第八話 夢の中の世界
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辺りを見渡すと、どこまでも真っ白な世界が広がっている。
ここは――
そうか、またここに来たのか。
“彼女”曰く、ここは夢の中の世界みたいなものらしい。実際俺はここでの記憶は現実では一切思い出せない。儚い夢のように記憶から消えてしまうのだ。
ただ、ここに来ればまた話は別だ。今まで数回ほど会った彼女との記憶が、ここでのみ蘇ってくる。
「あら、こんにちは」
「こんちわっす」
ここを夢の中という彼女――車椅子お姉さんが一枚の透明な壁を介して、向こう側から話しかけてきた。
この透明な壁はいわゆるこの世界においての果てのようなものだ。声は通るが、決して物理的に越えられるようなものではない。
「俺達、また面会室に来ちゃったんですね。これって法則性とかあるんですかねえ」
俺がこの場所を面会室と呼ぶのには、彼女の怪しい雰囲気に由来する。
「っふふ」
生まれつき足に障害がある車椅子お姉さんは、俺の呟きには答えなかった。呼び名の通り車椅子にゆったり身を預けながら、どこか含みを持たせた笑みを浮かべただけだ。
一つ一つの所作が、見せつけるようにゆっくりしている。だからだろうか。透明な壁を介して見える車椅子お姉さんの雰囲気には、いつもどこか退廃的な色気がある。あれはきっと、自分の色気を理解し、使いこなしている女性だけが纏える空気なのだろう。
「ほら、怖がってないでもっとこちらへおいで。大丈夫、取って食べたりはしないわ。どうせこの壁がある限り、私達は触れ合えないんだから」
「はいはいっと」
さらさらした漆黒の長髪をかきあげながら、車椅子お姉さんは俺を手招きする。身体のラインがやけに強調されているノースリーブのセーターのせいか、俺を違う意味で誘っているようにも聞こえる。
ふと視線を合わせると、メタルフレームの細フチメガネの奥で、切れ長の瞳がゆるやかに細められていた。その眼差しには、優しさと妖しさが同居している。 このアンバランスさが、彼女をひどく美しく見せていた。
そんな彼女を見て、俺の喉がゴクリと鳴った。
「あら? そんなに情熱的に見られても、ここではキスすらできないわよ? それとも、この透明な壁越しでキス、してあげよっか?」
「……やめときます」
なんだか実際にそうしてしまうと、戻ってこれなくなりそうだ。
「そう、残念ね」
彼女は少し突き出たような艶のある唇をゆっくりとなぞりながら、ちゅ、と小さくリップ音を鳴らした。
童顔っぽく作り込まれた日本人らしいメイクに、ほどよい透明感や抜け感があるところ、アンニュイな表情など、俺の性癖にとことんぶっ刺さっているのが憎い。
狙ってやっているのか、はたまた元からそうなのか……
「っふふ、あなたは決して私のことなんて好きになってはだめよ。そう、絶対ダメ。っふふ、絶対よ。だって私は悪い女なのだから」
「大丈夫ですよ。俺にはすでに大切な人がいますから」
「それでいいわ。絶対私の魅力に溺れてはダメ。『大切な人を全員裏切って、彼女の肉体にむしゃぶりつきたい』なんて思ってはダメ。『全部を捨てて破滅してもいいから、車椅子お姉さんだけをめちゃくちゃに愛してみたい』なんて、絶対に思ってはダメよ。っふふふ」
「ねえ、勝手に俺の脳内の代弁するのやめてもらえます? 俺はそんなこと一切思ってませんからね」
車椅子お姉さんにそうされると脳みそが混乱してしまう。何かを誘導されているようで背筋がゾクリとするのだ。
「さて、戯れはここまでにしましょうか。そろそろ本題に入りましょう」
戯れって……ほんと、趣味の悪いことで。
「私が日本から妄想世界に紛れ込んでしまったという話はしたわよね」
