(1)御牧ケ原台地
五限目の途中から、うつらうつらしていたようで、気がついたら休み時間になっていた。
俺は座ったまま、両足を床から五ミリ上げる。
(今日も平和だ。)
同級生たちは、思い思いにグループを作って談笑していた。
部活ごとの集まりが多い。
この学校では「班」と呼ぶらしい。
学校は少し高台にあって、教室の窓から周囲の山々が見える。
一年半も通っていれば見慣れてもいいはずだが、俺は山を見ているのがどうも好きみたいだ。
東京の中学では、見えるのは住宅ばかりだった。
(ん…)
サッカー班の吉川と杉元がふざけ合いながら走ってくる。
杉元は上履きの踵を踏んずけて履いているから、走り方のバランスが悪い。
案の定、俺の隣の早島結菜さんの机の脚に蹴躓いて、俺のほうに倒れこんできた。
けっこうな勢いがついている。
俺は向かってくる杉元の腕を軽く払って、向きを変えてやった。
回転運動にすることで、力を逃してやることができる。
反転した杉元の背中を支えてやると、きれいに俺の腕に収まった。
「あ、わりい、柳瀬!大丈夫か?」
こっちが聞きたいくらいだが、大丈夫そうだ。
「ああ。」
杉元は何事もなかったように、また吉川を追いかけていく。実に平和だ。
と思ったら、
「待ってっ!」
と、隣の席の早島さんが鋭い声を上げた。
杉元と吉川は慌てて足を止め、振り向く。
たしかに、高校二年にもなって教室内で追いかけっこはいただけない。
早島さんはたしか、合気道同好会と言っていたな。
合気道ってなんとなく正義感が強そうなイメージがある。
「柳瀬君、今の何?」
あれ、杉元たちを注意するのかと思ったんだけど?
「うん?俺は何もしてないよ?」
俺はただ、杉元を受け止めてやっただけの善良な一生徒だ。
「あなた今、倒れてきた杉元君の体を反転させて受け止めてたわよね?」
「ああ、まあ。」
言語化するとそうなる、かな。
早島さんが俺のほうにグイッと顔を寄せてきた。
「ねえ、柳瀬君、合気道、やらない?」
ああ、そういえば早島さんの合気道同好会は人数不足で休会中だったな。
「ごめん、班活はやらないんだ。」
「私ね、合気道に向いてる人は見ればわかるのよ。」
えーと、早島さん、俺の話聞いてたのかな。
「いや、あの」
「大丈夫よ、体力や腕力に自信がなくても。」
「格闘技には興味なくてさ。」
「失礼ねっ!合気道は格闘技じゃないわよ、武道よ。」
あ、そうなのか。でもその言い方は格闘技に失礼じゃないか?まあいいけど。
「ああ、ごめん。勉強不足で。」
「合気道やってれば、いじめられたりしても身を守れるのよ?」
「へえ。」
『いじめ』と『暴力』は別のものだと思うけどな。
揚げ足を取ってもしょうがないから、大人しくしていよう。
こう見えても俺は理不尽な説教への耐性はけっこうある。
「ね?ともかく一度体験してみてよ。」
「でも合気道同好会って休会中なんだよね?」
「う、まあ、そうだけど、だからこうやって勧誘してるんじゃない。あ、じゃあ、うちの道場に来てよ。」
「うちの道場?」
「うん、うちね、合気道道場なの。」
道場でやれるんだったら学校で同好会しなくてもいいんじゃないのかな。
この学校の同好会は「会員数三名以上」が活動条件になっている。
先日の自己紹介の時、早島さんは「今は私一人ですけど」と言っていたが、どうなったんだろう。
「悪いけど、遠慮しとくよ。」
「今日じゃなくてもいいからさ、気が変わったらいつでも言って。」
六限目のチャイムに助けられて、早島さんの勧誘は一段落。
俺はわずかに上げていた両足を床に下ろした。
(えーと、次は…数Ⅱか。)
また眠たくなる授業だ。水曜日の午後はどうも眠い。
放課後はいつもより手早く下校の準備を整えて席を立った。
早島さんに捕まって勧誘の続きが始まると面倒くさい。
運良く、早島さんが他の女子に話しかけられていたから、俺は難なく脱出に成功した。
上田駅から電車で十五分。レトロな雰囲気の無人駅で降りる。
駅前は住宅街。その先には国道が走っていて、ドラッグストアやスーパーもある。
俺はそちらには行かず、線路沿いの細道を少し進んで、電車の線路の鉄橋をくぐる。
そこからは、歩けば三十分ほど。
谷を越えた崖の上にある台地は「御牧ケ原台地」と呼ばれている。
