第七十六話 男と女
ぱんっぱんっ。
二礼二拍手一礼。
「(今日もこの世界が崩壊しませんように)」
今日は土曜日。予定の上では夏休みの土曜日が一番忙しい。
まず、朝から昼まできっちり柔道の練習。そして、お弁当を食べた後は、学校の一室を借りて三時頃まで柔道部のみんなとみっちり勉強会だ。
俺はここで夏休みの宿題を済ませるつもり。
その後は娘お姉さんと会うし、夜にはゲーマーお姉さんともゲームをする。朝から晩まで予定がみっちみちだ。
そう聞くとお前は「体力が持つのか」とか心配するかもだが、これが案外大丈夫なんだ。
若者にとって、遊びは体力を消費するものにカウントしないのだ。
いやあ、我ながら、若者って恐ろしい。
前世の社会人時代は、飲み会やら何やらで、あれだけ体力が削られていたのになあ……
「うし、普通っ子、行こうか」
「うん」
さあ、今日はどんな一日が待っているだろうか。
◆◆◆
毎日朝にランニングしているおかげで、俺は朝練というものに抵抗感がない。朝から絶好調だ。
まあ、だからといって実力以上のものがでるわけではないのだが。
バォォォン! 俺がぶりっ子先輩に綺麗に投げられた音が響く。
「くっそー! 俺だって強くなった実感はあるのに、全然勝てないんだけど!」
土曜日はランク戦の日だ。今日は何度も何度も部員のみんなと、師範と試合形式で練習する。一戦目は無事敗北と。
俺は大の字に寝転がったまま、地面で叫ぶ。普通っ子との秘密特訓を経て、最近は新たに「リスペクト柔道」というオリジナルの戦い方を心がけているのだが……これがなかなか上手くいかないもんだ。
せっかく俺向けに普通っ子が編み出してくれたのだから、もっとものにしたいな。
「まだまだ泰平には負けないわよ」
手をひらひらさせながら、ぶりっ子先輩は次の試合の準備に向かった。
くそ、ぶりっ子先輩が高校を卒業するまでには勝てるようになりたいと密かに思っているのだが、全然追いつかない。
俺が前に一歩進むと、ぶりっ子先輩は二歩先に進みやがる。永遠に追いつかない気さえしてくる。
だが、ここで腐ってはいけない。気がはやってもいけない。
俺の場合、無茶したところで急にはうまくならない。だからこそ、一歩ずつ進んでいくしかないのだ。
さて、俺の次の相手は師範か。
俺の「リスペクト柔道」は格上にこそ効果を発揮する(予定)。今日こそ見事に討ち取ってやろう。
柔道部でみっちり本気の対戦形式を繰り返し、練習時間が終わった。
結果? まあ、想像通りだ。抜けて強い人が順当に勝って、後はまあ拮抗した勝負だったよ。
絶好調だからといって想像より勝てるとか、そんな都合の良い展開は訪れない。勝負の世界はシビアだ。
でもまあ、今日は試合で“負けないために”体を動かすのではなく、“どうすれば勝てるか”と、積極的な思考で動けたからオッケーということで。
最近この思考を意識しているが、これって結構大事な気がするんだよな。
その後は和やかにお昼ご飯を食べ、教室の一室を借りて勉強タイムだ。
「では今から約二時間半、しっかり勉強するように」
「「「はい」」」
母の監視のもと、持ってきた夏休みの宿題をテンポよく進めていく。
学生の本分は勉強。武道に真剣なのはいいが、本分を疎かにしてはいけない。そんな母の理念のもと、この勉強会は去年から始まった。
「泰平、集中力が切れる度に私をチラチラ見るな。一度きっぱり休憩するか、もっと集中するかのどちらかにしなさい」
「えー。だって、師範モードで本を読む母親の姿って、すっごく珍しいんですよ。見なきゃ損じゃないですか」
師範の時の母はとてもカッコいい。そして、カッコいい人が本を読む姿はやけに映える。だから見るしかない。うむ、完璧な理論だ。
ちなみに、母は三国志の本か、兵法書か、様々な実用書などを読むことを趣味としている。だから、家にはそういう系統の本がたくさんある。その中には買ったはいいがまだ読めていない本も多いらしいので、母にとってもこの時間は良い機会らしい。
「うっ、そんなキラキラした目で見ても、ダメなものはダメだ。もしどうしても見たいのなら、私に気づかれないように盗み見なさい」
「それ、無理ゲーじゃないですか……」
師範モードの時の母は、化物レベルで視野が広く、勘も鋭い。あまりに隙がない。
「なら諦めなさい」
「はーい」
しゃあない。未熟な俺では盗み見ることはできないので、大人しく宿題を倒しますかあ。
その後は母の監視のもと、緊張感を持って宿題を進めることができたのだった。
勉強会が終わってすぐ、俺は喫茶ロゼルへ向かった。
今日は客としてここに来たわけではないので、裏口からお邪魔させてもらう。
「パパ。お疲れ様」
二階へ上がり部屋をノックすると、娘お姉さんが満面の笑みで俺を迎えてくれた。
娘お姉さんは一瞬だけ俺の首元をチラリと確認し、ほんの一瞬だけ目を瞬いた。
だが、次の瞬きの間には、いつも通りの笑みが戻っていた。
「ほい、ただいまー」
「じゃ、すぐに寝よっか。ほら早く」
「今日は展開が早いなあ」
「夏休みの土曜日は仕方ないよ。パパが忙しいんだもん」
娘お姉さんは毎週土曜日の四時から六時にラジオを録ることにこだわっている。父と娘のほのぼのラジオはこの時間が放送枠なのだそうだ。
別に本当に収録しているわけではないのだから、時間の都合などどうにでもなるのになあ。
どうやら娘お姉さんは、毎週同じ時間に同じことをするのが安心するらしい。普段引きこもっていて曜日感覚がないからこそ、この日を大事にしているのだとか。
「はい、パパ。ごろーん」
「ねえ、そうされると赤ちゃん扱いされてるみたいで恥ずかしいんだけど」
なんだか今日の娘お姉さんは少し母性的だ。
いや、母性的というか、女性らしい……か?
