第四十四話 自己充足的予言
辺りを見渡すと、どこまでも真っ白な世界が広がっている。
ここは――
そうか、また面会室へ来たのか。
にしても、ここに来る時期は本当にランダムだなあ。友達と会ってちょっと喋るだけなのに、面倒なルールだ。
「あら、こんにちは」
「こんちわっす。また会いましたね」
透明な壁の向こう側で、車椅子お姉さんが蠱惑的な笑みを浮かべながら、俺に手を振った。相変わらず分かりやすく色気溢れた美しい人だ。
「っふふ」
何かを含ませたようないつもの笑みが、やけに様になっている。カリスマ性というのだろうか。車椅子お姉さんの身振り手振りには、どこか目を引く力がある。
このカリスマ性は、同じく人を引きつける力を持つぶりっ子先輩のものとは性質が違うような気がする。ぶりっ子先輩のカリスマ性が温かい太陽だとすれば、車椅子お姉さんのは人が手間暇かけて手入れした美しい花畑のような、そんな違い。
「ねえ、突然だけど、私の目を見てくれないかしら? それで、私のまばたきの数を数えてほしいの」
「はいはい、今回は何を企んでいるんですか?」
「っふふ、ちょっとした実験かつゲームよ。私の瞳の奥の奥まで覗き込むように、超至近距離でお願いね」
手を「おいで」とジェスチャーしながら呼ぶので、俺は透明な壁にできる限り近づいた。
車椅子お姉さんは切れ長の目元を緩め、穏やかな表情で俺を見つめる。そんな彼女に視線の高さを合わせ、指示通りにしてみた。
細フチメガネの奥で、美しいアーモンド型の瞳が光っている。果てしない夜空みたいな黒目がキラキラと瞬いている。ずっと見ていると飲み込まれそうだ。
「この状態で車椅子お姉さんのまばたきの回数を数えればいいんだよな」
「ええ。だけどここから一つルールを追加するわ。今から一分ほどこのままの状態で過ごすのだけど、あなたは決して喋ってはいけないし、同時に私の目を逸らしてもいけないの。それが達成できたらあなたの勝ちね」
「うしっ、それだけですね。分かりました」
ルールを追加すると言われた時は少し警戒したのだが、それくらいならまあいいだろう。
俺は決して車椅子お姉さんの瞳以外を見ないように集中しながら、口を硬く閉ざす。
「「………」」
十秒ほど無言の時間が続いた。その間、車椅子お姉さんは一歳まばたきをする様子がなかった。
なぜだかは分からないが、次第に俺の心臓がドキドキと鼓動し始めた。
「っふふ」
彼女は蠱惑的な笑みを浮かべたのち、一瞬下に視線を下げ、そしてどこか照れたように俺と視線を合わせた。
どきりと心臓が跳ねた。
「ねえ、なんであなたは私の目を見ているんだっけ?」
「………」
返答を求められても決して喋らない。
「っふふ、私の事を魅力的だと感じているから、目が離せないのかしら?」
とても楽しげに片方の唇を上げながら彼女は笑う。
「ねえ」
「………」
固く口を閉ざしたまま、するりと耳から頭の奥へと入ってくる車椅子お姉さんの透き通った声に酔いしれる。
心を乱されるのは癪だ。意地でも一分間視線を合わせ続けよう。そう意識していたはずで、今もそうしているはずだ。なのに、そんな自分をどこか遠くから眺めているような感覚もある。意識と体全体がふわふわしている。
「目を合わせる以前に、今の私達の状態は少し距離が近すぎないかしら? っふふ、今なら壁越しにキス、できそうね」
「………」
つい唇に視線を動かしそうになったが、意地でも視線を合わせ続ける。
「私と目を合わせ続けるの、気持ちいいでしょ?」
「………」
「私は男女が視線を合わせるという行為には、愛撫のような快楽がつきまとうことを経験則的に知っているの」
「………」
「そう言えば、人は二秒以上目が合い続けると、“絶対に”恋に落ちるのよ。っふふ」
「………」
「ほら、あなたもドキドキしているのでしょ? 愛している者同士で見つめ合うと、どうしてもそうなっちゃうのよね。つまりどういうことだか分かるかしら?」
「………」
「好きよ。あなたのことが好き。だから、あなたがこのゲームに乗ってくれて嬉しい。本当はあなたと愛撫したかっただけなのに、警戒心を解いて近寄ってくれて嬉しいわ」
「………」
「でも残念。もうすぐこの時間も終わりね。だから最後に、壁越しでもいいから、手を繋がない? それならルールにも抵触しないし、それくらいいいでしょ?」
車椅子お姉さんが壁に手を付けたのを視界の隅で捉えると、自然とその場所に手を添えていた。
壁越しなので体温は伝わらない。それでも心の片隅に確かな嬉しさが満ちた。
「さて、そろそろ一分ね。このゲームはあなたの勝ち。お疲れ様」
「……おう」
気づくと大きく息を吐いていた。どうやら俺は途中から呼吸を止めてしまっていたらしい。
どうしてだろう。なんだかゲームに勝った気がしない。
今のは何だったんだろう。車椅子お姉さんは何がしたかったのだろう。どこまでが真実で、どこまでが嘘だったのだろう。様々な疑問はつきない。
「さて、実はね、こんなゲームの勝敗なんてどうでもよかったの」
「は?」
「っふふ。ローボールテクニック、言語的暗示、他にも色々な心理テクニックを織り交ぜてみたけれど、言ってみればこんなのはただの“恋の駆け引き”よ。どう? 少しはドキドキできたかしら?」
「うぅん、まあ、ちょびっりっとだけ。でも言っておきますけど――」
「言い訳は不要よ。あなたが私を見て、感じて、声を聞いてドキドキした。その事実さえあれば、今回の目的は成功よ。そういう事実が一つ一つ積み重なるごとに、あなたは私に引き返せないほどにのめり込んでいくの」
