第二十七話 帰納法と演繹法
辺りを見渡すと、どこまでも見ても真っ白な世界が広がっている。
ここは――
そうか、また面会室へ来たのか。
「あら、こんにちは」
「こんちわっす。また会いましたね」
透明な壁の向こう側で、車椅子お姉さんが蠱惑的な笑みを浮かべながら、俺に手を振った。
車椅子に乗っているのに、足を組んでいる姿のせいか、どこか王座に座っているように見える。あと足を組んでいるせいで見えそうで見えないのがエロい。
「っふふ」
目が合うと、さらさらの黒髪ロングをかきあげながら、俺を誘うように笑った。身体のラインがやけに強調されているノースリーブのセーターや、細フチメガネの奥で細められた瞳のせいで、相変わらず俺を性的に誘っているようにしか見えない。
俺達を隔てる透明な壁がなければ、あっという間に俺なんてちっぽけな存在は彼女の魔性に魅入られてしまうだろう。それほど雄の本能に訴えかける力が強い。
ただ逆に言ってしまえば、この壁がある限り、俺は彼女と友達の関係でいられる。車椅子お姉さんはそうは思っていないだろうが、俺自身としてはこのまま友達でいたい。
というより、友達という関係が一番いい。言語化はできないのだが、そんな気がするのだ。
「っふふふ。『あー、車椅子お姉さんの肉体にむしゃぶりつきてぇ。こんなの好きにならない方がおかしいだろ。好き好き好きぃ。だから俺は全てを捨てて彼女だけを愛す――』」
「ねえ、俺の脳内の声を嘘で代弁するやつ、やめてくれません? 頭が混乱するんですよ」
本当に俺が思っているように錯覚して、背筋がゾワッとする。
「あら? 心情代弁って、マゾっ気のある男には効果抜群なのだけど……嫌だったかしら?」
「……なるほど。そういうテクニックがあるんですね。なら俺もミソギ様としてシチュエーションボイスを収録する時、そのテクニックを使わせてもらいます。こっちの世界の女性、ソフトなマゾ女性が多いですから」
まあ、ここでの記憶は覚えておけないんだが、もし記憶を持って帰れた時に、一応ね。
「っふふ。咄嗟に話を逸らしたわね。ということは、そんなに嫌じゃないってことね」
嫌じゃなくて、ちょっと気持ちいいのが怖いって言ってるんだよ。あんまり何でもかんでも見透かすなよ。
「っふふ。私は悪い女なのだから、あなたは絶対に私のことを好きになってはダメよ。絶対にダメ。分かってる? 絶対ダメよ? 絶対、ダメ」
その言葉とは裏腹に、とても楽しげな笑みを浮かべながら、やけに念押ししてくる。
「……そのダメって言うのも、なんかのテクニックな気がしてきました」
「っふふ。話は変わるけれど、カリギュラ効果って知ってるかしら?」
「いえ。なんですかそれは?」
「“ダメ”と禁止されると、かえってそれをしたくなる心理現象のことよ。っふふ。だから、絶対に私だけを好きになってはダメよ。絶対だーめ」
「……おい」
本当にこの人は。そんなんだから友達が一人もいないんだぞ(決めつけ)。
「さて、戯れはここまでにしましょうか。そろそろ本題に入りましょう」
「はいはい」
このレベルで戯れって、相変わらず悪趣味な人だ。
「さて、話を聞く前に、あなたに問いたいことがあるの。あなたは十七世紀の哲学者達が体系化した、帰納法、演繹法という論理的思考方法は知っているかしら?」
「うーん、俺も日本の高校時代に哲学もしっかり習ってたんですけど、当時の勉強した内容はもはや全く思い出せないですねえ。なんか聞いたことがあるような……? ってくらいの認識です」
「ふぅん。帰納法も演繹法もビジネスで使われる言葉ではあるから、あなたの場合そこで聞いたのかもね」
「で、その帰納法、演繹法がなんなんですか?」
「本題を話す前に、その二つについて説明するわね」
その後、車椅子お姉さんによる授業が始まった。
帰納法とは、様々なデータを集めて、そこにある共通点を抽出し、一つの結論を導き出すこと。いわば経験から法則を見つける考え方だ。
演繹法とは、一般的に正しいとされる大きなルールや事実を元に、小さな個別の事実を当てはめて、一つの結論を出すこと。いわば三段論法だ。
彼女の説明は分かりやすく、頭に入ってきやすい。頭の良い人というのは、教えるのも上手いのだろうか。
「えっと、一旦俺なりに咀嚼して、分かりやすく例えてみますね」
「ええ」
……ううんと、こんな感じか?