この表現が合っているのかは分からない。ただ、最近の娘お姉さんは、性格が少し丸みを帯び、同時に柔らかくなった印象がある。
もちろん以前から性格が刺々しくて固いわけでは決してないのだが、不思議とそう感じるのだ。
今だって優しくて温かい瞳で俺を気遣ってくれている。今は父と娘というより、普通の女と男に戻ったみたいだ。
いつもの遠慮ない甘えは、俺にとってとても嬉しいものだった。だが、今のように俺を甘えさせてくれるのは、もっと嬉しい。
こう感じるのはきっと、俺達の関係も自分達では気づかないほどゆっくり、ほんの少しずつ変化しているからなのかもな。
「えへへ、娘だってたまにはパパを気遣うこともあるんだよ。今日のパパ、ホントに疲れてそうだから」
「おぉう。ウチの娘が知らず知らずのうちに成長してる」
「なによー、その言い方。私だってずっと子供なわけじゃないんだからね! ほら、早く目をつぶって。子守唄歌ってあげるからさ」
「ほーい。じゃ、おやすみー」
「おやすみなさい、パパ」
ベッドの中で娘お姉さんの物悲しげな子守唄を聞き入っていると、一瞬で眠りの世界へと旅立った。
眠る寸前の一瞬――意味ありげに首元をそっと撫でられた気がした。
ささやくような小声とともに意識が覚醒した。
起きてすぐに違和感に気づく。
(あれ? いつもの温もりがない?)
というか、娘お姉さんが俺の隣にいない。
いつもなら俺の寝顔をじっと見ているはずだが……
途端、少し俺の胸にふわっとした寂しさが満ちた。
どうやら俺は、起きてすぐに娘お姉さんと目が合う光景が案外好きだったようだ。
「私にとってパパはただのパパじゃなくて……」
目をこすって意識をはっきりさせていると、ふと俺の耳が娘お姉さんのささやき声を捉えた。
体を起こしてその声の場所に目を向けると、いつもラジオを収録するセットに娘お姉さんが座っていた。
どうやらすでにラジオを録っているようだ。
「あ、パパ、起きたんだ。おはよー」
「おはよー。先に始めてたんだね」
「うん。時間が来たから一人で繋いでたんだ。一人で喋るのは難しかったけど、なんとかがんばったよ」
「別に起こしてくれたらよかったのに」
「だって、すっごく気持ちよさそうに寝てたんだもん。起こすの悪いかなって」
「まあ、最近の俺、地味ーに頑張ってるからなあ。っと、さて今は……まだ四時十分か。ってことは十分遅刻だな」
「そうだよー。だから、今日も“十の質問”のコーナーは私の不戦勝だね」
「ああ、またしても連敗記録更新か。こんなはずじゃあなかったんだがなあ……」
流れるようにいつもの場所に座り、軽快なトークを続けていく。
案外俺は寝起きでも口が回る。そんなどうでもいいことを、この時初めて知った。
その後、何事もなくお便りのコーナー、歌のコーナーと進んでいき、次のコーナーへ。
「ニュースのコーナー!」
「このコーナーは、パパと私が気になったニュースをピックアップして、リスナーに紹介するコーナーです」
「じゃあいつも通り俺からいくよ。俺の気になったニュースは『近所に男性店員が作るパン屋さんがオープン!』だな」
「あー、大学生女子が殺到しそうだね」
「そうだな。俺は母親のパン屋でしか買い物するつもりがないから行かないけど、どうせ値段も高いし味もそこそこなんだろうなって思ってる。だって男が作ったパンだしな」
「それは偏見だよ。最近では世の中の男の子も頑張ってるらしいじゃん。そういう話はよく……いや、ごくたまに聞くよ?」
「まあな。ウチの高校でも数学教師が真面目に働いてるし、最近ではコンビニでバイトしてる男とか、ちょくちょく見かけるからな。そういう店舗は人がやたら多いから、俺はあんま行かないけど」
「あ、そのコンビニ店員さん知ってるかも。ネット上で『一目惚れしたから二億差し入れした。そうすると笑顔を見せてくれるようになって幸せ!』って投稿したのが昔話題になってたよ」
「……なにそれ。俺もコンビニ店員やろうかな」
「やめといたほうがいいよ。それに、その二億もらった人も後日ちゃんと返したらしいよ」
「あー、二億もらえないのならコンビニ店員とかはいいや。どうしたってトラブルが多そうだしなー」
「ね。世の中そんなに甘くないみたいだね。じゃあ次は私の気になったニュースを発表するね。うちの近所のお姉さん、彼氏ができなさすぎて、とうとう想像妊娠チャレンジをするように――」
こうして、いつも通りラジオごっこは進行していく。
いつの間にか、部活動や勉強で溜まった疲れは消えていた。