「はい、俺と同じように、シャボン玉が大量に浮かんでいるような、どこかよく分からない奇妙な場所に迷い込んでしまって、妙に慌てた謎の精霊に証拠隠滅のように連れてこられたんですよね」
「ええ、ただしあなたとは世界が違うわ。私の世界はあなたとは逆で、【女1:男5】の女性が貴重な世界で、あなたの表現で言うところの“主人公ちゃん”以外はまともな女がいない世界よ」
「ほんと似てますねえ。それ、ホントなんですか?」
「さあ、どうかしらね。っふふ」
「ったくこの人は……」
なんでそこで濁すのだろうか。絶対この人サディストだわ。前回の時も俺に嫌なことを言ってきたし、俺を揺さぶると楽しそうにするし、厄介極まりない。
車椅子お姉さんは、よく俺に嫌なことを突きつけてくる。
前回は『男女比の偏りのせいでその世界では男は五人の女性と結婚するのが普通みたいだけど、それって変でしょ。前の世界のように一人しか選べないとしたら、あなたは誰を捨てるの?』と、一見正論のような言葉で揺さぶってきた。
他にも『本当にあなたの周りの人間は作られた存在じゃないのか』とか、『あなたが見ている世界こそあなたの妄想なだけでは?』とか、『前世に残してきた彼女に申し訳無いと思わないの?』だとか、それっぽい仮説を添えて俺を揺さぶる。
そんな意地悪なことをさも楽しげに問うて、俺が困っている様子を、片方の唇だけを釣り上げてニマニマと笑うのだ。
「私の話が嘘かどうかは置いておいて、お互い不思議なことが起こっていることだけは事実でしょ」
「そうですね」
「前回も言ったけれど、私はその不思議を全て解明して、さっさと元の世界に戻りたいのよ」
「そんなことできるんですかねえ」
「全ての理が合目的性の流れの中にあるならできるはずよ」
難しい言葉が含まれていたせいか、何を言っているのかよく分からなかった。そんな俺の困った様子を見て、車椅子お姉さんは分かりやすい言葉で再度言い直す。
「連れてこられたということは、帰る方法だって絶対にあるはずって思わない?」
「あー、まあそうですね」
「それに、私は本質を考えるのが好きなの。私達の体験している不可解な現象について、解明のためのアプローチをしているだけで楽しいのよ」
「俺とは大違いですね」
例えば、トラックに轢かれて異世界転生したという物語の設定一つとっても、俺と車椅子お姉さんとは考え方が全然違う。
俺は「そういうもの」だと認識していることを、車椅子お姉さんはそうなった原因から、誰がどうしてこんなことをするのか、何の目的があるのかなど、深く考えるのだ。
「だって私、哲学が好きだもの。何が善で何が悪なのか、心とは何か、神とは何か、人間とは何か。いつもそんなことばかり考えているわ。あいにくこんな足だからできないことが多くて、時間だけは有り余っているからね」
「それはまた、なんというか……」
「別に慰めなんていらないわよ。周りの男達……こほん、使い捨て奴隷共が何でもしてくれるし、お金もイケメン達……ごほんっ、貢ぎマゾ共から搾取してあげているから、人生何にも困ってはないもの」
「なんでそうイカれた方に言い直すんですかねえ」
「っふふ」
もし俺がそっちの世界へ連れてこられたらと考えると、身震いする。俺がそちらの世界へ行っていたら、今頃車椅子お姉さんに破滅させられてるだろう。
ありがとう、主人公君。ここが優しい世界で助かったよ。
「とにかく、私は常に思索にふけっているから、色んな仮説が思いつくの。例えばそうね、【妄想世界は数多に存在している。今はそれぞれ独立しているが、いずれそれらは一つとなる】なんて仮説は面白くないかしら? 私の住む妄想世界とあなたの妄想世界はお隣だから、こうして壁を介して出会えると考えると、少しだけ辻褄が合うのよ」
