第六十三話 息抜き
ぱんっぱんっ。
二礼二拍手一礼。
「(今日もこの世界が崩壊しませんように)」
昨日はいつもより二時間も早く寝たのだが、それでもぐっすりと眠り、いつも通りの時間に目覚めた。
ということはやはり、俺の体はリラックスを求めていたのだろう。今朝は体が軽いし、頭もシャッキリしている。
何より一番違うのは、視界に入ってくる情報量だ。今朝ランニングしていて、昨日よりも明らかに周囲の景色が鮮明に見える。
どうも俺は疲れの分かりやすい兆候が視覚情報に現れるようだ。
これからは少しでも世界が鮮明でないと思ったら、しっかり休まないとな。
なんかなあ。こういう無理を無理と思わない部分は、前世があることによるデメリットな気がするんだよな。
俺は前世で多少ムリしても大丈夫ということを知ってしまっているので、この程度の疲れなんて普通と考えてしまう癖がある。しかも、そんな疲れを表に見せまいと、自然と普段と全く変わらないような平気なフリを無意識的にやってしまう。
実際俺自身も自分の疲れに気づいていなかったし、よく一緒にいる普通っ子も気づかなかった。周りの人間の中で俺の疲れに気づいたのはぶりっ子先輩くらいなことから、これはなかなか厄介な代物らしい。
とにかく、限界以上に頑張ったと感じた日の翌日以降は、意識してリラックスの日に当てることに徹しよう。
「うし、普通っ子、行こうか」
「うん」
さあ、今日はどんな一日が待っているだろうか。
◆◆◆
「ええと、今日のお知らせは……あれ? プリントプリント……」
授業前のホームルーム中、ドジっ子先生が教卓に立った。
もう彼女もこの教師生活に慣れてもいいはずなのに、一向に慣れる様子はない。いつだってドジっ子先生はドジっ子だ。
「せんせー、教卓に頭ぶつけちゃダメだよ」
「足首をぐねるのにも気をつけてね」
「今日はちゃんと同じ靴下履いてきて偉い」
クラスメイトもドジっ子先生のドジに慣れたもので、こんな気安いヤジも聞こえてくる。
「わ、分かってるよぉ。ええと……あったあった。って、うわっ」
ドジっ子先生は教卓の下から無事にプリントを取り出したのち、教卓の段差につんのめり、尻もちをついてしまった。
尻もちをついただけなのに、何故かM字開脚のような体勢になっている。パンツスタイルだからそこまでエロくないとはいえ……いや、やっぱ普通にエロいわ。なんか嗜虐心がふつふつと湧いてきやがる。
なんでこの人がドジをする時は、いつも妙にエロいんだろうか。ごちそうさまです。
「いてててて……えへへ、失敗失敗。はい、この三者面談についてのプリントを後ろに回してね。テストが終わったら三者面談をするから、しっかり親御さんに渡すように」
なるほど、三者面談か。
「みんながリラックスできるように、三者面談の時は翼君も私と一緒に付き添ってもらうからね。翼君、よろしくね」
「はい、分かりました」
そうして今朝のホームルームは終わった。
……ん? えっと?
俺もしれっと流しかけたけど、なんで翼君が三者面談に付き添うの?
誰も疑問に思っていないということは、どうやらこの形がこの世界の自然ということなのだろうが……
まあ、それならそれでいっか。別に翼君に聞かれたくないこととかないし。
さあ、今日も全力で淡々と学生生活を謳歌しよう。
何事もなく学校生活を終え、放課後。
「泰平先輩! 来ました!」
ぴょんぴょんと全身で跳ねるかのような勢いで、元気っ子後輩が俺のクラスの前へやってきた。
「おう、元気っ子後輩か。相変わらず今日も元気だな」
外の廊下で待っていた俺は、「よお」と手を上げる。
「うっすうっす」
「で、どうしたんだ?」
「もうボケたんですか? お昼に約束したじゃないですか。勉強に疲れたんで、私のストレス発散に付き合ってください!」
勉強に疲れたと言いつつ、目が燦々と輝いている。おそらくだが、テスト期間のせいで体力が有り余っているのだろう。
「なあ、さっきのセリフをもう一度言ってくれない? 録音して後半の『付き合ってください』ってところだけ切り取るから」
「泰平先輩は相変わらず私のことが好きですね! あははははっ!」
元気っ子後輩は俺の少し変態じみた小ボケをからっと笑い飛ばした。
弾けるような笑顔につられ、胸に嬉しさが満ちる。
「ほら泰平先輩。そんな人様に見せられないようなデロっとした表情してないで、一緒に遊びましょ!」
「だな、何して遊ぶ? 鬼ごっこ? かくれんぼ? それともだるまさんが転んだ?」
「そんな子どもみたいな遊びなんて……いや、よく考えれば意外と楽しいかもですね! でも二人でやるのは味気ないので、今度柔道部のみんなとやりましょー!」
「それもいいな。さて、今日はどうしよっかなあ」
