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第四章 呼び名

私は丸太小屋の外に出る前に、壁にかけられた草藁帽子を被る。日がだいぶ上り、暖季の強い日差しが差し込んできているので、ディルデュランがいつものように薄荷水に浸した布を首に結んでくれた。首筋に大きな手の温かさと冷たい布の感触が触れて、胸が痛くなる。朝から彼は、私のここでの名を呼んでくれなかった。

私の本当の名は「アンゼリカ・セリ」。それを聞いても自分の名前のような気がしていない。私にとっては、本当の名前より「リス」と呼ばれる方が、もう本当に自分らしく感じてしまっている。記憶だって何も戻っていないから、なおのことそうなのだけど……。

畑に入ると、今日も赤茄子がたくさん実っている。私とディルデュランは分かれて収穫を始めた。籠に一つずつ丁寧にもいで入れていく。雑草はあえて抜いていない自然に近い農法で収穫された野菜は、その分力強い味がする。今収穫している赤茄子だけでなく、今の時期は甘唐辛子(ピーマン)、瓜、色んな野菜も収穫できた。

離れたところでマーシュマロウが馬と驢馬たちに草を与え、ブラシをかけているのが見える。不穏な話をした朝が嘘のように、長閑(のどか)な風景だった。私は収穫物で籠が一杯になったところで、小川の上流の方へ歩いていく。すでにディルデュランが収穫を終えて、野菜を洗いながらこちらを見ていたので、少し急いでそちらへ歩いていく。


「遅くなりました」

「いや、気にしなくていい。野菜はそこに置いてくれ、今日食べる分はそこの籠だ」


そう言う言葉が固い。何かを考え続けている顔をしている。私はじっと彼を見ていたが、一つ息を吐くと、自分が持っていた籠を置き、洗い終わった方の野菜の籠を持って丸太小屋の方へと向かった。私も言い出せないのだ。「アンゼリカ」ではなく、「リス」と呼んで欲しいと。


私は丸太小屋に戻り、テーブルに野菜籠を乗せると、いつものように水瓶の水で体を綺麗にし、革靴を日陰に干していた。すると、水場で野菜を洗い終えたディルデュランが空を見ているのが見えた。どうしよう、話すなら洗い物を渡す今が良いと思うのだけど……。私は手に脱いだ服を抱え、恐る恐る彼の方へ歩いていき、声をかける。


「ディルデュランさん、洗濯物持ってきました」


私がそう言うと、彼は硬い表情のまま、小川の脇に置いた籠を指さした。


「ああ、その籠に入れてくれ。そうだ……マーシュマロウに、洗濯するものがあったら持ってこい、と声をかけてくれ」

「………分かりました」


やっぱり「リス」と呼んでくれない。

私はそこから言葉が出なくて、洗濯物を籠に入れ、マーシュマロウの元へと小走りで向かう。ダメだ、言えない。大したことではない気がするのだけど、こういうことを朝から何回も繰り返している。後ろを振り返ると、また彼は空を見上げていた。考える時の癖だ。

私は溜息をつきながら、馬と驢馬のブラシをかけ終わり、木の柵に寄りかかって草笛を吹いているマーシュマロウの側に行き、声を掛ける。


「マーシュマロウさん、いいですか」

「なんだい、リスちゃん。なんか用事?」


マーシュマロウは「リス」と呼んでくれる。それに私はほっとしながら、言葉を続けた。


「ディルデュランさんが、洗濯物があるなら持って来て欲しいって言ってました」

「お、そうか。じゃあ洗ってもらおうかな。今、作業小屋の方から持ってくるから、待ってて、ってあいつに伝えてくれる?」

「はい、分かりました」


私はまたディルデュランの元へと戻って行く。まだ空を見ているのが目に入った。彼には、サワサワと草を分けながら歩く私の足音が聞こえたのだろう。こちらを振り返る時、暖季の日差しを反射した白い髪が輝いて見えるのに、私は目を細めた。


「ディルデュランさん、今持ってくるから待ってて、だそうです」

「そうか、分かった」


また返事が固い……。

私は背の高い彼の隣に立つと、胸の前で両の拳を握り、意を決して声を出す。


「私の事は悩まずとも、『リス』のままで良いと思います!」


そう言って唇を固く結び、ディルデュランを見上げた。風が草藁帽子の下の胡桃色の髪と光の精たちをふわりと揺らした。


「……気づいていたのか」


ディルデュランは左の掌で自分の口元を隠すようにし、気まずそうに私を見下ろしている。自分でもしょうもないことで頭を悩ませていると思っていたのかもしれない。どこか気恥ずかしさが感じられるような表情で、私はそんな顔に見入ってしまう。


「朝からここでの名前を呼んでくれなかったので……」

「すまない。正直、どちらの名を呼べば良いか聞きたかったのだが、言い出せなかった。お前が希望するなら、今まで通りリスと呼ばせてもらう。………それと別に……お前が成人していると聞いて、相応の扱いをしなくてはいけないのかと思っていたが……」


私は彼の言葉の初めの方には「わかる、私も同じ」と頷いていたが、後ろの方になると、段々顔が熱くなってきた。

相応の扱い? ディルデュランが私に!? と思ったが、私は対人に関する記憶があまりないので、どんな扱いなのかと首を捻った。霞む記憶の中から探ろうとしても、自分と関わった人たちのことは出てこなかった。


「あの、相応の扱いとは……?」


私は困惑しながら彼に問う。普段、子ども扱いをされていたとしても、からかわれたり雑に扱われたこともなかったので、差異が分からない。だから私は聞いてみたのだ。


「………」


ディルデュランは私の言葉にわずかに背中を仰け反らせると、一歩後ろに下がる。それから、口元を覆っていた掌で顔を隠した。


「いや、いい。普段通りでいく。変な事を言ってすまない。ああ、うん、気にするな」


言葉を濁されて、私はますます困惑した。どういう反応なんでしょう、これ。


「おーい、洗濯物持ってきたぞ。いやあ、悪いな、一緒に洗ってもらって。ん、なに? どうしたの?」


私たちが微妙な状況で立ち尽くしているところに、洗濯物を持ってきたマーシュマロウさんがやって来る。

この空気、どうしようと思っていたので、何も知らない彼が来てくれたことに私は息を吐いた。それはディルデュランもそうだったのだろう。顔から手を外すと、マーシュマロウに


「いや、何でもない。この洗濯物はこの籠に入れてくれ」


と話して、洗い終わった野菜を入れた籠を持つと、食糧倉庫の方へと持って行った。

とりあえず、名前については「リス」とまた呼んでくれることになったので、私はひとまず胸を撫で下ろしたのだった。


20260914 ルビ入れ

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