プロローグ
千曲川の流れが午後の陽光を受けて白くきらめいていた。
五月末の信州は、過ごしやすい季節を迎えている。
長野県東御市。
ローカル線しなの鉄道の滋野駅の周辺は、上田と小諸の間にある静かな土地だ。
千曲川の河川敷、いわゆる流作地の農道の脇に、軽トラックが一台停まっている。
その荷台に腰掛けて、小麦畑を眺める夫婦がいた。
「今年は穂がいいな。」
昨秋に種をまいた小麦は穂を伸ばし、一面の畑を淡い金色に染めていた。
風が吹くたび、穂波がゆっくりと傾く。
夫の顔は日に焼けて浅黒く、額や目尻には深い皺が刻まれている。
老けた印象というより、長年太陽の下で働いてきた証のようなものだ。
髪は黒に白髪が混じり、耳の上やもみあげはかなり白くなっている。
「そうねえ」
傍らで妻が頷く。農作業の合間に、トラックの荷台でお茶を飲むのが二人の日課になっていた。
「雪が少なかった割には、よく育ったわ。」
若い頃は華奢だった彼女も、農作業や家事を長年続けてきたことで健康的な体つきになっている。
麦わら帽子の下で、丸い目を柔らかく細めて笑う。
泥のついた長靴をブラブラと揺らすと、トラックがわずかに揺れた。
小麦畑の隣は水田。このあたりの田植えは五月の末に行われる。
水を張り、代掻きを終えた田んぼに、田植え機が静かに起動を待っている。
すでに育苗箱のセットは終えた。
今日は予想以上に順調で、あとはこの田んぼ一枚に苗を植えれば終了だ。
「そろそろ来る時間だな。」
「ああ、おサルさんね。」
この時間に来るといつも遭遇する。
中年の夫婦は、少し首を回して、河岸段丘の麓に目をやる。
ミズナラやブナの生い茂る断崖の上には、ローカル線の線路が通っていて、駅がある。
先刻、小諸方面に向かう電車の音が聞こえていたからそろそろだろう。
「お、来たな。」
崖の木々が揺れて、豊かに茂った新緑の葉がざわついた。
「ええ。」
崖下の擁壁の上に、人影がひょっこりと現れる。
白いワイシャツに黒いズボン。背中には小さなリュックサック。
高校生のような少年だ。
一年ほど前、初めて見た時は驚いたものだ。
駅からは急な斜面をつづら折りに下ってくる道があるのに、雑木林の中から現れる。
擁壁の上に立った少年は、周囲を見渡し、夫婦の視線に気づいたようだ。
すぐ下を流れる用水路を飛び越える時、くるりと宙返りをした。
「あはは、回ったわ。」
妻が喜んで、夫の膝をポンと叩く。
「なんだ、ファンサービスのつもりか?」
夫は苦笑いを浮かべる。
「畑に落ちたら、とっつかまえてやる。」
と言いながらも、「おサルさん」が落ちたりしないことを知っている。
今日も彼は、細い畦道を風のように駆け抜けていく。
バランスを取るでもなく、躊躇なく走る姿には、なぜか目を離せない魅力がある。
風が吹いた。
小麦の金色の穂がいっせいに揺れる。
どこかでキジが「ケケーン」と啼いて、バサバサと羽音を立てた。
空の高いところから答えるように、ヒバリが鳴く。
「さ、それじゃあ始めるか。」
夫がお茶のコップを妻に手渡して立ち上がる。
妻はそれを受け取って、水筒と一緒にカゴの中にしまった。
「不思議な子よねえ…」
千曲川に架かる橋を、少年は背中のリュックを揺らしながら走り去っていった。




