第百話 夫婦喧嘩
「ういーす。愛。会いに来たよ」
「!? ど、どうして!? それに、この真っ白な世界って……」
「うん、愛の言う無意識の世界ってやつ。ただ、いつもの俺の無意識の世界じゃなく、愛の無意識の世界だけどな。妖精やら、謎の大人達やら、いろんな人の力を借りて、会いに来ちゃった」
「ッ! やめ、すぐに帰りなさい!」
「おー。流石愛、察しが良いなあ。でも、愛だけ俺の情報を一方的に見て、俺には何も伝えないって、不公平だろ?」
この無意識の世界では、様々な情報が空にたゆたっている。そのせいか、愛が経験した様々な情報や感情が、そのままの状態で、乱雑に俺の頭に入ってくる。
今まで車椅子お姉さんは、情報搾取と銘打って俺に話させ、同時にたゆたっている情報も入手していたってことだ。
「見るな! 私の感情を見るな! お願い、見ないで!」
愛が俺達を隔てる透明な壁をガンガンと叩く。だが、この壁は世界を隔離する壁だ。それでいて、この世界を守る最強の補強フレームのようなものでもある。そうやすやすと壊れたりなんてしない。
そんな裏事情を、主人公君の母親にメッセージ伝いで教えてもらっていたりする。
愛がやらかそうとしていることが、この世界にとって結構な一大事らしい。なので、特別にこの世界の隠された仕様などを、少しだけ教えてくれたんだ。
「ほんほんほん。普段から何にも考えていない俺と違って、愛は同時並行で色々考えているんだろうなあ。情報量が圧倒的に多いわ。ちょっと整理してみようか」
「やめなさい!! お願いだから、出ていってよ!!」
「やだね。俺達が同じ土俵に立つには、俺もある程度愛のことを知らなきゃいけないもん。ほんほんほん……なーんだ。愛の動機は、すっごく単純なものだったんだ。このクソ鈍感野郎め」
「ぐぅう……!」
「そうか、あれだけ自分は変わらないと言ってたのに、少し変わったんだ。それも、俺のおかげで。愛、ありがとな」
「〜~ッ!」
愛の慟哭を聞き流しながら、俺は愛が地球でやってきたことを、頭の中で時系列順に整理してみた。
地球での俺は、ちょっとした事故がきっかけでこの世界に来てからも、何事もなく「健太郎」として生きていたようだ。
いつも通り朝ごはんを食べ、いつも通り仕事し、いつも通り会話し、いつも通り笑い、いつも通りの日常を送る。あまりにも自然に。あまりにもいつも通りに。
俺が違う世界に行こうが、何も変わらなかったのだ。
ただ――愛だけが、すぐに俺の違和感に気づいた。
『あなたの心はどこへ行ったの?』
健太郎の身体が「今までの経験をなぞるように動き続けているだけ」という真実に、愛だけがたどり着いたのだ。
それこそ以前、宇宙人美少女が「オートモード」となったときのような、そんな状態に健太郎はなっていたのだろう。
それから、愛の長い長い調査が始まった。
愛は思いつく限り、あらゆる手段を試した。俺が変わった日を逆算し、きっかけの事故を詳しく調べ上げ、全ての関係者に聞き取り調査。興信所に健太郎と一緒に巻き込まれた一人の弱者男性、二人の加害者の調査まで依頼し、過去まで全て洗い出した。
同時に、健太郎の体を隅から隅まで医学的に精密検査したり、精神分析を試みたり、自分でも全身を触診したりと、やれることは全て行った。
そこまでしても、返って来る結果は異常なし。俺のオートモードは宇宙人美少女のとは違い、完全なオートモードだった。
そんなわけないといくら心で叫ぼうが、どうしようもならない。
『いや、そもそも周りの人間は健太郎の変化にすら気づかない凡愚ばかり。人の手に頼るのが間違いだったのだ。ならばもう、自分だけの力で徹底的に調べ上げるしかない』
今までの情報や、今の健太郎の情報を元に、愛は独自の感覚だけを頼りに、調べ上げる。
その結果――
『そうか……健太郎、お前はあの時、死んだのか』
様々な仮説を元に、いつしか愛は、このように結論付けた。
その日、人生で初めて、愛は静かに泣いた。
健太郎が心をなくして、ちょうど一年が経っていた。
『舐めるな。健太郎を動かしている何者かだけは、絶対に特定して見せる』
その日から、愛の悪あがきが始まった。
愛はなにかに追いすがるように、この未知の現象を探り始めた。
神様など信じていないのに、神頼みなんてこともした。アルコールが得意ではないのに、やけ酒を初めて経験した。
それほど、追い詰められていた。
ある台風の日の夜のこと。
『健太郎。こっちを向いてくれ。もう一度だけでいい。あの優しい目で私を見てくれ』
健太郎が心をなくして、二年が経っていた。その日、初めて愛は弱音をこぼした。
お気に入りの女を相にしていても、どうも心が弾まない。満たされるものはとにかく空虚で、満たされない。
愛はすがるように健太郎の目を覗いた。
心をなくした健太郎の目は、一見するといつも通りに見える。だが、やはり何かが物足りなかった。
その時だった。
これまでバラバラだった感情が、一つの答えへと収束していく。
思わず手に持っていたコップを床に落とし、水をぶちまけてしまった。
それでも掃除する気にならず、ただ立ち尽くしたまま、小さく、小さく呟いた。
