第六十八話 スピノザの決定論
辺りを見渡すと、どこまでも真っ白な世界が広がっている。
ここは――
そうか、また面会室へ来たのか。
「あら、こんにちは」
「こんちわっす。また会いましたね」
透明な壁の向こう側で、車椅子お姉さんが蠱惑的な笑みを浮かべながら、俺に手を振った。
「っふふ」
何かを含ませたようないつもの笑み。いかにも意地悪そうに片方の唇をほんのりと吊り上げ、その漆黒の長髪をかきあげる。
特別なことは何もしていないのに、どこか目を惹く。美しすぎて気後れしてしまいそうなはずなのに、気安くも感じる。いつまででも、その細フチメガネの奥で妖しげに光る瞳を見入っていたい。
「……はぁー」
「何よ。私を見て、これみよがしにため息なんて吐いて」
「いやあ、車椅子お姉さんはカリスマ性がありますよね。いいなあって思ってですね」
「そうね。確かにあなたにはカリスマ性が皆無だものね」
「ぐはっ!」
俺は大げさに膝から崩れ落ちた。
「あら。そんな些末なことを気にしているの?」
「だってですね、俺って割と日々を頑張って過ごしてるんですよ。しかも、ある程度の年齢を経て、高校生に戻ったというアドバンテージ持ちです。それなのにカリスマ性が皆無って……はぁー」
「っふふ、そうね。もしあなたが人よりもすごいことをしたとしても、賞賛の気持ちはそこまで湧いてこないわね。こんなにカリスマ性がないって、ある意味これはこれで天性の才能よ」
「ぐはっ! ちょっと!! 俺だって一応傷ついているんですから、これ以上追撃しないでくださいよ!!」
「あら? 私は褒めてあげたつもりなのだけど……まあ、これは価値観の違いかしら」
なにそれ、なんだか強者の余裕みたいに感じて羨ましい。
偉そうに足を組みやがってさあ。相変わらず足が長いし見えそうで見えなくてエロいですね。そういうところもなんかカリスマ性があるように見えて羨ましいわ。けっ。
「っふふ、ならそうね。これはここだけの話なのだけど……いや、やめておきましょうか」
「え、なになに? 車椅子お姉さん! なんか分かんないけど知りたいです!」
「あら、ダメよ。この話し方はスノッブ効果といって、希少性を演出する心理テクニックよ。悪い女がよく使うやつね。
同時にツァイガルニク効果というのも使っているわ。人間は完了したことよりも、途中で未完成のまま終わったことのほうを強く記憶し、気になってしまうという心理特性を持っているの」
「いや、そんなテクニックのことなんかより、文脈による予想で俺は知りたくてたまらないんです。なにかカリスマ性に関する秘密かなにかを知ってるんですよね? ねえ!」
「っふふ。さあ、どうかしら」
くっそ、なんでも見透したような目で楽しそうに笑いやがってよぉ。ほんと綺麗だなこいつ。
あと格好がエロすぎる。ノースリーブのぴっちりしたセーターはダメでしょ。俺の性癖に刺さりすぎている。
透明な壁がなかったら大変なことになってた気がするわ。この表現で合っているのかは分かんないけど、なんか飲み込まれそう。
「車椅子お姉さん。とりあえず、とりあえず何を教えようとしてくれたのかだけでも、おせーてください!」
「まあ、そこまで言うのなら特別に教えてあげるわ。あまり大きな声で言いたくないから、もっとこっちへ来なさい。そこでこの透明な壁に耳を当ててもらえる?」
「? はーい」
別にこの位置からでも充分に聞こえるはずだが、何かあるのかもしれないし、とりあえず言う通りにしよう。
俺はこの俺達を隔てる透明な壁に耳をピッタリと当てた。
俺の右耳に車椅子お姉さんの少し潤んだ唇が近づく。温度や湿度を感じさせるような吐息こそ壁のおかげで感じない。だが、息遣いが鮮明に聞こえてきて、なんだかソワソワする。
「っん、うん」
俺の耳元で囁くように、車椅子お姉さんは小さく咳払いした。
ただの咳払いが妙に艶めかしい。至近距離だったせいか、全身の毛穴が開くような、ゾワッとした快感が駆け巡った。
俺は即座に邪念を振り払い、車椅子お姉さんの言葉をじっと待っていた。
「――ちゅ。あなたのこと、世界で一番愛しているわ」
嘘。明確な嘘だ。
耳元で囁かれた嘘でコーティングされた愛欲の言葉。同時にリップ音。
……でも、嘘のはずなのに、頭の中は想像以上にクラクラしていた。
愛しているという言葉には、男を舞い上がらせる威力がこれほどまでにあるのか?
