気持ちに蓋を 1
朝霧が草の先を濡らす頃、紗凪はゆっくりと意識を取り戻した。
まず感じたのは、自分の身体が何かに包まれているという感覚だった。温かく、柔らかい。そして、確実に自分のものではない呼吸の音がすぐ傍にある。
「⋯⋯っえ、な、なにこれ⋯⋯!?」
視界に映ったのは、真紅の髪。植物ではない、人間のぬくもり。
ロゼリオの腕に、すっぽりと包み込まれるようにして抱きかかえられていたのだ。
「⋯⋯え、うそ⋯⋯ちょ、ちょっと、なにして⋯⋯!」
慌てて身を起こそうとして動いた瞬間、ぎゅ、と腕の力がわずかに強くなった。
ロゼリオはまだ眠っている――かに見えたが、その瞼がゆるやかに開いた。
「おはようございます、紗凪さん」
緑の瞳が柔らかく微笑みを宿しながら彼女を見つめる。その声に、一瞬紗凪の心臓が跳ねた。
「え⋯⋯あ、あの⋯昨日、その⋯⋯助けてくれたんだよね⋯⋯?」
「ええ、当然でしょう? 私の大切な――同行者ですから」
少し間を置いた言葉に、妙な含みがある気がして、紗凪は言葉を失う。
頬が熱を帯び、ますます混乱してきた。
「と、とにかく! お、下ろしてくれないかな!? 歩けるし!」
「ふふ、歩けるかどうかは私が判断します。今朝は⋯⋯まだおとなしくしていてください」
「えええええっ!? やだっ、恥ずかしい!!」
必死にジタバタともがいてみせるが、ロゼリオの腕は微動だにしない。
むしろ嬉しそうに、彼は口元を綻ばせた。
「では、こうしましょう。午前中はこのままで。午後には歩いてもいいですよ。その代わり、私の手を握っていてくださいね?」
「な、なんで⋯⋯っ」
「貴女の体調が完全ではないことと、再び毒霧に巻かれたら困りますから。⋯⋯そして、単純に。貴女に触れていたいんですよ」
その最後の言葉があまりにも自然に、けれど真っ直ぐに告げられて、紗凪の頭が真っ白になる。
「~~~~っっ⋯⋯そ、そんなの、知らない⋯⋯っ!」
俯きながら、力なくロゼリオの胸に手を添える。拒絶の意思すら弱いその仕草に、ロゼリオの指先がかすかに震えた。
けれど彼は、何も言わなかった。
ただ、紗凪を抱いたまま、朝霧の中を歩き出す。
紗凪は胸の奥で、小さくなった何かが脈打つのを感じていた。
(⋯⋯この人のこと、少しずつ気になってるのかも。でも、ダメ。惑わされちゃダメ)
自分にそう言い聞かせながらも、ロゼリオの腕のぬくもりは、とても優しくて――逃げ出すことはできなかった。
陽が高くなるにつれ、彼女の顔の赤みも落ち着いてくる。
「⋯⋯ねえ、もう歩いてもいいでしょ?」
「午後になったら、って言いましたよね」
「もう午後だよ!」
「証拠は?」
からかうように首を傾げるロゼリオに、紗凪はむくれた顔で腕を突く。
「ほら、影が短くなってるでしょっ。お昼の証拠っ!」
「ふふ、確かに。鋭いですね。では⋯」
そう言って差し出されたロゼリオの手は、白くて細くて──植物の蔓のように美しかった。
(⋯⋯気を抜けば呑まれる、か)
そう思って、そっとその手を取る。
触れた瞬間、ひやりとした感触とともに、じんわりとした温もりが広がる。
「⋯⋯優しいね、ロゼリオって」
「そう見えますか?」
「うん。
なんだかんだ、ずっと守ってくれてるし⋯ありがと」
囁くように言うと、ロゼリオは目を細めて微笑んだ。
「いえ⋯⋯それは私の、喜びでもあるので」
その声はどこか深く、底知れぬものを感じさせた。
森の光が木漏れ日となって差し込むなか、二人は手を繋いで進んでいく。
紗凪の胸の中では、何かがじんわりと芽吹いていた。けれどその気持ちの正体には、まだ気づかないふりをしていた──。




