(4)合気道早島道場
海野町商店街のアーケードを叩いていた雨音は、午後になってやや静かになった。
上田城の城下町として整備された町割りの名残が今も残る。
まっすぐ伸びる通りの両側には、昭和レトロな看板を掲げた個人商店と、新しく入ったカフェや雑貨店が軒を並べている。
「行ってきます。」
老舗の和菓子屋から、一人の少女が出てきた。
半袖のレモン色のシャツとブルーグレーのストレッチパンツ。黒いショルダーバッグ、白い傘。
店先に近い高市神社の小さな祠の前で一度立ち止まり、ペコリと頭を下げてまた歩き出す。
少女の名は北都亜悠。近所の県立高校に通う女子高生である。
土曜日だというのに、雨のせいか人通りはさほど多くない。
亜悠は傘を広げ、細い路地に入っていった。
昭和レトロな雰囲気の歓楽街も、昼下がりにはネオンの灯りもなく、足音が妙に響く。
やがて木の塀に囲まれた古い屋敷が見えてくる。黒ずんだ板塀は雨に濡れて艶を帯び、門の脇には年季の入った木製の看板が掛かっている。
――合気道早島道場。
亜悠は畳んだ傘を軒先の傘立てに入れると、カラカラと引き戸を開ける。
稽古場に誰もいないことを確かめ、舌先でぺろりと唇を濡らし、
「頼もーう!」
と芝居がかった声を出す。
道場に隣接する母屋から「はーい」と返事が聞こえた。
「いらっしゃい、亜悠。」
母屋に通じる廊下から顔を覗かせたのは、幼馴染の早島結菜。
この道場の娘だ。
「ちょっと、ユイ、道着なんて着てこないでよー。」
真っ白な道着の襟元はきちんと整えられ、腰には黒帯が結ばれている。
袴ではなく、白い道着用のズボンを穿いているから、稽古着というのが正しいかもしれない。
「一応、道場を使うんだし、稽古だからね。」
「ま、まあそうね。」
板敷の上がり框に腰を掛け、亜悠は靴を脱ぐ。
ついでに靴下も脱いで、靴の中に入れ、下駄箱に入れる。
「稽古場の方は久しぶりでしょ?」
「うん。」
いつもは母屋を訪ねるから、稽古場に入るのは数年ぶりだ。
三十畳の畳敷きの稽古場には独特の香りがある。
結菜は亜悠を引き連れるように、正面の神棚の前に正座する。
「ユイの正座はほんとにキレイよね。我が親友ながら見惚れるわ。」
亜悠も隣に正座し、並んで神棚に礼をする。
礼が済むと、結菜が亜悠に体を向ける。
「亜悠、日本語を教えてあげるわ。」
「えっ?」
「私とあなたは幼馴染だけど、親友じゃないわよ?腐れ縁、っていうのよ。」
「はいはい、まだ私が三日で道場を辞めたのを根に持ってるのよね。」
「そうよ。価値観を共にし、互いに信頼し合ってこその…」
「わかった、じゃあ、腐れ縁のユイさん。」
「うん、なあに?」
「このたびは演劇班の公演への助っ人、まことにかたじけなく存じます。」
「うむ、苦しゅうない。」
二人は顔を見合わせて笑った。
結菜は立ち上がって、稽古場の隅の用具置き場から、二本の黒い剣を取り出す。
「これでやりましょ?」
一本を受け取って、亜悠はその軽さに驚く。
「え、なにこれ。」
「スポーツチャンバラの剣よ。一昨年から子ども向けの教室を始めたの。」
合成樹脂でできた真っすぐな棒に空気が入っていて、演劇用の竹光刀よりもかなり軽い。
「そうなんだ。」
「木刀もあるけど、どっちにする?」
早島道場では、合気道の体さばきや間合い、中心線の考え方を学ぶための訓練として刀技も取り入れている。
打ち合うわけではないが、素振りを繰り返すことで、重心移動や足さばきなどを体得する。
「あ、こっちでお願いします。」
「ふふっ、うん。それで、何からするの?」
「まずは台本の確認からね。」
亜悠がバッグから台本を取り出す。
表紙には『幸村騒動記』とタイトルが入っている。
稽古場の床にしゃがみこんで、二人で台本を覗きこむ。
「そういえば、ユイ、あの子、柳瀬君だっけ?大丈夫かな。」
「大丈夫って?」
「なんかひ弱そうだしさ。怪我されたりすると困るんだよね。」
「だから大丈夫って言ったじゃない。あの人、なんかちょっと変なのよ。」
「待って、ユイ。『大丈夫』と『変』は両立しないと思うんだけど?」
「うん、だけどさ、あの身のこなしというか、体捌きは不思議なの。」
「えー、ただの陰キャぼっち君にしか見えないけどなあ。いかにも都会育ちって感じでさ。」
「ううん、違う。あれは天性の才能か、そうでなければ理合の体得者よ。」
「りあい、ってなんだっけ…」
「呆れた。最初に習ったでしょ?動きの理由、体の使い方の原理、ってこと。」
「うーん、そうだった、かも。」
亜悠にとっては小学生の頃に、三日だけ通った道場での教えである。
一方の結菜にとっては、逆に当たり前すぎて言葉にするのが難しい。
「ともかくね、中心が通ってて、崩れないのよ。」
