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まりあ、悪を知る


「着いたぜ。ここが俺の秘密基地だ」


銀次(ぎんじ)の運転する黒塗りの高級車を降りた瞬間、腐った生ゴミと下水の匂いがまりあの鼻を突いた。

靴裏にはざらついた粉塵がまとわりつき、舗装(ほそう)すらされていない地面が乾いた音を立てる。

道の奥には、虚ろな目で煙草をふかす妙齢の女性。そのすぐ傍では、刃物を帯びた少年たちが獲物を探すような目つきで周囲を睨んでいた。


「これが桔嘉(きっか)の知らねぇ、この国の現状だ」


政影(まさかげ)が吐き捨てるように言う。


「……いや。もしかしたら、アイツなら気付いてるのかもしれねぇけどな」


どこか独り言めいた声音だった。

そんな政影の隣を黙って歩きながら、まりあは静かに目を瞬かせる。


(廃墟みたいな街並みだけど……人の営みは、確かにある)


まりあは周囲を見渡しながら、小さく呟く。


「政影さんが、この場所を管理しているのですか?」

「管理とはちょっと違うな」


政影はポケットに手を突っ込んだまま、淡々と答えた。


「ここは、行き場をなくした連中が勝手に集まって住み着いた場所だ。……いわば『都市の落とし物』ってやつだな」


ここには倫理も秩序もない。――正しく無法地帯なのだと、政影は言う。


「奴らがここに居る理由も様々だ。自ら罪を犯して堕ちた奴、親に棄てられた奴、それから俺たちみてぇなならず者から身を隠してる奴……」


政影はそこで一度言葉を切り、薄暗い路地へと視線を向けた。


「共通するのは、桔嘉の保護(ほうりつ)から零れ落ちた連中だってことだな」

「……この国にこんな場所があるなんて、知りませんでした」

「大抵の人間は知らねぇよ。自分のことで精いっぱいだからな」


そう返したあと、政影は僅かに目を細める。


「……それにここは、危険でもある」


言うなり、政影はまりあの肩を引き寄せた。

突然のことにまりあは体を強張らせるが、周囲を威嚇するように鋭く細められた政影の目を見て、すぐに理由を察した。


艶のある黒髪に、高級感のある清楚なワンピース、それから手入れの行き届いた靴。大財閥の令嬢らしいその品の良さは、この場所ではあまりに目立ちすぎる。

政影は車内で待機することになった銀次に代わり、まりあを守ってくれているのだろう。


「ありがとうございます、政影さん」

「別に。銀次に怒られたくねぇだけさ」


政影はへらりと軽薄そうに笑い、まりあから視線を逸らす。


「俺のツレだって分からせときゃ、余計なちょっかいも減るしな」


どこか面倒くさそうで、投げやりにも聞こえる口調。

けれども、まりあの肩へ置かれた手つきは、どこまでも優しい。

政影と出会ってからまだ数時間しか経っていないが、出会った当初に感じた得体の知れない恐怖は、いつの間にか薄れていた。


「……なぁ、お姫様。アンタの目にはどう映る? 法の外に落っこちて、それでも必死に生きてる連中ってのは?」


不意に向けられた問いに、まりあは静かに視線を伏せた。

―――難しい質問だ。

そもそも、まりあは「法律(ルール)は必ず守るべきもの」だとは考えていない。


ルールとは、本来「人を守るため」に存在するものだ。

だから、ルールを守らない者は、ルールに守ってもらえない。ただ、それだけだ。

けれど―――その『外れた者』全員が、悪人だと言い切れるのだろうか。

まりあが答えを探して口を開きかけた、その時だった。


「……桔嘉の奴はさ、この場所を知れば、ここにいる奴らすらも救おうと躍起になるんだろうよ」


政影は、まりあの返答を待たずにぽつりと呟く。

その声音はどこか呆れたようで―――けれど同時に、ひどく柔らかかった。


「あの理想ばっか高ぇ甘ったれは、この国の人間全員を、本気で守る気でいるんだ。……笑っちまうだろ?」


どこまでも呆れたような口調の政影だが、その声音にあるのは嘲笑ではない。

むしろ、どうしようもなく柔らかくて―――優しい響きだった。


「……わかる、気がします」


まりあは小さく呟く。

脳裏に浮かんだのは、今朝の出来事だった。

従業員たちから嫌がらせを受けているのではないかと勘違いし、駆け付けてくれた桔嘉。

けれどもそれは、相手がまりあだったからという訳ではないのだろう。


(桔嘉さんはきっと、相手が私じゃなくても心配していたんだろうな……)


