第二十四話 映画
何故か鼻から血を流し、目を充血させたカフェ店員のお姉さんから、熱烈に「絶対にまた来て下さい」と迫られたのち、カフェから出て映画館へ向かう。
たどり着いた映画館でチケットを取り、ポップコーン片手に指定の席へと座った。バターの香りがなかなかの破壊力だ。
「ふふふっ、泰平、カップルシートじゃなくてよかったの?」
「まあ、流石にそこまですると付き合ってるって勘違いされるかもだし、仕方なく?」
本当の理由は違う。俺が思った以上に余裕がないからだ。
正直今日の普通っ子が可愛すぎて、自分を律するのが辛い。というか、めっちゃキスしたい。絶対ダメなのは分かっているのに、ついあの桜色の唇に目がいってしまう。
「ふふふっ」
そんなことを思っていると、普通っ子が見せつけるように唇を指でさっとなぞった。
「あぅ、勝てない」
「勝てないって何よ、もう。こういうのは勝ち負けじゃないでしょ?」
「だってさあ、なんか普通っ子、ずっと余裕なんだもん! 俺ばっかドギマギしてズルい! 手加減して!」
この世界は男女比や主人公君の処女へのこだわりのせいで、女子はみんな初々しい。高校を卒業するまでの間は安易に彼氏なんて作らないし、デートだってしたこともない。
それなのに、この魔性さといったらもうね。
俺は裏垢をやっていることからも、女子が内心では異性に興味津々だということにかなり理解がある。俺の作品へ届くおぞましいほどの熱量を持つレビューなどを見て、「ほんとに女性はみんな飢えてるんだなあ」なんて実感することも多い。
性欲に振り回される女子って微笑ましいなあ、なんて少しだけ上から目線で思っていたのに、今の俺はこの有様だ。
普通っ子も他の女性と同じく、性欲だって前世の高校生と同じように猿みたいにあるはず。それなのに、なんでここまで天真爛漫でいられるんだろうか。強すぎない?
「えっ、実はユウカは男を取っ替え引っ替えのビッチで、男心を知り尽くしている百戦錬磨とかだったりする?」
「そんなわけないでしょ? ていうか、小中学と同級生だったんだから、そうじゃないことも知ってるでしょ?」
いやまあそうなんだけど。
「じゃあ、男を狂わすための何か特殊な訓練を受けた他国のスパイとか……」
「バカだねえ。私が余裕に見えるのは、泰平に珍しく余裕がないからってだけだよ」
「ほんとにぃ?」
「そうだよ。私はただ、今の幸せを全力で楽しんでいるだけだよ。ほら、泰平もいつも通り、もっと楽しも?」
いつも通りか……
「そうだな。何事もまず自分が楽しまなきゃダメだもんな。よし! それなら俺にだってできる気がしてきた!」
まだまだひよっこの俺だからこそ、何度でも心の中で呟いて、意識しないと。
無でもなく、有でもなく、全てでもなく、中道でもない。ただ自然に。
舞い上がっている自分もそのまま受け入れて、嫌われたくないって弱気も、かっこつけたいっていうプライドも、身体に走る緊張感も、もっと好かれたいって淡い気持ちも、全て受け入れよう。
性欲を抑えられるかとか、未来のことを考えるのはやめだ。とにかく今だ。このかけがえのない今を全力で楽しまないともったいない。
「……覚悟が決まったからか、なんかお腹空いてきちゃった。ねえユウカ、そっちのキャラメル味のポップコーン何個か頂戴。俺の塩味もあげるから」
「うん、そうしよう――と、そろそろ始まるみたい」
映画館の照明が落ち、じわじわと暗闇に包まれていく。しばらくすると、スクリーンの光と、その光に照らされた普通っ子の横顔しか見えなくなった。
……うん、こんなに暗いのなら、もういいかな。露骨にいちゃつくのがダメでも、いつも通りこっそりならいいよな。
ってことで、俺は普通っ子の手を掴んで、ふわりと握った。
「んっ」
普通っ子から小さな吐息が漏れる。
特に抵抗されなかったので、手の甲をさすったり、手の指を絡ませたりして、小さな普通っ子の愛おしい手を感じる。
普通っ子の手がじんわりと熱を帯びていくのが、手のひら越しに伝わってきた。
「むぅ……」
頬を赤らめながら唇をとんがらせた普通っ子は、お返しに俺と同じようにスキンシップを返してきた。
手を触られているだけなのに、全身が撫でられたかのように甘い快感がほとばしる。
俺達は次第に一つの手になってしまうくらい、映画が終わるまでずっと手を繋ぎ、触れ合い続けた――
「………」
「………」
映画を見終わった帰り道、不思議な沈黙が流れていた。
「い、いやあ、楽しかったなあ」
「ねえ、泰平。それは、内容が?」