水に乏しい台地に灌漑設備や溜め池ができ、畑作と酪農が盛んになったそうだ。
軽トラが一台やっと通れるほどの細い脇道の急坂を昇りきると、俺の住む家が見えてくる。
木造の平屋建て、まださほど古くない。
台地のへりに建つ我が家からは、小諸の街や浅間山がよく見える。
「ただいまー」
玄関を開けながら言うと、家の奥から「おかえり、光希」とばあばの声がした。
高校に入ってから、俺は母方の祖母の家に引き取られた。
「聡が薪割りを頼みたいってよー。」
「わかった。着替えたら行ってくる。」
母の兄の聡伯父さんの家は、すぐそばにあって、ばあばと俺は「本家」と呼んでいる。
数年前、祖父が亡くなり、田畑と牧場を長男夫婦に引き継いで、ばあばの家を建てた。
Tシャツとスウェットに着替えて、本家に向かう。
芋やアスパラの畑は、まだ白っぽい土色が目立っていた。
二つ並んだサイロの脇に、薪の置き場がある。
「ただいまー!」
と大声を出してみる。伯父さんはどこにいるかわからないからだ。
たぶん牛舎のほうから、「おう、頼むー」と伯父さんの声が聞こえてきた。
薪割りは嫌いじゃない。
背筋と上腕二頭筋、握力が鍛えられるのはもちろん、薪は斧を垂直に打ちこまないときれいに割れないから、体幹の強さや重心移動に加えて、集中力が求められる。
小一時間も作業をすると汗びっしょりになる。
日は西に傾いて、台地を渡ってくる風が涼しく感じられる。
「あ、光兄だ。ただいま。」
俺を光兄と呼ぶのは従妹の秋山萌歌。近所の中学校のセーラー服を着ている。
二つ年下の萌歌は、この春、三年生になった。
「よう、おかえり。」
「薪割りの音が聞こえてたから、そうかなと思ったんだ。」
俺が伯父さんの家の作業を手伝っていると、ときどきからかいに来る。
「あ、萌歌、お前さ、チャットアプリって使ってる?」
「えっ、うん!」
萌歌が学生鞄からスマホを取り出す。
最近の中学生は学校にスマホを持っていくんだな。
あわてて電源を入れているから緊急連絡用なのかもしれない。
「はい。」
「あ、ほんとだ。あとで使い方教えてくれよ。」
「へっ?」
萌歌の動きが止まった。
数秒間、固まったあと、萌歌は弾けるように笑い出した。
「あははは、え、なに、使い方知らないの?」
「悪いかよ。いや、悪いらしいんだよな。」
昨日、同級生の藤谷遥斗に聞かれた。
藤谷は俺のすぐ後ろの席に座っている。
「なあ、柳瀬、ID教えてくれよ。」
「ID?ああ、はいよ。」
学生証を見せたら、藤谷は怪訝そうな顔をしていたっけ。
「まさか生徒番号を教えてくれたわけ?」
「あれ、違ったか?」
「お前、何時代の人だよ、あははは」
「あー、もしかしてスマホのか。」
俺がポケットから取り出したスマホを渡すと、
「いや、待て、そもそも入ってねえじゃん。」
藤谷の驚きと笑いがさらに大きくなった。
チャットのアプリのダウンロードとインストールを藤谷がやってくれた。
「登録しといてやったからな。わからないことがあったら聞けよ。」
「お、おう、さんきゅ」
どうやら俺は時代に取り残されているらしい。
――そんな顛末を話したら、萌歌も笑い転げた。
「そりゃ、天然記念物級だよー。ID聞かれたんだと思ったのに、もう。」
と、唇を尖らせている。
「スマホは電話にしか使わないからなあ。」
「そうなんだ!光兄、友達も彼女もいないんだー。」
「嬉しそうに言うな。しょうがないだろ。」
たしかに、長野に来てから親しい友人というのはいない。
「ほんと、光兄はずくがないなあ。」
ずくがない、とは長野県の方言で、「やる気がない」「活気がない」といった意味らしい。
そういえば学校でも去年、誰かに「ずくなし」って言われたことがあったな。
「いいから、どうやって使うのか教えてくれよ。」
「うん、いいよ。簡単だよ。」
萌歌が実際に送受信を試したりして、画面を見ながら説明してくれた。
「あ、文字の打ち方は知ってるんだね。」
「バカにすんな。」
俺だって電話番号の登録をしたし、ときどきメモ帳の機能を使うことがあるから、文字くらい打てる。
家に帰って、ばあばにこの話をしたら、
「あら、私だって使ってるわよ、常識よ?」
と笑われた。