俺は気づけば尻もちをついて、右耳を押さえながら車椅子お姉さんを見上げていた。
「っふふ。ダメじゃない。私は悪い女だって何度も言っているでしょう? 耳なんて性感帯を差し出されたのなら、こうするに決まっているわ」
車椅子お姉さんは、それはもう楽しそうに唇を吊り上げた。
「もう、車椅子お姉さんはほんと……はぁー。分かりました。ホイホイなんでも信じた俺が悪かったです」
「そうね。さて、今日の戯れはここまでにしておきましょうか」
「ええー、結局そのカリスマ性に関する何かは教えてもらえないんですか?」
「ああ、そうねぇ。カリスマ性なんてものは、ある程度なら後付けできるわよ。一番簡単な方法を教えてあげましょうか?」
「ッ! そういうの! そういうの欲しかったんです!」
騙されたと思っていたが、本当にそんなのがあるのなら騙された甲斐があった。
俺は目を輝かせて彼女を見上げながら、体育座りをした。
「私と共にいること。それだけであなたはカリスマ溢れる人に見られるわ」
はい?
「何言ってんだコイツ……?」
おっと。思わず脳内で思うだけのつもりだった言葉まで口に出してしまった。
「あら、私は大真面目よ。人は愚かだから、カリスマ性のある人の身近にいる人もまた、カリスマ性があるものだと勘違いするのよ。そういうことよ」
「うぬぬ、なんかそれ……ズルいなあ」
「人間という種族は総じてズルいのよ。だからこそ、あらゆるズルの手口は知っておいて、使う側に回った方がお得なのよ」
「わっかりましたー」
とりあえず俺の求めるような答えではなかった。やはり何事も上手い話はないってことか。
「あっ、そうだそうだ。そういえば、以前言っていた、『俺が恋人を四人までにしておいたほうがいい』って理由と、『ルールを破るとペナルティがある』ってやつ。あれについて詳しく教えてください」
「っふふ、ねえ。偉大な哲学者であるスピノザって知ってるかしら?」
車椅子お姉さんは俺の問いを完全にスルー。あの意地悪な顔は、そのことについて話すつもりが一切ないということだろう。
何となく教えてくれないんじゃないかとは感じていたが、やはりだめか。
「で、スピノザでしたっけ? 正直全く聞き覚えはありません。ホントに有名な人なんですかー?」
「あなたって前世では哲学も履修していたのでしょう? なら、確実に習っているはずよ」
「ほえー、そうなんですねえ。そのスピノザさんも俺と同じでカリスマ性がないから、記憶に残っていないんじゃないですかね? けっ」
「はいはい、いちいちいじけないの。
スピノザは決定論を唱えた人物よ。自由意志なんて存在しないと断言したの。人に自分の意思で選び取る力なんてなく、全ては宇宙の法則――神の仕組みどおりに動いているだけ。そんな風に論じた人物ね」
あー、なんかそんなのも習った気がするな。
前世のお調子者、高橋君が『俺が女子のうなじに興奮するのも、全ては神のせいなんだ! 宇宙の法則なんだ!』とか騒いでいたのは、スピノザを習っている時だったか。
「それにしても、極端な考えですねえ」
「あら、そう? 私は主人公のいる妄想世界と聞いて、一番最初にこの考えを思い浮かべたわよ」
うん?
うーむ、確かに言われてみれば主人公君という神が全てを決める妄想の世界と、その決定論は似ているような気がしないでもない。
……が。
「いやでも、それはやっぱりこの世界には適用されませんね」
「そう断言する根拠は?」
「俺がぶりっ子先輩に全身をボディペイントされた状態で、普通の服を着たぶりっ子先輩と軽いペアダンスをしたこととか、神の意思なわけないもん」
「……あなた、そっちで何をやってるのよ」
おっ、車椅子お姉さんの素の表情を出すことに成功した。なんだか嬉しい。
「えっとですねえ、確かあの時は――」
この後、哲学の話から始まり、流れで最近の俺の話をしていった。
いわゆる車椅子お姉さんによる情報搾取の時間だ。
案外彼女は俺の話を心から楽しそうに聞いてくれる。
ただ、俺のテストの結果とか、恋人になってからの方が大事と気づいた話とか。こんなのが役に立つのだろうか?
「あら? 時間のようね」
「あらら、今日はもう終わりか」
俺の体がゆっくりと透明になってきた。
「っふふ。さて、そろそろかしら」
「……?」
「そろそろ、私も本格的にあなた達の関係をズタズタにするつもりだから、覚悟して――」
車椅子お姉さんが何か言っているのは認識していた。だが、意識がぼんやりしているせいで、ほとんど聞き取ることができない。
次第に俺の身体の輪郭がこの真っ白な空間に溶けていく。同時にぼんやりと意識もほどけていき、緩やかに完全な真っ白になっていく。
それから泰平は、現実でいつものベッドで目を覚ます。彼はここでの記憶をすべて忘れ、何事もなかったかのように日々を過ごしていった。
その後。
「そもそも、あなたの世界にカリスマ性のある男性なんていないのではないかしら。それでもカリスマ性を求められるということは……あなたは知らず知らずのうちに大きく期待されているってことよね。ああ、気に入らないわ」
この空間に一人残された車椅子お姉さんは、小さく舌打ちしながらメガネを粗雑に外す。
「愚か者め。もう我慢の限界だ。お前が戻ってこないのなら――」
それから、何事もなかったかのように車椅子からすくっと立ち上がったかと思えば、ドカドカと不機嫌そうに大股で歩いていったのだった。




