変化もない。

さっき目が合ったことさえ、最初からなかったようだった。


真昼が首を傾げる。

「どうかした?」

「……いや」

仁十《にと》は首を振った。


気のせいだ。

そう思いながら窓の外へ視線を向ける。

植え込みが風に揺れていた。

さっき人影が立っていた場所には、もう何もなかった。


雨が植え込みの葉を打ち、地面へ細かな波紋を広げていた。

目の錯覚だった。

そう思うことにした。


その時、予鈴が鳴った。

教室の空気が少しずつ切り替わる。


五限、六限はあっという間に過ぎた。

ずっと胸の奥の違和感だけは消えなかった。


朝見た半地下の階段。

窓の外で見た人影。


どちらも、ただの見誤りだったのだろうか。


ホームルームが終わる頃には、雨脚はさらに強まっていた。

窓を叩く雨音が、教室のざわめきを少しずつ飲み込んでいく。

仁十《にと》は鞄を手に取り、何気なく窓の外へ目を向けた。


その瞬間だった。

雨に煙る中庭の向こう。

校舎の陰にある外階段で、誰かが立ち止まっているのが見えた。


制服らしき影だった。

顔はよく見えない。

ただ、不自然なくらい動かなかった。


「どうした?」

風間の声に、仁十《にと》は我に返る。

「外階段に、誰かいる」

真昼も窓際へ歩み寄り、外を覗く。


「どこ?」

「あそこ」

仁十《にと》が指差す。


真昼はしばらく目を凝らした。

「……誰もいないよ」

「え?」

仁十《にと》はもう一度見た。

人影は消えていた。

雨だけが、外階段を白く煙らせている。


「気のせいだよ、この雨だし」

真昼は首を傾げた。

仁十《にと》は、何も言わなかった。


またか。

今日だけで、それを何度思っただろう。


その時だった。

教室の後ろで、小さな悲鳴が上がる。

「えっ」

「今、いたよね?」

数人の生徒が一斉に窓へ集まる。

「外階段!」

「誰か立ってた……」


教室がざわめいた。

仁十《にと》は息をのむ。

自分だけではなかった。


今、誰かが見た。


だが、窓際へ駆け寄った生徒たちは顔を見合わせる。

「……あれ?」

「いない」

「見間違い?」


さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返る。

誰もいない外階段へ、雨だけが降り続いていた。


「何だったんだ、今の」

誰かが小さく呟いた。


答える者はいない。

さっきまで笑っていた生徒たちも、窓の外と互いの顔を見比べている。


その時、教室前方の扉が開いた。

「失礼します」

落ち着いた声だった。常葉《ときわ》鼎《かなえ》が入ってくる。

「雨の影響で下校時間が変更になりました。交通機関の遅延が出ているので、帰宅する際は気をつけてください」


淡々とした告知だった。だが鼎《かなえ》は途中で、一度だけ窓の外へ視線を向けた。


ほんの数秒。

それから視線を戻す。

「……あと」


少しだけ間が空く。

「外階段辺り、よう滑るようになっとる。近づかんようにしてください」


教室内で何人かが顔を見合わせた。

「先生」

一人の女子生徒が窓の外を指差す。

「さっき、外階段に誰か――」

言い終わる前に、鼎《かなえ》は静かに窓の外へ目を向けた。


雨が降っている。

それだけだった。


「見間違いやろうね」

柔らかく笑う。

「この雨です。影もよう動きますから」


教室の空気が少しだけ緩む。

「そう……ですよね」

女子生徒は照れたように笑い、自分の席へ戻った。


だが、仁十《にと》だけは気づいていた。

鼎《かなえ》は一度も「外階段には誰もいない」とは言わなかった。

ただ、見間違いだと言っただけだった。


生徒たちは、それぞれ帰り支度を始めた。

教室には、鞄のファスナーを閉める音や椅子を引く音が重なる。


さっきまでのざわめきも、もう「雨の日によくある出来事」くらいに片づけられ始めていた。


教室を出ようとして、不意に足が止まる。

視線の先。

廊下の窓際に、月無瀬澪が立っていた。


いつの間に移動したのか分からない。

雨の向こうを見つめたまま、じっと動かない。


「月無瀬さん?」

真昼が声を掛ける。

澪はゆっくり振り返った。


その視線が、一瞬だけ仁十《にと》を捉える。

唇が動いた。

「……」

雨音にかき消されたのか、それとも最初から声になっていないのかさえ分からなかった。


仁十《にと》は思わず一歩近づく。

その時だった。


「月無瀬さん」

