第2話 兄の背中
水を飲み、火の教本を閉じた。
風の練習に移った頃には、台を覆う日陰が短くなっていた。火を使った地面から離れた所に、目印の布を結んだ棒がある。布は風の止む間だけ、棒に沿って垂れていた。
正面から当てて、持ち上げる。
一度目は布の端が揺れただけだった。弱い。魔力を増やすと、今度は布の横を風が抜け、棒の根元で砂埃が立った。
顔をしかめ、アセルは服についた砂を払った。
距離を詰め、力を増やすのをやめた。休みを挟んで向きを直し、ようやく布が正面へ浮く。ところが一歩下がると、また斜めに跳ねた。
戻ってやり直せるよう、足元へ線を引いた。
「それ、いつまでやる」
振り向くと、ゼルクが稽古用の剣を二本持っていた。
「あと一回」
「その前も聞いた気がするな」
「兄さん、今来たばかりだろ」
「昨日も同じことを言った」
言ったかもしれない。昨日の最後の一回がうまくいかなかったことは覚えていた。
アセルは線の位置からもう一度、布へ風を送った。布の真ん中が膨らむ。長く保つだけの余力はなかったが、どこを通ったかは分かった。
最後に布が膨らんだ位置へ目印をつけ、教本を重ねた。
「今日は終わり」
「なら、少し座れ。その手で剣まで握る気か」
ゼルクは二本とも自分の足元へ置いた。
アセルは台に腰を掛ける。剣を受け取るまでの間も、布は時折、自然の風で揺れていた。
*
踏み込んだはずの分だけ、ゼルクが遠くなる。
振り下ろした剣は相手の脇を通り、アセルが戻すより先に、自分の肩へ剣先が触れた。
「もう一本」
「今の、どこへ行くつもりだった」
ゼルクは剣を下げない。
「肩。受けたら、横へ返そうと」
「受けなかったら?」
アセルは伸びきった足を見た。これでは追えない。
「だったら、どう入る」
答えを待つゼルクの前で、足を戻した。
昔なら、同じ間違いをすれば、同じように剣を返されるだけだった。ゼルクがこうして待ってくれるようになったのは、いつからだっただろう。
思い出す稽古場の地面も、よく乾いていた。
*
まだ、ゼルクさんと呼んでいた頃だ。
教わった通りに構え、届く限り遠くへ踏み込む。そのたびにゼルクは体をずらし、横から剣を当てた。
「もう一回、お願いします」
手のひらが擦れて痛い。次はもっと強く振ったが、前のめりになっただけだった。
足を引き戻すと、ゼルクの踏んだ跡が目に入った。自分の跡より浅く、半歩だけ横へずれている。アセルが同じ所へ打ち込むたび、そこへ逃げていたのだ。
「やめるか」
「やります」
今度は、さっきの足跡まで戻らなかった。
少し近い。ゼルクの剣も、近く見えた。
踏み込みを小さくして振った剣は、やはり空を切った。
けれど、アセルの足はまだ揃っていなかった。横へずれた相手を見て、残していた足をそちらへ運ぶ。振り切る前の剣を返した。
ゼルクの袖に、剣の先が触れた。
当たった。
そこで止まってしまった。
自分の剣を押しのけられ、胸元へ相手の剣が来る。アセルが逃げるより早かった。
「途中でやめるな」
「今、当たって」
「当たった後だ」
ゼルクが剣を引いた。アセルは袖を見た。もう、さっき触れた所もよく分からない。
「……はい」
「なぜ近くから入った」
顔を上げた。
叱られるのかと思ったが、ゼルクは足元を見ている。
「いつもの所からだと、避けられた後、追えなくて。もう一歩残せたらと思って」
「近づいた分、こっちからも届くぞ」
「はい」
「次はそれも見ろ」
構え直した相手を前に、アセルは立つ場所を迷った。
同じことがもう一度通る気はしない。それでも、さっきまでの跡へ戻るのは嫌だった。
その日も、次の稽古でも勝てなかった。ただ、時々、なぜそうした、と訊かれるようになった。答えられるようになるまで、ゼルクは待った。
いつから兄さんと呼ぶようになったのかは、はっきり覚えていない。
*
「今も足、見てたな」
声をかけられ、アセルは現在のゼルクへ目を戻した。
「昔は、もうちょっと同じ方へ避けてくれた」
「お前がそっちしか見てなかったんだろ」
それはありそうだった。
剣を上げ直す。肩だけを狙うのをやめ、相手が動いても追える幅を残して入った。
ゼルクは避けずに受けた。
手に衝撃が走り、アセルは慌てて剣を返す。間に合わず、また肩を取られた。
「避けなかった」
「避けてほしかったか?」
「……もう一本」
ゼルクは今度は待たせず、構えを取った。
日が傾くまで続けても、一度も勝てなかった。剣を返そうとすると、指が柄から離れにくい。ゼルクは笑わずに受け取り、二本まとめて肩に担いだ。
翌日も、同じ場所で待っていた。
父への報告を続け、ゼルクとの稽古を重ねながら、アセルは巡衛府の採用試験に向けて準備をした。応募の書類は、魔法の練習より先に何度も読み直した。名前を書いた後で間違いを見つけるのが嫌で、必要な欄を上から指で追った。
属性、とある所で手が止まる。
火とも風とも書けない。どちらも使えるように練習してきたが、自分の属性ではなかった。
無属性。
書き終えると、その下の、扱える魔法を記す欄へ移った。
*
十六歳になったアセルは、採用試験当日の朝、施設の門を出た。
書類は昨日のうちに確かめた。それでも道の途中で一度だけ立ち止まり、鞄に入っていることを確かめた。
受付へ着く頃には、剣を振ってもいないのに手が汗ばんでいた。
「お名前を」
「アセルです」
差し出した書類を係員が受け取る。記入欄を順に確認していく指を、アセルは見ていた。
「あちらでお待ちください。番号でお呼びします」
渡された札を持ち、受験者の並ぶ方へ歩いた。剣を腰に下げた者も、手ぶらの者もいた。
「それ、裏返しだよ」
隣の少女が、アセルの札を指した。
「番号、そっち」
慌てて返すと、少女は自分の札も見せた。長い紺色の髪が肩から滑り、耳へ掛ける指について、つい目が動いた。
きれいな人だ。
「初めて?」
「え?」
「試験」
「あ、うん。今年、十六になったから」
「私も。やっと受けられる」
落ち着いて見えたのに、札の端は少し曲がっていた。握りしめていたらしい。少女も気づいて、指で伸ばした。
「私、イサラ」
「アセル」
名乗ったところで、イサラの番号が呼ばれた。
「先に行ってくるね」
その背中を見送り、アセルは自分の番号を確かめ直した。次に呼ばれた時は、一度で返事をしようと思った。
施設の稽古場とは違う床の感触を、靴越しに確かめる。
札の番号が呼ばれた時、アセルは顔を上げ、前へ出た。