だからこそ、従業員たちも桔嘉を慕っている。

まりあへと彼を推したのも、その人柄ゆえだ。


―――愛されているのだ。誰からも。


それは、生まれや立場だけで得られるものではない。

大倭(おおやまと)桔嘉は、人に愛されるだけのものを積み重ねてきた人間なのだ。


(そんな人を……私は自分勝手に利用しようとしている)


胸の奥で、ちくりと罪悪感が疼く。

覚悟を決めきれない自分が不甲斐なかった。


「着いたぞ」


政影の声に顔を上げると、そこにあったのは小さな診療所だった。

古びた建物ではあるが、入口付近には子どもたちの笑い声が響いている。

やわらかい笑みを浮かべた白衣の女医が、並んだ子どもたちへ食べ物を配っていた。


「これは……?」

「さっきも言ったが、ここには倫理も秩序もねぇ」


政影はそう言って、診療所へ視線を向ける。


「あるのは、俺の『施し』だけだ」


施し―――つまり、この診療所も、配られている食事も、鬼龍会が無償で用意しているということなのだろう。


「子どもたちは知っているんですか? あなたが『黒幕』だと……」

「まさか」


政影は肩を竦め、軽く笑った。


「もちろん知らねぇよ。表立ってあいつらを救ってる医者や教師が人気者だ。俺らみてぇなのは、裏に回ってるほうが性に合ってるからな」

「……本当は優しいんですね、政影さんって」


まりあは思わず本音を漏らしていた。

軽薄で、冷徹で、合理主義。きっと政影は、そういう人間なのだろう。

けれど同時に、弱者へ手を差し伸べる強さと優しさも持っている。

先ほどまりあを試したのも、危険地帯(このばしょ)に連れて来ても問題ないかを見極めるためだったのだろう。


「お優しいのは、アンタの物の見方だよ」


政影は鼻で笑いながら、診療所で笑う子どもたちへ視線を向ける。


「言っとくけど、俺がやってんのは慈善事業なんかじゃねぇ。ガキってのは教育しときゃ、十年後には使えるコマになるからな」


そう言って、政影はゆっくりとまりあへ視線を戻した。


「育て方次第じゃ、皇財閥すら喰い潰す怪物(バケモノ)になるぜ? ……楽しみだなぁ、お姫様?」


わざと煽るような口調。

けれど、まりあはその言葉を聞いても、不思議と脅威だとは思わなかった。


身寄りのない子どもたちに住む場所を与え、教育を施し、食事まで用意する。

それはもう、『投資』という言葉だけでは片付けられない。『福祉』の領域だ。

政影は否定していたが―――まりあには、どうしても『慈善事業』にしか見えなかった。


「将来、俺が利用するために育ててんだ。いいことをしてるつもりはねぇよ」


政影の口から放たれた「利用する」という言葉に、まりあは小さく息を呑む。


(政影さんは私と違って……きちんと割り切って、行動して、救って―――その上で、利用するつもりだと言っている)