「ユイ、ごめん、さらにわかんない。」
「なんか気になるのよね、あの人…」
「へえ、男嫌いのユイが、ついに気になる男子を見つけた、ってことか。」
「そういうことじゃないわよ。ていうか、男嫌いって何よ!」
「ほら、ユイって男子に興味持つことなかったじゃない?中学時代は稽古一筋って感じだったし、高校に入ったら同好会作るって張り切ってるし。合気道一色じゃない。」
「そ、それはそうだけど、別に興味がないわけじゃないんだからね。」
「桐野先輩のことだって、あっさり断っちゃうしさ。」
桐野竜哉は二人と同じ高校に通う三年生。バスケ部のエースとして活躍し、校内での人気も高い。
真田家の血を引く名家と称される桐野家の次期当主である。
「えー、ちゃんと試合の応援に行ったよ?」
「応援じゃなくて見学でしょ?地面と喧嘩してる、とか、上半身が先に流れる、とか、わけのわからないこと言って貶してたじゃない。」
「貶したんじゃないわよ、評価したの。」
「でも結局、デートのお誘いは断ったわよね?」
「変に気を持たせるのは申しわけないからよ。桐野先輩はモテるんだから、他にいくらでも選べるわけだし。」
「それって、ユイ。思いやってるように言ってるけど、ユイにとっては可能性ゼロってことでしょ?」
「うーん、まあ、それはそうだけど…」
「で、そんなユイがさ、体の動きを高く評価する男子が現れた、ってことじゃない。」
「ただ気になるって言っただけでしょ?」
「はいはい、じゃあ柳瀬君の不思議が早く解明できるといいわね。」
「もう。亜悠はすぐそうやって面白がるんだから。」
「あっ、そういえばさ、中学の時だっけ、ユイと言い争いになったことがあったよね。」
「なんの話?」
「ほら、テレビのドラマを一緒に観ててさ、間中季央君が出てるやつ。」
「まなかきお?あ、子役の?」
「そうそう。季央君のアクションシーンで、ユイが『別人がやってる』って言い出してさ。」
「ああ、そんなことあったわね。」
「あの時も、重心の位置が、とか、円の動きが、とか言ってたよ。」
「でも、子役のスタントマンなんていないんでしょ?亜悠がそう言ったんじゃなかった?」
「そうよ、季央君は天才子役だもん。アクションだって一流なのよ。」
「でも引退しちゃったのよね?」
「引退じゃないわよ、休業よ!それが、噂によるとね、」
「そんなことより、そろそろ始めない?」
「あ、そっか。えっとね、」
亜悠は台本のページを何枚かめくり、女忍者・葛葉の登場シーンを開いた。
「ここから登場だけど、しばらくはセリフがないから、大津君の後ろにいていいわ。」
「うん。」
「で、最初のセリフがこれね、『おのれ、徳川に刃を向けてただですむと思うな』。」
「うん、わかった。」
「それから家臣たちが襲いかかってくるわけだけど。」
「投げ飛ばせばいいんでしょ?」
「あー、うん、台本にはそう書いてあるけどね。ユイがやるんだと、転がるのを手伝ってあげる、くらいの感じでいいわ。」
「あ、そうなんだ。明日はみんなも来るんだよね?」
「うん、受け身とか教えてあげてほしいの。」
「わかった。大丈夫。」
「で、みんなが逃げていっちゃうから、そこから佐助との一騎討ちよ。」
「うん、それは手加減なしでいいのよね?」
「そんなわけないでしょっ!」
「あはは、冗談。それをこれから稽古するのよね?」
「そういうこと。」
二人は立ち上がり、距離を取った。
「えっと、『葛葉が背中の忍び刀を抜く』だから…」
結菜は柔らかい剣を道着の背中に押しこむ。
「佐助が斬りつけるからね、右、左、横、よ?」
亜悠が剣を振るう。右上、左上からの斜め斬りから、胴を横薙ぎに一閃。
結菜はその間合いを完全に見切り、最小限の動きで躱す。
「ちょっと、ユイ。そんな余裕でよけちゃダメよ。」
「あ、そっか。もう一回お願い。」
「うん。当てるつもりで行くからねっ!」
ちょっとからかって当ててやろうと、亜悠が思い切り斬りつけるも、剣はむなしく空を切った。
「そんなに早く振ったらお客さんに見えないんじゃない?」
亜悠のさらなる追撃を、結菜は軽く躱しながら言う。
「あはは、そうよね。やっぱりユイには当てられないかあ。」
「もう、真面目にやんなさいよー。」
「はーい。でも、よけ方としてはそんな感じよ。客席からもわかるようにね。」
「うん。」
「で、三回躱したら、葛葉が背中から刀を抜く。」
剣を中段に構え、正対する亜悠の前で、結菜は背中から刀を抜く。
(え……)
キラリと冷たい光を放つ、鋼鉄の刃が向けられたように亜悠は感じた。
スポーツチャンバラ用の柔らかい剣だと理性ではわかっている。
だが、身震いするような威圧と恐怖に、亜悠は思わず後ずさった。