『ああ、そうか。男なんて好きにならないと思っていたが……私は健太郎のことが好きだったのか』
心に小さな虹がかかったようだった。
その日、自棄になったように心をなくした健太郎を襲い、初めて一方的に愛のある肉体関係を結んだ。一晩中、健太郎の残り香を心ゆくまで感じ取った。
どれだけ虚しくても、ボロボロ涙が出て止まらなくても、やめることはできなかった。
気づけば愛は、誰もいない面会室にいた。
そこで泰平の無意識に触れ、理解する。
『……今の健太郎はここで泰平として暮らしているのか』
ここは泰平の無意識の世界だと、すぐに理解した。私が過去に交わした約束を守り、私を信じ、ひたすらに全力で淡々と生きていることを、理解してしまった。
ここで生きていることは、本当に嬉しかった。
だが、同時にムカついた。理由は分からないが、とにかくムカついた。
『私との関係が“友情”、だと……』
頭の芯がどんどん冷えていく。
そんなこと、絶対に認めてやるわけにはいかない。
冷静になり、ふと気づく。
何故自分はここに来られたのか。
さっきまで私は確かに、がむしゃらに体を交わらせていたはずだ。そのまま気絶し、目覚めるとここにいた。ということは……
様々な仮説が激流のように頭に浮かんでは、消えていく。
その浮かび上がった仮説の中の一つを、天才である愛は即座に掴み取った。
『愛の力……? 健太郎の心が今暮らしている世界は、愛の持つエネルギーがものすごく強いのではないか……?』
彼女がこの世界の真実に近づいていたその時、健太郎がここに来る気配がした。
彼女は咄嗟に姿を変えた。ここは現実のような世界ではない。ならば、イメージでどうとでも姿を変えられる。
全ては自身のプライドを守るために。
『愛だ、愛の力さえあれば、世界だって超えられる。ならば、ここで泰平が私に恋するようであれば、地球に戻ってこられるのではないか』
健太郎が私に恋しやすいように、とにかく性癖に合う姿に変えた。同情を誘い、話を聞き出しやすくするために、足が不自由な設定にした。
それから――
「はじめまして。少しの間、私とお話しましょう?」
………………
…………
……
「お前さあ。めっちゃ俺のこと好きじゃん」
「うるさい! ちょっとだけクソデカ恋愛感情が遅れてやってきただけだ!」
「にしても、俺がいなくなってから二年後に初めて恋心を自覚するって……はぁ」
鈍感というか、恋愛感情に興味がなさすぎるというか……
「だから内緒にしたかったのだ!
ここでの車椅子お姉さんとしての立ち振る舞いで、お前を惚れさせようとしても、全然うまくいかないし!
自身の恋心に振り回されて、舞い上がって、全然予定通りにいかないし!
それなのに、お前は友情だとか抜かすし!
殺したくなるほどムカつくじゃない!」
「ほぉん。お前ってもっとすごいもんだと思ってたけど、そういう部分もあるんだなあ。いや、実際すごくて、天才で、かっこいいことは知ってるんだけどさ。
いいね。お前のそういう弱みみたいな部分を知って、前よりもっと好きになったわ」
「ふんっ、せいぜい今だけでもいい気になってなさい。
地球でのお前だって、何度も単純接触を重ねていただけで、私に体を許してしまうような男なんだからね。
私がお前を都合のいいように使おうとしているってことを、分かった上で欲に流されたくせに」
「おまっ、それを持ち出すのはズルだろ! あれはお前の攻め方が妙にエロかったせいだ! 童貞青年にはあれは刺激が強すぎたんだよ!」
「しかも、一度私の体を経験してからは、私以外でイけなくなったくせに」
「〜ッ! 隠してたのに、なんでそんなこと知ってるんだよ!」
「侮るな。私に隠し事なんてできるわけないだろう?」
「うっせー、バーカ! バカバカバカ! 俺と面会室で会うために、自分のプライドをガリガリ削って、一晩中過激なセ◯クスして会いにきてたくせに!
俺の気持ちが向いていないことが分かった上で、それでもボロボロ泣きながら、心をなくした前世の俺に愛を囁いていたくせに!
そこまでして面会室に来るバカだったくせに!」
「うるさい! あなたのほうがバカよ!
というか、あれだけ私のこと好きだったくせに、異性としては好きになってないって、どうかしてるんじゃないの?
たまたま偽装結婚した時点で恋慕の気持ちがなかっただけで、どうせ時間の問題だったでしょう! 絶対そうよ!」
「そんなイフの話されても困りますー。
それに、俺のこと好き過ぎて、性的快感を増幅させるグレーゾーンの薬物まで使って、三日三晩獣のようにセ◯クスしたくせに!
あまりの体への負荷で、俺の体を操っていた精霊の一部が思わず外に出てきて、それを食べちゃうような暴走をしたくせに!」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! あなたこそ――」
心の底に溜まった澱を全て出し切るまで、俺達はこうして夫婦喧嘩を続けたのだった。
◆
「ふぅー。さてと、戯れはここまでにしようか」
「……健太郎のくせに、私の真似をして。ムカつく」
「まあ、聞けよ。こっからは真面目な話だ」
俺は一呼吸置いて、こう切り出した。
「愛、こっちの世界に外部生としてこないか?」




