第弐願 帰郷
母から電話があった翌日、俺は新幹線の窓際に座っていた。
通勤時間帯を少し外したのだが、思ったより埋まっている。
車内には、仕事へ向かう会社員や旅行客がそれなりにいた。
誰もが自分達の目的地へ向かっている。
そんな中、俺だけが、どこへ向かっているのか分からない気分になる。
だが、目的地は分かっている。
生まれ故郷である、加美鳴村。
─願いが叶う村。
─失踪。
─行方不明。
─自殺。
検索欄に並んだ言葉が頭から離れない。
俺はおもむろにスマホを開き、
もう一度「加美鳴村」と検索する。
だが、出てきたのは観光案内のようなページばかりだった。
『歴史と祈りの里 加美鳴村』
『願いが叶う!?和歌山県にある加美鳴村がすごい!』
『移住を考えている人必見!第二の人生は加美鳴村で…』
昨日見たはずの「失踪」「自殺」といった候補は出てこない。
「……見間違え、か…」
昨日の自分が疲れていただけかもしれない。
そう思ってスマホを閉じる。
新幹線を降りた後も道のりは長かった。
在来線を乗り継ぎ、更にローカル線へと乗り換える。
車両は二両編成で、都会では見なくなった単線の線路。
見慣れない駅名が流れていくのをぼんやり眺めているうちに、
窓の外には田んぼが広がり、やがて山が近づいてくる。
列車は村に一番近い地方駅へと滑り込んだ。
改札を抜けて駅の外へ出る。
都会より少し冷たい空気が頬を撫でる。
その空気の中に、土と草の匂いが混じっている。
辺りを見渡すと、そこには母が待っていた。
久しぶりに見る母の背中は、記憶より少し小さく見えた。
母は俺に気づくと、こちらへと歩み寄ってきた。
「おかえり。よう来たな」
「うん、来たで」
数年ぶり親子の再会にしては、淡々としていた。
だが三十も手前になると、こんなものかもしれない。
母は俺の荷物をまじまじ見つめる。
「なんや、荷物それだけか?」
「葬式だけやしな」
俺の言葉に母は何か言いたげだったが、飲み込んだ様子だった。
そして駅前のロータリーに停めてあった軽自動車に乗る。
母が運転席で、俺が助手席。
車が動き出し、しばらくは他愛もない話をした。
仕事のこと。
体調のこと。
どれも当たり障りのない会話だった。
窓の外には見慣れない景色が流れていく。
生まれ故郷のはずなのに、不思議と初めて来た土地みたいに感じる。
「改めて見ると、ホンマ田舎やな」
思わずそう呟く。
本格的な山道に入ってゆき、思わず言葉が漏れる。
「都会より落ち着くやろ?」
「ようこんなとこ住んでたな」
「子供ん時はそんな事言わんかったで」
「そうなん、よう覚えてへんけど」
そう言うと、母はしばらく何も言わなかった。
カーブに合わせてハンドルを切る。
その横顔は見慣れたはずなのに、少しだけ知らない人のように見えた。
「……ほんまに、覚えてへんのやな」
「またそれかい。何やねん」
「別に」
「別に、ばっかりやな」
母は答えなかった。
車内に沈黙が流れる。
ラジオから流れる天気予報だけが、場違いに明るく聞こえた。
しばらく山道を走っていると、道の脇に古びた看板が見えた。
『ようこそ 願いの里 加美鳴村へ』
その下には、小さくこう書かれていた。
『願いが叶う神社 加美鳴神社』
「願いが叶う、ねぇ…」
俺が鼻で笑うと、母は前を見たまま言った。
「笑うもんちゃうで」
その声が妙に冷たく聞こえた。
「…その神社って、昔からあるん?」
「かなり昔からあるよ、由緒正しい神社や」
「ふーん…。その神社、俺行ったことあるん?」
母はすぐには答えなかった。
その時だった。
木々の間から、赤い鳥居が一瞬だけ見えた。
母は速度を少し上げた。
「見んでええ」
「は?」
「ええから、見んでええ」
意味が分からなかった。
だがその言い方には、圧があったのは確かだった。
やがて道が開けてきた。
目の前のには、田舎ではあるが整備された道路が続いている。
道路の先には古い家もちらほらある。
だが、どれもちゃんと手入れされているように見える。
道端には花が植えられ、川の水は澄んでいて、
遠くでうっすらと子供のはしゃぐ声すら聞こえる。