そこに迷いはない。

綺麗事だけを並べることもしない。

言葉の重みも、覚悟も、行動力も―――何もかもが違いすぎた。


自分の未熟さを突きつけられたようで、まりあは小さく全身の力を抜く。

そんなまりあの顎へ、不意に政影の指先が添えられた。

柔らかな手つきでありながら、逆らう隙もなく視線を絡め取られる。


「なぁ知ってるか、皇財閥(おかねもち)のお姫様」


逃がさないように視線を絡めたまま、政影は低く囁いた。


「人間が生きてくには必ず金がいる。……だがな、金がなくなって本当に怖ぇのは『死ぬ』ことじゃねぇ」


政影の顔が、ゆっくりと近づく。


「金がなくなると、人は『選べなくなる』んだよ」


どこに住むか。

誰と過ごすか。

何を食うか。


「どう生きるかすら選べずに、全部他人に決められるようになる」


唇が触れそうなほど近い距離で、政影はまりあを真っ直ぐ見据えた。


「―――それを、『支配』って言うんだ」


その瞳に宿っていたのは、嘲りではない。

もっと生々しく、激しい―――怒りにも似た感情だった。

そして政影は、静かに告げる。


「あんたが何のために桔嘉に近づいたのかは知らねぇ。……だが、アイツを(おとしい)れるような真似だけはするなよ?」


それだけ告げると、政影はまりあを解放する。

予想外の言葉に、まりあの肩からふっと力が抜けた。


政影はまりあを牽制したのだ。

もし今後、まりあが桔嘉を陥れるような真似をすれば―――鬼龍(きりゅう)会が敵に回ると。

必要とあらば、(すめらぎ)財閥すら喰らい、支配することも厭わない。

そんな静かな威圧が、政影の言葉には込められていた。


政影が誠史郎の頼みをすんなりと聞き入れ、まりあを同行させたのも、こうして釘を刺す目的があったからなのだろう。

とはいえ、政影とてまりあに桔嘉をどうこうできるとは、本気で思ってはいないはずだ。

それでもなお警戒を怠らないあたり、皇の持つ力の大きさが窺えた。


「その心配は、ありません」


迷いを完全に捨てきれたわけではない。

それでも、まりあは静かに、そしてはっきりと否定する。

まりあに桔嘉を害する意思はない。

ただ、彼からの愛が欲しいだけなのだ。

―――それこそ『支配』できるほどに。


「私は、桔嘉さんの心が欲しいだけなんです。それから……」


まりあは人差し指を政影の胸元へ添わせ、挑発するようにゆるく指先を滑らせる。


「政景さん……あなたの、心も」


不敵に微笑むまりあを見下ろす政影の瞳が、わずかに細まる。

ゾクりとした昂りを押し隠すように、舌先でゆっくりと唇を湿らせた。


「欲張りなお姫様だな。……悪くねぇけど、残念ながら俺は誰かに惚れて腑抜けになれるほど、綺麗な世界で生きてねぇんだよ」

「構いません。……あなたがその気になるまで、諦めるつもりはありませんので」


まりあは一歩も引かず、真っすぐに政影を見つめ返す。


「あなたも、桔嘉さんも、必ず私のものにしてみせます」


視線がぶつかり合う。

空気が張り詰める中、先に力を抜いたのは政影のほうだった。


「気に入ったよ、アンタ」


喉の奥で低く笑いながら、政影は肩を竦める。


「だが、桔嘉は俺以上に手強いぜ。今のアイツの恋人は、この国そのものみてぇなもんだからな」

「そんなところも魅力的なんですよね、あの人は」


まりあが迷いなく言い切ると、政影は一瞬だけ目を細めた。


「……わかってるじゃねぇか」


その言葉と共に、政影の纏う空気がわずかに和らぐ。


「アイツは……桔嘉は、本当にすげぇ奴なんだ」


どこか誇らしげに、けれど少し眩しそうに、政影は呟く。


「きっとどんなことがあっても、この国の人間全員を守り抜くんだろうよ」


だが、続く声には苦い感情が滲んでいた。


「……けどな。アイツの言う『全員』の中には、当たり前みてぇにアイツ自身は入ってねぇんだ」


その言葉に、まりあは黙ったまま視線を伏せる。

桔嘉個人のことは、まだよく知らない。

けれどまりあは「首相としてこの国を支え続けてきた大倭桔嘉」なら、テレビ越しにずっと見てきた。

数億の人間の暮らしと未来を守るために、誰より前に立ち、誰より多くを背負いながら、たった一人で戦い続けている彼の姿を。


だからこそ、政影の言葉を痛いほどに理解できる。

きっと桔嘉は、自分を犠牲にしているつもりなどないのだろう。

ただ、己の中に揺るぎない信念が一本、深く根を張っていて―――それ以外の優先順位が、あまりにも低すぎるだけなのだ。

だからこそ、あの男は高潔で。

同時に、どうしようもなく危うかった。


「だから俺たちは、裏から手を回してでもアイツを守り続けるんだ……」


静かな声だった。

けれども、その言葉には揺るぎない決意が滲んでいる。


「あの無鉄砲なお人好しを、この国なんかに食い潰されねぇようにな」


―――大倭桔嘉(たいせつなひと)の描く理想を支えたい。

その強い想いが、政影を『裏社会』という道へ進ませたのだろう。


けれども、それは本当に『悪』なのか。

まりあは静かに自問する。


法では裁けない者を裁き、法から零れ落ちた者を拾い上げる。

理の外で暗躍しながら、理の届かない場所を支えている存在。―――それが、必要悪。


「誠史郎のヤツも同じだ。俺とは考え方もやり方も全然違う。正直、水と油みてぇなもんだが……」


政影はそこで一度言葉を止め、静かに表情を和らげた。

鋭さの消えたその表情はどこか年相応で―――まりあはようやく、鬼龍政影という男の輪郭を掴めた気がした。


「俺も誠史郎も、あの理想ばっか高ぇ大バカ野郎のことが……大好きなんだよ」



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