第1話 無属性
火も風も出せる。それでもアセルは、魔法には向いていないと言われてきた。
「五回試して、火が出たのは三回です」
十五歳になっても、父にできる報告はその程度だった。練習では、土に描いた輪の中へ火を出す。昨日より一回多く火を出せたが、そのうち一回は炎が輪の外まではみ出した。
ここは、身寄りのない子供たちも暮らす父の施設だ。父のヴァルゼンは、開かれた手帳のその一回を指した。
「何を変えた」
「魔力を増やした。少しだけのつもりだったんだけど」
「その『少し』を覚えておきなさい」
机の横で、納品に来た男が箱を開けた。布の包みから火の教本が見える。その下には、風の教本もあった。
「ちょうど届いた。使いなさい」
父に言われ、アセルが手を伸ばすと、男が包みを押さえた。
「こちらも、この子に?」
「そうだ」
「この子は、何の魔法に適性があるんです?」
「……無属性です」
火や水など、人には生まれつき相性のいい魔法がある。アセルには、それがなかった。練習すれば使えても、どれ一つ思うように扱えない。
アセルが答えると、男の手は包みから離れた。ただし、渡すためではなかった。風の教本を箱へ戻し、火の方だけを机へ滑らせる。
「でしたら、まずこちらで。二冊とも開いても、かえって混乱しますよ。無属性の子には難しい内容ですし」
風の方も欲しかった。けれど、火さえまともに出せないくせに、と言われそうで、伸ばしかけた手を止めた。父の机には、失敗ばかり書いた手帳が広げられている。
「風も、少しなら使えます」
「少し使えるのと、これで学べるのとは違うんだよ」
父が納品書を指で押さえた。
「二冊注文したはずだが」
「ええ。ですから、無理にお買い上げいただかなくてもと」
「必要だから注文した。代金にも不足はないだろう」
声は大きくなかった。男は父の指先を見て、納品書を見て、それから風の教本を取り出した。
今度はアセルの前に置かれた。
「……こちらも、どうぞ」
「ありがとうございます」
早く手を引っ込めたいのをこらえて、両手で受け取った。
男が箱を抱えて出ていくと、部屋には紙をめくる音だけが残った。アセルは二冊の角を揃える。手元に置いていいのだと思うと、早く中を読みたかった。
「父さん。これ、ちゃんと使うから」
「分からない箇所は印をつけなさい。試した結果も残すこと」
「うん」
「今日は火の大きさを揃える。成功の数を増やそうとして、途中で条件を変えないように」
アセルは頷き、父の言葉を書き留めた。
父と血はつながっていない。それを知るより前から、この人を父さんと呼んでいた。読む物も、食べる物も、できるまで練習する場所も、ここに来てから困った覚えはなかった。
次にこの部屋へ来る時は、教本を渡してよかったと思ってもらいたい。
机の向こうで父はすでに前の日の記録を開いていた。アセルは礼を言って立ち、扉に教本をぶつけないよう、少し斜めになって部屋を出た。
*
廊下を抜ける途中、学習室から同じ数を繰り返す声が聞こえた。
「だから、ここにも一つあるだろ」
「それ、もう数えた」
「数えてないって」
覗くと、年下のトマが、小さい子と木片を挟んで言い合っていた。自分から教える役を引き受けたくせに、教わる方までむきにさせている。小さい子は両手を机に乗せ、木片が動かないよう見張っていた。
アセルは入口から声をかけた。
「数えた分を、そっちへ寄せたら?」
トマは木片を一つつまみ、机の反対側へ置いた。小さい子の指が、その後を追う。
「いち」
次の木片。
「に」
最後の一つまで移すと、トマが首を傾げた。
「……一つ減った」
「減ってない。さっき二回数えたの!」
小さい子がトマの指をつかんだ。もう木片に触らせないつもりらしい。アセルは笑いをこらえ、二人の前に木片を一列に並べ直した。
自分もここで、読めない字を隣の子に聞いた。その子も分からず、二人で年長者の所へ行ったことがある。
「アセル、その本、新しいの?」
木片を片づけたトマが、腕の中を見た。