もっと陰気で、人の気配のない廃村みたいな場所を勝手に想像していた。
加美鳴村は、俺が想像していたような寂れた村ではなかった。
「……普通やん」
思わず声が漏れた。
母は少しだけ笑った。
「何を期待してたん」
「いや、別に」
村の中心部を走っていると、何人かの老人がこちらを見ている事に気づく。
車のスピードを落とし、母が窓越しに軽く会釈する。
そのうちの一人が、車の中の俺に気づいた。
その顔から笑みが消える。
ほんの一瞬だけだった。
だが次の瞬間には笑顔に戻り、母へ会釈した。
俺はバックミラーの向こうへ目をやった。
既に老人達は小さくなっている。
そして何気ないふりをして母に尋ねる。
「今の人ら、俺のこと知ってるん?」
「そら知ってるやろ」
「十五年も帰ってへんのに?」
「まあ、小さい村やからな」
母はそれだけ言った。
だが、その言葉は説明になっていなかった。
窓の外を流れる景色を眺めながら、俺はもう一度さっきの老人の顔を思い出す。
あれは、本当に懐かしい人間を見る時の顔だったのだろうか。
どうしても、俺にはそうは思えなかった。
車は村の奥へ進んでいく。
祖父の家は村の少し奥にあった。
古い日本家屋。
だが荒れてはいない。
庭は綺麗に掃かれ、家の脇にある小さな畑も手入れされていた。
季節の野菜が並び、支柱の立った畝には新しい土が見える。
つい最近まで誰かが世話をしていたようだった。
「誰か手入れしてたん?じいちゃん一人やったんやろ」
母は畑へ目を向けた。
「亡くなる前の日まで、畑に出とったらしいで」
「…そうなん」
「農家やからな」
そこで少しだけ言葉が途切れる。
「それに一人でも、ひとりぼっちとは限らんやろ」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
車を降りると、玄関先に一人の女性がいた。
黒い喪服に身を包んだその姿は、村の景色から切り取られたみたいだった。
長い髪を後ろで一つに結んでいる。
すっと通った鼻筋。
涼しげな目元。
派手さはないが、思わず目を引くような美人だった。
思わず見惚れかけて、すぐにそんな自分に戸惑う。
そして女は俺を見て、目を見開く。
「……恒ちゃん?」
その呼び方に、胸の奥が妙にざわついた。
「……え?」
女はしばらく俺の顔を見つめていた。
まるで本当に本人なのか確かめるみたいに。
そして、ふっと笑う。
「うそやん」
少しだけ目尻が下がった。
「ほんまに帰ってきたんや」
懐かしそうな笑顔だった。
まるで、ずっと待っていた人が帰ってきたように。
俺は母を見る。
「…どちらさま?」
母が呆れたようにため息をつく。
「未咲ちゃんや。仁坂 未咲ちゃん」
「仁坂……未咲……」
名前を口の中で転がしてみる。
だが何も引っ掛からない。
未咲は苦笑した。
「ひっどいなぁ、昔、あんなに遊んでたのに~」
「……ごめん。あんまり覚えてへんわ」
その瞬間だった。
未咲の笑顔が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。
母が荷物を持ちながら言う。
「未咲ちゃん、色々手伝ってくれてるんよ」
「うん。おじいちゃんには昔からようしてもろてたから」
未咲はそう言って、はにかんだ笑顔を見せた。
「なぁ、恒ちゃん」
「ん?」
「ほんまに覚えてへんの?」
また、これだ。
母も同じことを言っている。
「何やねん、それ」
思わず苦笑する。
「さっきから皆して、覚えてへんか?覚えてへんか?って」
未咲は少しだけ困ったように笑った。
「いや……」
言いかけて、言葉を探すように視線を落とす。
「普通、覚えてるかなって思って…」
「何を?」
そう聞くと、未咲は伏し目がちに俺を見る。
何か言いたげだった。
けれど結局、小さく首を振る。
「……そっか」
その声は、消え入るような声で、どこか寂しそうだった。
「中、入ろか」
そう言って玄関へ向き直る。
「おじいちゃんも待ってはるし」
俺はその背中を見送った。
なぜだろう。
未咲の「そっか」だけが、妙にしこりに残った。