「……ははっ」
内容とか一割くらいしか頭に入ってこなかった、なんて言えない。
特に、途中からねっちょりとした湿度の高いスキンシップになったものだからさ。それが楽しくて楽しくて……
うん、やりすぎました。反省しています。
「ほんとに泰平は……しょうがない人だなあ」
「さーせん。調子に乗りました」
「いや、強く抵抗しなかった私も悪いし、お互い様ってことにしておこう」
「あざぁーす。じゃあ、ユウカも俺と同類ということで……あっ、さーせん」
同類という言葉を使った途端、冷たい目で見られた。お互い様ではあるが、決して同類ではないらしい。
「ほんとにもう……言っとくけど、私はちゃんと内容も頭に入っているからね」
「ほんと? 流石ユウカ、なんでも知ってるな」
「ふふふっ、そう、私はなんでも知ってるの。映画の内容はもちろん、泰平の気持ちも、カエデ先輩が柔道部に入った理由も、なんだってね」
「マジで? おせーておせーて! 特に白ギャル先輩の方をけー、だぶりゅー、えす、けー」
「ふふふっ、どうしようかなあ。知っているっていっても、私が察しただけだからなあ。勝手に話すのも悪いし……」
「ほら、こっそり。こっそりね。こっそり楽しむのが俺達流じゃん。だから、ね?」
「うーん、どうしよっかなあ~」
そんな風に普通っ子の家に向かって帰っていると、ふと頭の中になんともいえない危機感が走った。とっさに普通っ子の方を見ると、俺と同じように感じたようで、少し焦っている。
「ユウカ、待った。多分近くに翼君がいる」
この世界に住む人達は、主人公君に関する第六感が働くことがある。近くにいるのがなんとなく分かるのだ。
おそらくだが、俺達と同じようにデートでもしているのだろう。
「泰平、どうしよう?」
できることなら主人公君にはバレたくない。それになにより、普通っ子の不安そうな顔を今すぐにでも晴らしてあげたい。
「とりあえず、こっちの路地に避難しよっか」
普通っ子の手を引いて、路地の奥の暗がりに走り、壁ドンの要領で普通っ子を俺の背中で隠す。暗くてよく見えなかったが、ゴミ箱のようなものに足をぶつけたからか、少し砂埃が舞った。
ドキドキ、ドキドキ。
俺の胸の中に普通っ子がいるという状況と、このシチュエーションが合わさり、心臓がうるさい。あんまり騒がしいので、主人公君に聞こえちゃうのではないかと錯覚しそうだ。
しかも、普通っ子は俺の目を上目遣いで覗き込んでくる。大きくて潤んだ瞳が俺を見上げる。心臓がヤバい、可愛くてヤバい、血を吐きそう。なるほどこれが吊り橋効果か、恐ろしいやつだぜ。あれ俺は何を言ってるんだ。自分で自分がわけ分からない。
そうやってしばらくの間混乱しながらも、必死に息を殺す。すると、主人公君がこちらには気づかずに歩いていったのが、第六感で分かった。
「ふぅ……ヒヤヒヤしたぜ」
「よく考えたら、別にもう玉砕した後だから、バレても良いんだけどね」
確かにそうではあるのだが……何ていうのだろう。
今は俺達二人の関係を、少しも邪魔されたくなかった。
足がガクガク震えるほど緊張していたのは、こんなに可愛い普通っ子を見るとさらわれてしまうのではないか、なんて、バカな錯覚を起こしていたからだ。
ただまあ、そんな情けない考えを伝えられる訳もなく、俺は本命ではない方の理由を並べることしかできなかった。
「いやまあ、一応ね。主人公君の断り文句は、ただの現状維持をしたいってだけだからさ。もしかしたら、もうユウカの気持ちが翼君に向いていないって分かっちゃったら、傷ついちゃうかもしれないだろ?」
「泰平は優しいね。私はそこまで気にしなくても良い気がするけどね」
もしかしたら意外と傷つかないかもしれないが、回避できるリスクは回避しておきたいんだよ。
しかも、この妄想世界ですら主人公君が幸せになれなかったら、世界が崩壊してしまうかもしれないじゃん。いや、そんなこと分かんないけどね。だから、一応。
「……別に私は世界なんて崩壊しても良いと思うけどね」
「……うえ?」
俺、声に出してたっけ?
「いえ、声に出してないよ」
「だよね」
どういうこと? また勘の良さが発揮された?
「私はね」
普通っ子が俺の上半身に身体を預けてきたので、倒れてしまわないように受け止める。
その状態で普通っ子は続けた。
「世界が崩壊するよりも、泰平が消えてしまうほうが悲しいの。泰平がこの世界にさえいれば、世界なんてどうでもいい」
消え入るような声でそう告げた普通っ子は、真っ直ぐに俺を抱きしめた。