「帰納法は、
【女性の性欲を煽るミソギ様が高校生の間で大人気である】
【あのピュアな白ギャル先輩ですらも俺と手をつなぐと耳が赤くなる】
【高校生の女性は全員エロサイトで“あなたは18歳以上ですか?”という問いに“Yes”と答えてしまうというデータがある】
つまりJKは全員エロい!!」
俺は見事な帰納法的論理思考を発表したのだが、何故か車椅子お姉さんに大きなため息を吐いている。
「帰納法としては赤点もいいところね」
「あるぇ?」
車椅子先輩は俺のこの完璧な帰納法の証明を「ただの暴論」だと投げ捨てた。俺が咄嗟に作った帰納法は穴だらけだったようだ。
「まあいいわ。できるできないはともかく、言葉の意味としては大まかには分かったみたいね。そのついでに演繹法もやってみなさい」
続けて俺は演繹法を披露する。
「演繹法は、
【男に触れられて興奮する生き物は、全てエロい】
【女は男に触れられると興奮する】
つまり、女性は全員エロい!」
俺の完璧な演繹法の流れを聞いた車椅子先輩は、今度は少しばかり悩みを見せた。
「そうね。さっきよりはマシね。演繹法の形式としては合っている。合っているのだけど……」
「なら問題ないじゃん」
さすが俺、これでも成績はいいんだぜ?
「満足そうにしているところ悪いけれど、全然ダメよ。あなたの演繹法は見事に“演繹法の穴”に引っかかっていて、結論がガバガバなの」
「演繹法の穴?」
「これが演繹法のデメリットなの。あなたの挙げた大前提と小前提。これが間違っている時、結論が間違ったものとなるのよ」
「いやいや、間違ってなんか――」
「本当に? 大前提も小前提も絶対に合っていると、完璧に証明できる?」
「……そういう細かいことは言いっこなしですやん」
見事に言いくるめられたせいで、何故か関西弁が出てしまった。
「まっ、そういうことね。でも、形式としては合っていたから、花丸をあげましょう」
車椅子先輩は俺達を隔てる透明な壁に指を当て、花丸を描いた。なんだか少し嬉しい。
「で、なんで俺にこんな説明をしたんですか?」
「そうね。ここからが本題よ。現状だと私達にとって演繹法は当てにならないって話をしたかったの」
「??? もっとちゃんとした日本語で説明してください。意味が分かりません」
全部聞き取れたのに、何も分かんなかった。
そんな俺を見て、車椅子お姉さんは丁寧に説明してくれる気になったようだ。少し前かがみになって俺に優しく語りかける。
「演繹法というのはね、誰もが知っていたり納得できるような一般原則やルールが前提として必要なの」
「ほんほん」
「でもね。あなたや私の世界では妄想の世界だからか、そういう一般原則やルールが当てにならないの」
「……あー、なるほど。言いたいことがちょっとだけ分かってきました」
俺はこの世界が主人公君の妄想世界であるとある程度確信しているが、それが絶対的に正しいと言えるのかは不明だ。他にもこの世界の女性は全員が翼君のために努力していることなど、俺は絶対的なルールだと思っているが、案外ぶりっ子先輩や元気っ子後輩のように、反例もある。
大前提や小前提があやふやで成立しないこともあるので、演繹法が当てにならないということだろう。
「そう。だから私は帰納法により、大前提として使える法則を見つけようとしているの。そのために、とにかく大量の情報が必要ってわけ」
「なるほど。だから俺から情報を搾取するわけですね」
「そういうこと。だから引き続き、私のために色んな話をしてね」
「まあ、それくらいなら……」
と、俺が答えたところで。
「ありゃりゃ、今日はもう時間みたいです」
気づけば俺の身体がどんどん透明になってきている。こうなるともうタイムリミットだ。俺はこの夢の世界から消え、ここでの記憶をなくし、何事もなかったかのように日常を送ることとなる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! まだ今日は何にも話を聞いてない! ただの雑談しかしてないじゃない!」
「んなこと言われても、どうしようもないじゃないですか」
「もう! ちょっとくらい透明になるのを我慢しなさい!」
「いいじゃないですか。俺は案外話しているだけでも楽しかったですよ」
俺は自然といたずらっぽく笑っていた。
「それは私も――っと、そんなことはどうでもいいのよ! 私はただ――」
彼女の言葉を聞き終えることはできず、俺の身体は完全に真っ白な空間に溶けていった。
案外今日は楽しかったから、次の機会があれば、また車椅子お姉さんから哲学の話でも聞き出したいな。
そんなことを思いながら、意識が完全に真っ白になった。それから、いつものように泰平はここでの記憶を完全に忘れ、何事もなかったかのようにいつもの日々を過ごしていった。
その後。
「私としたことが、ペース配分を間違えるなんて……くそっ、あいつをここに呼ぶのには、こっちにも少しリスクがあるんだからね」
この空間に一人残された車椅子お姉さんは、小さく舌打ちしながらメガネを粗雑に外す。
それから、何事もなかったかのように車椅子からすくっと立ち上がったかと思えば、ドカドカと不機嫌そうに大股で歩いていったのだった。