穏やかな声が廊下へ響く。


振り向くと、白衣の裾を揺らしながら、鼎《かなえ》が歩み寄ってくるところだった。

澪の少し手前で足を止める。

「今日は寄り道せん方がええ」


澪は、口を開かない。

ただ、窓の外を見たまま小さく言った。

「……もう近い」


仁十《にと》には、その意味が分からなかった。

真昼も風間も顔を見合わせる。


「近いって?」

風間が首を傾げる。

澪はそれには答えなかった。

その代わり、ゆっくりと窓の外へ目を向けた。

つられるように仁十《にと》も外を見る。


雨が、さっきよりも激しく窓を叩いている。

その向こうで――。


廊下を行き交う足音の合間に、一瞬だけ湿った土の匂いが鼻先をかすめた。


廊下の照明が、一度だけ明滅した。

照明はすぐに元へ戻った。


「今、点いたり消えたりしなかった?」

真昼が天井を見上げる。

「古いからじゃね?」

風間は気にした様子もなく笑う。

だが、その声はどこか硬かった。


仁十《にと》は窓の外から目を離さない。

雨音だけが大きくなっていく。

それ以外の音が、少しずつ遠ざかっていた。


廊下を歩く生徒の足音。

隣の教室の笑い声。

誰かが閉めたロッカーの音。

どれも聞こえているはずなのに、薄い膜を一枚隔てた向こう側から響いてくるようだった。


澪が小さく息をつく。

「……来る」

その声だけは、はっきり聞こえた。

鼎《かなえ》の表情がわずかに変わる。


「皆さん」

穏やかな声だった。

「今日はもう帰りなさい」


「先生?」

真昼が不思議そうに首を傾げる。

鼎《かなえ》は、何も言わない。

視線は廊下の奥へ向けられたままだった。


仁十《にと》もつられて振り返る。

廊下の突き当たり。

白い壁があるだけの場所だった。


その壁が、ゆっくりと揺れた。

水面へ石を落としたように、景色そのものが波打つ。

誰も声を上げない。

いや、上げられなかった。


壁の輪郭が歪み、床の継ぎ目がゆっくりと形を変えていく。


本来なら行き止まりのはずの場所に、暗い奥行きが生まれた。


湿った空気が廊下へ流れ出す。


古い石と、水の匂いだった。


やがて、その暗がりの中からコンクリートの階段が姿を現す。

半地下へ沈む階段。


黒ずんだ手すり。

雨に濡れた踊り場。

朝、中庭で見たものと同じだった。

違うのは、今度は誰の目にも見えていることだった。


「な……」

風間が言葉を失う。


真昼は息をのみ、無意識に仁十《にと》の腕をつかんだ。


階段の奥は暗く、底が見えない。

その暗闇の中に、人影が立っていた。

制服姿だった。


雨に濡れた、色褪せた制服。

顔は影に沈み、輪郭しか分からない。


それでも、その人影がこちらを見ていることだけは分かった。


仁十《にと》は息をのむ。

足が動かなかった。


――知っている。

見たことがあるはずもないのに、あの階段も、黒ずんだ手すりも、踊り場の冷えた空気も、身体のどこかが覚えている。


「……何だよ、あれ」

風間が小さく呟く。

返事をする者はいない。

誰も動けなかった。


階段の下から、湿った風がゆっくりと吹き上がってくる。

雨とは違う。

長い年月、閉ざされた場所に溜まっていた空気だった。


人影が、ゆっくりと首を傾ける。

その動きは、人を招くようにも、こちらを確かめるようにも見えた。


仁十《にと》は思わず一歩踏み出しかける。

その肩へ、そっと手が置かれた。

「日暮里《ひぐらし》くん」


振り返らなくても、鼎《かなえ》だと分かった。穏やかな声だったが、その手には静かな力がこもっている。

「行ったらあきません」


「先生……あれは」

問いかけても、鼎《かなえ》はすぐには答えなかった。

視線は階段の奥へ向けられたまま動かない。


やがて、小さく息をつく。

「見えてしまいましたか」

問いではなかった。

確かめるような声だった。

仁十《にと》は答えられない。


階段の踊り場では、人影がまだこちらを見ていた。

その姿は雨の向こうへ滲むこともなく、まるで最初からそこに存在していたかのように、静かに立ち続けていた。

お読みいただき、ありがとうございます


新宿の街に残る、忘れられた場所の記憶

そんなものを題材にした物語です


最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

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