「………」
「そして気づけば、周りの大切な人達を捨て、最後には私だけを選ぶ。この未来は絶対に訪れるわ」
「はいはい。それもまた何かの心理テクニックか何かですか?」
「あら、あなたっていいように私の思い通りに動くから、底抜けにチョロいのかと思っていたけど、案外そこまでバカじゃないのね。これはね、“自己充足的予言”という脳の癖を悪用した心理テクニックよ。悪い女はこれを当たり前のように使うから、これからも気をつけなさい」
「事故住所的予言???」
「自己充足的予言よ」
そのなんちゃら予言というのは、「根拠がなかろうが、そうなると信じ込んで行動すると、結果として予言通りの現実が現実化する」という心理現象だそうだ。
「そうね。私のような女はこのテクニックを悪用するけれど、あなたはポジティブに使うといいわ。例えば『俺は誰からも好かれ、仕事もできるいい男だ』と毎回のように念じれば、そうなれる確率は確実に上がるわ」
「お、そりゃいいですね。やり得じゃん。明日からやろっと。まあといっても、ここでのことを覚えてられないんですけどね」
「さて、それはどうかしら。少なくともあなたの話を聞く限りでは、ここでの経験を覚えていなかろうが、私との経験があなたの行動や思考に少しの影響を与えていることは確かだと思っているけれど」
「マジ?」
そういえば、以前も似たような事を言っていたっけ。でも「確か」だとまで断言はしていなかったような。あれから何か断言できる新しい事実が判明したのだろうか。
「っふふ。さあどうかしら? あなたもたまには自分の頭で考えなさい」
「えー。考えるのは車椅子お姉さんの仕事じゃないですかー」
「ええそうね。でも、そうやって考えて出た結論をあなたにも伝えるかどうかはまた別の話よ」
「えー。考えるのめんどくさーい」
「そうねえ、なら、せめてあなたはこの世界における特殊なルールを、箇条書きでもいいからまとめておきなさい。それだけであなたにも見えてくるものがあるはずよ」
「うーん、たまにはそんなこともしてみますかね。俺も最近対主人公君対策に色々考えてますから、それにも役立つかもしれませんしね。ちょうど良い機会と思ってやることにします」
「あら? 対主人公対策? それは初耳ね。ちょうどいい機会だから、その話を起点に、今からあなたの情報を搾取する時間にしましょうか」
うむ、俺の情報の搾取が車椅子お姉さんの本来の目的だ。それは分かっているのだが……
「今日は哲学の話はないんですか?」
気づけばそう口に出していた。
俺の言葉に、車椅子お姉さんは少し驚いたような表情を見せた。
「あら、あなたは哲学なんて興味がないと思っていたけれど……」
「まあそうなんですけどね。でも、車椅子お姉さんと話す哲学は案外面白かったので、知らない内に期待しちゃってたみたいです」
「そう。なら少しだけその時間にしましょうか」
最近気づいたのだが、案外彼女はチョロいのかもしれない。もちろん騙そうなどと悪意を持って騙すことは俺には決してできないだろう。だが、好意全開でお願いすることは割と聞いてくれることが多い。
俺がそんな気づきを得たことは、本人には絶対に秘密だ。
「では、今日は哲学の王道、ソクラテスの話でもしましょう」
「あー、なんか聞いたことあるし、前世で習った覚えもあります。確かその時はクラスのお調子者の男が、ソクラテスごっこと称して『汝、チ◯コとは何か?』なんて女子に聞いて回ってセクハラしてましたね」
ソクラテスは確か「愛とは何か」「知っているとはどういう状態か」など様々な人に投げかけ、無知の知を悟らせる行為をした人だ。前世の高橋君のおかげでソクラテスのその記憶だけはするりと思い出せた。
「……なによそのクソエピソード。その後がどうなったのか気になるじゃない」
「別に普通ですよ。女子に『あなたのような男には、一生異性に対して使うことはないものね』って蔑むような目でカウンターを喰らって、しばらく塞ぎ込んでました。実際そう言われた高橋くんは、俺の知る限りでは一生独身人生を突き進んでましたね。はっ!? まさかこれもなんちゃら的予言!?」
それからしばらく話が寄り道し、俺の高校生時代のエピソードについての思い出で盛り上がった。
「ふふ、相変わらずあなたのクラスの話は面白いわね」
「あれ? 車椅子お姉さんに前世の俺の高校生時代の話なんてしたことありましたっけ?」
「あら、覚えてないの? 以前軽く話してくれてたわよ」
「そうでしたっけ――と、そろそろ時間みたいですね」
俺の体がどんどん透明になっている。
「あら、もうそんな時間なのね」
「車椅子お姉さん。今日も楽しかったですよ。次いつ会えるかは分かりませんが、また俺に哲学の話をして下さいね」
「ええ、気が向いたらね」
ひらひらと手を振るお姉さんを見ながら、俺という意識が体とともに透明になっていく。
それから、いつものように泰平はここでの記憶を完全に失い、何事もなかったかのようにいつもの日々を過ごしていった。
その後。
「なんとか誤魔化せたけれど、私としたことが失態を犯したわ……」
この空間に一人残された車椅子お姉さんは、小さく舌打ちしながらメガネを粗雑に外す。
それから、何事もなかったかのように車椅子からすくっと立ち上がったかと思えば、ドカドカと不機嫌そうに大股で歩いていったのだった。