「ええっと、ああ、そう言えば以前『妄想世界は数多に存在する』と断言してましたね。それらが一つになるってことですか」
車椅子お姉さん曰く、俺が連れてこられる前に見たシャボン玉の一つ一つが、精霊の作り出した世界だとか。本来それらは人間が見てはいけないものだったので、精霊は大慌て。結局、俺や車椅子お姉さんをその隔離された世界に転生させ、強引に対処することにした。
こんな仮説をそれっぽい理屈を添えて言っていたっけ。
「ねえ、そろそろあなたの話も聞かせてくれる? 以前も伝えたけれど、きっと何気ないことにも世界の謎に関するヒントは眠っているはずよ。ということで、私に情報を搾取させて?」
「そうですねえ。ぱっと思いついたのは相談なんですけど、いいですか?」
「ええ、なんでもいいわ」
「こんなこと聞くのはなんですけど、俺はなんで果てを見てしまうんですかね?」
「ふむ、そうね、哲学用語で言うところの、“崇高の経験”を感じているのではないかしら?」
「何言っているのか分かんないので解説お願いします」
その後も俺の部活での話やデートの話など、他愛もない話は淡々と進んでいった――
「さて、そろそろ時間のようね」
どんどん透明になる俺の身体を見て、車椅子お姉さんはそう呟いた。
車椅子お姉さんと会うこの時間には時間制限がある。
今までの経験から察するに、朝になって俺の意識が覚醒するとともに、ここでの俺の身体は消えていく。それから、ここでの出来事を全て忘れる。
どうしてそうなるのかは不明だ。俺はこの不可解な現象について考える気がないので、車椅子お姉さんが答えを出すまでは一生分からないだろう。
「たとえ覚えていなくとも、ここでの出来事は確かにあなたの心に刻まれているはず。だから次に会う時は、もっと私のことが好きになっているの。どうせ最後には全てを捨てて私を選ぶのだから、早く堕ちてね」
それから車椅子お姉さんは少し移動し、俺をかがませたのち、俺の事を透明な壁を介して耳元でこう囁いた。
「あなたのことが世界で一番大好きよ」
嘘。明確な嘘だ。
それは明らかに嘘の成分が大量に含まれた言葉だった。どんな演技の下手なアイドルだろうが、これほど愛の混じっていない告白はできないだろう。
それでも俺の心臓は一拍だけ跳ねた。
その言葉の表面上には分かりやすい嘘でコーティングされていたが、その奥には俺には噛み砕けない複雑な何かが確かにあった気がしたのだ。
嘘ではあるのに、嘘と断定するには何か違和感がある。だから俺の胸の内がこうもざわついてしまうのだろう。
「はいはい、じゃあまた会えたら会いましょう」
「っふふ。照れているのね」
彼女のペースに乗ると大抵勝てないので、テキトーに言葉を受け流しながら小さく微笑む。それから、まるで友人にそうするように手を振った。
俺は彼女との間に「友情」を感じている。
おそらくだが、彼女には友人がいない。あの性格だ、それも仕方のないことだろう。
だから俺が仕方なく友達でいてあげる――というわけではなく、気づけば友達と認識していた。
もちろん俺がそんな風に思っているなんて、決して口には出さないがな。
しだいに俺の身体の輪郭がこの真っ白な空間に溶けていく。同時にぼんやりと意識もほどけていき、緩やかに完全な真っ白になっていく。
それから泰平はいつものベッドで目を覚ます。泰平はここでの記憶をすべて忘れており、何事もなかったかのように日々を過ごしていった。
その後。
「くそっ、全然上手くいかない。手強いわねえ」
この空間に一人残された車椅子お姉さんは、小さく舌打ちしながらメガネを粗雑に外す。
それから、何事もなかったかのように車椅子からすくっと立ち上がったかと思えば、ドカドカと不機嫌そうに大股で歩いていったのだった。