俺が頭を悩ませていると、元気っ子後輩はにんまりと笑いながら、俺の肩にポンと触った。
「タッチ」
元気っ子後輩は脱兎のごとく走り出した。
「ほらー、泰平先輩が鬼ですよー!」
「……しゃあねえなあ」
首をポキリと鳴らしたのち、なりふり構わず全力で逃げる元気っ子を追う。
「きゃー!」
「楽しそうにしやがってよお! 足が速えんだよ! 廊下は走ってはいけませんよ」
とは言いつつ俺も全力で走っているが。
「ほらほら! ノロマの泰平先輩! そんなんじゃ一生鬼のままですよ!」
「ふっ、ウサギとカメでも最終的に勝つのはカメ側だ。つまりこの勝負は俺の勝グエッ」
ふと、誰かに俺の制服の首後ろの襟元をひっつかまれ、勢いを止められた。
振り向くと、体育教師が目を吊り上げて俺達を見ていた。
「おいそこの二人! 危ないから廊下を走るな!」
「「はあーい」」
別に先生から逃げ切れたであろう元気っ子後輩も戻ってきた。
それから、五分ほどみっちりと怒られたのだった。
体育教師から解放された俺達は、大人しく歩いて校舎を出る。
「「………」」
学校を離れてしばらくして、無言で二人で目を合わせる。
「タッチ」
「タッチ返し」
「タッチ返し返――くそっ、逃げるな! タッチ返しはなしだぞ!」
俺達は示し合わせたように走り出した。
「あははははっ! 泰平先輩! 次の電信柱までに鬼だったら、自販機でジュースおごってください!」
「おっけー! だが、俺から逃げられると思うなよ? 唸れ俺の足! 脳のリミッターを解除しろ! 限界のその先へ! うおおおおお!!!」
とか無理やりそれっぽく気合を入れたところで、急に足が早くなるわけはなく。何度も俺の近くで煽られた上に、普通に逃げ切られた。
うちの後輩は早いだけじゃなく、身軽でもある。
「じゃ、泰平先輩。コーラで」
「はいよ。じゃあ、軽く休憩がてら、公園に寄っていこうぜ。そこでみっちり遊ぼっか」
「えへへ、仕方ないですね! 今日はとことん遊んであげますね!」
遊ぼうと誘ってきたのはあっちだというのにその言い分。まあ可愛いので何も言いはしないがな。
俺はペットボトルのコーラを買い、あえてくるくるっと空中で回転させて投げ渡した。
「ちょっと! 炭酸が吹き出したらどうするんですか!」
それを当たり前のようにキャッチした元気っ子後輩が俺に文句を言う。
「大丈夫大丈夫。炭酸って冷たいとそう簡単に吹き出ないから」
「ほんとですか? 吹き出したらもう一本買ってくださいよ」
疑わしげな目で俺を見ながらも、後輩は恐る恐る蓋を開けた。開く時に強くプシュッという音はしたが、吹き出すことはなかった。
安全が確認できた元気っ子後輩は、ペットボトルの半分くらいの量を一気に飲み干した。炭酸だというのによくやるよ。
「おうおうおう、そんな一気飲みしたら、めちゃくちゃデカいゲップが出るぞ?」
「そんな汚いことしません。ちゃんと口を閉じていれば鼻から炭酸ガスが抜けていきますから。まあ、それでも少しはしたないですが……」
「大丈夫。世の中にはゲップフェチとかいう、異性のゲップに性的興奮を覚える人種が存在するから」
「……フォローになっていませんが。それに、いくら恋愛に疎い私でも、そんな嘘は通じませんよ?」
嘘じゃないんだな、これが。ミソギ様へのリクエスト欄にも少数ながらそういう意見があるから、確実に需要はあるんだよ。
正直俺には理解できない世界だから、スルーしているんだけどな。
「なあなあ、そのコーラ、一口頂戴?」
「嫌です。泰平先輩がなんかエッチな顔してるので」
「くそっ、間接キスしたかっただけなのに! 察しのいい女め。そんなんじゃモテないぞ!」
「えへへっ、ホントに泰平先輩は私のことが大好きですね!」
「くっそー、元気っ子後輩は悪女だなあ」
俺は足をぶらぶらさせて座る元気っ子後輩を見ながら、自然と目を細めていた。
なあ、元気っ子後輩よ。そんなとろけるような笑顔を俺に見せてくれるな。
その笑顔を見るたび、俺の中の炎がどんどんと強まっていく。熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうなんだ。
カナカナカナカナ……遠くで切なそうにひぐらしが鳴いている。近所の家からカレーの匂いが優しく漂っている。
ああ、涙が出そうなほど幸せだ。
こんな幸せでいいのかなあ……
素直に、そう思った。
「うし! じゃあそれを飲み終わったら、ジャングルジムで鬼ごっこでもしますか!」
「ですね! ジャングルジムであろうと、私に勝てるなんて思わないことです!」
たった一時間ほどの、テスト期間中の少しの一時。
俺達はヘトヘトになるまで全力で体を動かしたのだった。