「今届いた。火と風」
「もう二つとも使えるのに?」
「使いたい所に、使いたいだけ出せたらな」
「この本を読んだら、できるようになる?」
「なってくれなきゃ困る」
アセルが二冊を抱え直すと、トマは机に残った数字へ目を落とした。
廊下の先から布の束を抱えたハルが来た。顎のあたりで揃えた白い髪に、薄赤い房が交じっている。戸口に立っているアセルを見て、足を止める。
「中へ運ぶから、そこを空けて」
「あ、ごめん」
アセルが避けると、ハルは奥の棚へ布を収めた。小さい子が拾ってくれた一枚に礼を言い、空の籠を持って出ていく。施設の仕事でよく見かけるが、用がなければ話すことはあまりなかった。
「どこ行くの」
小さい子に袖を引かれ、アセルは抱えた本を示した。
「練習」
「外で火、出す?」
「見に来るなら、通路の方からな。標的には近づくなよ」
小さい子は頷いたが、机ではもう次の問題が始まっていた。
「来年、巡衛府の採用試験を受けるんだ」
口にしてから、アセルはトマの顔を見た。まだ父と、剣を教わっているゼルクにしか話していなかった。
「ゼルクさんと同じ?」
「うん。街が襲われたら戦うし、魔獣が出た道なら護衛にも行く。ここで待ってるだけじゃなくて、俺も助けに行けるようになりたい」
「じゃあ、俺にも教えて。次の問題」
トマが折り返していた頁を開いた。小さい子が、その顔を覗き込む。
「トマが教えてくれるんじゃないの?」
「俺が先に教わるから、ちょっと待って」
アセルは教本を机へ置き、トマの隣へ腰を下ろした。
「どこから分からない?」
外へ出られたのは、木片を全部箱へ戻してからだった。
数を教える時には、無属性かどうかなど訊かれなかった。外でも、そうやって自分に頼んでもらえることがあるだろうか。
納品の男には、風も少し使えるとしか言えなかった。
屋外の練習場で二冊を置いた。火の教本を開くと、最初に目標が書いてある。決めた大きさの炎を、同じ場所へ十回。
今日、輪の中に収まる火を出せたのは二回だった。
アセルは風の教本を重しにして、閉じかけた頁を押さえた。二冊とも、使ってやる。
*
土に描いた輪の内側へ、火を出す。
いつもと同じ練習だった。最初の炎は輪の端に寄り、アセルが大きさを絞ろうとする間に消えた。
どこで形が崩れたのか、もう一度やれば分かりそうな気がする。
伸ばしかけた手を下ろして、台へ戻った。
消える前の形を描こうとして、うまく描けず、輪の右側を黒く塗った。
二度目は中央に出た。
小さな炎が土を照らす。これを保てればいい。そう思って息を詰めると、先端だけが伸びた。指に力が入り、腕まで硬くなる。
輪を越える前に終わらせた。
「……今のは、いい方」
誰に聞かせるでもなく言ってから、周りを見た。学習室の子は来ていなかった。通路に職員が一人、灯具を並べているだけだった。
職員は芯を確かめ、指先から小さく点火した。隣の灯具にも、同じ大きさの火が灯る。片手では、すでに次の芯を直していた。
アセルは自分の指を開いたり閉じたりした。
「どうした。火が要るのか?」
視線に気づいた職員が訊いた。
「いや、自分でやる。練習だから」
「そうか。水はそこにあるから、使っていいぞ」
顎で桶を示すと、職員は灯具を持って建物へ戻っていった。
あの人は、次の芯を直しながら火を灯していた。アセルなら、よそへ手を伸ばした途端に火まで消してしまう。
火属性の人向けに書かれた教本の図を、もう一度見る。炎は輪の中央に、簡単そうに描かれていた。
次の一回は、炎が出た後で大きさを直そうとしなかった。
欲張らず、さっき保てた分だけ。
輪の中央に火が留まった。すぐに終わらせず、もう少しだけ見ている。伸びない。片側へ崩れもしない。
火を消してから、ようやく肩を下ろした。
思わず笑った。見ていた人はいなかったが、今度は周りを確かめなかった。
台へ戻ると、風の教本がまだ火の教本を押さえていた。アセルは上の一冊を取り、頁を開いた。
箱へ戻されかけた一冊を、今度は自分の手で開いていた。