家の中は思っていたより賑やかだった。
親戚らしい人達が行き来し、台所では数人の女性が忙しそうに動いている。
見覚えのない顔ばかりだった。
それでも皆、俺を見ると同じような顔をした。
懐かしそうな。
驚いたような。
そして、何かを確かめるような。
「久しぶりやのぉ」
「大きなったなぁ」
「よう帰ってきたな」
そんな言葉を掛けられるが、その人達が誰なのか分からなかった。
軽く挨拶をしながら家の奥へ進む。
廊下の先には仏間があった。
祖父の遺体は、そこで静かに横たわっていた。
額には白い天冠。
部屋中に香る白檀の匂い。
枕元には茶碗に盛られた白米と一本の箸。
十五年ぶりに見る祖父は、人の形だけを残した何かのようだった。
遺体の横に座り、目を閉じて手を合わせる。
そうして何か思い出すかもしれないと思ったが、何も浮かんではこなかった。
十五年という時間が長すぎたのか。
祖父の声も。
笑った顔も。
怒った顔も。
何一つ思い出せなかった。
ただ、線香の煙だけが、静かに天井へ昇っていく。
その日の夕方。
通夜の準備が進む中、俺は祖父の部屋にいた。
古い本棚に、壁に掛けられた写真。
ふと、その中の一枚が目に留まった。
祭りの写真だった。
赤い鳥居。
提灯。
笑い合う村人達。
その隅に、小学生くらいの俺が写っている。
隣には女の子、たぶん未咲だろう。
俺は写真を手に取る。
裏を見ると、古いペン字でこう書かれていた。
『奉願祭 平成十八年』
─奉願祭。
聞き覚えがあるような、ないような。
「それ、覚えてる?」
突然背後から声がして、思わず肩が跳ねる。
手元が滑り、写真がひらひらと畳に落ちた。
振り向くと、未咲が立っていた。
「ごめんごめん!びっくりさせてもうたね」
未咲が謝りながら、ばつの悪そうに笑う。
「別にええよ……心臓飛び出るか思たけど」
その言葉に、未咲はケラケラと笑った。
そして落ちた写真を拾い上げる。
「懐かしいなぁ」
未咲は写真を見つめながら、小さく呟いた。
まるで昨日のことを思い出しているみたいだった。
さっきの恥ずかしさをごまかすように、俺は尋ねる。
「それ、何の祭り?」
「願渡りやで」
「願い、渡り?」
「そう、願いを神様に届ける祭りやねん」
写真の裏には奉願祭と書かれていた。
どうやら地元では、この祭りを願渡りと呼ぶらしい。
「子供の頃は皆よう参加しとったよ」
「……俺も?」
「参加しとったで」
未咲はそう言って笑う。
けれどその笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
「ふーん…、みんな楽しそうやね」
俺は写真をもう一度見る。
確かに写っている。
俺も。
未咲も。
楽しそうに笑っている。
「……覚えてないんや…」
未咲が小さな声でぽつりと呟く。
責めるような声ではなかった。
だから余計に、何も言えなかった。
その時、廊下の向こうから声がした。
「未咲ちゃーん」
「あ、はーい!」
未咲は写真を元の場所へ戻す。
そして部屋を出る直前、一度だけ振り返った。
「色々あるやろから、お通夜始まるまでゆっくりしときな」
そう言って笑う。
今度はいつもの笑顔だった。
部屋に残された俺は、もう一度写真へ目を落とす。
笑っている子供達。
その中にいるはずの自分だけが、まるで他人のように見えた。
夜。
通夜が終わり、家の中は少し静かになっていた。
俺は仏間の隣の部屋で荷物を整理し、寝支度を始めていた。
窓の外は真っ暗だった。
真っ暗ではあるが、星はよく見える。
遠くでは色々な虫が鳴いていた。
その中に混じって、仏間の方からぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
親戚達だろうか。
最初は気にも留めなかった。
だが、不意に自分の名前が耳に入った。
「恒一も帰ってきたしのう」
「じぃちゃんも、生きとる内に会いたかったやろなぁ」
誰かが言う。
「そらな……せやけど願いは叶ったやろ」
そこで一人が小さく笑いながら言った。
「やっとやな……」
その後、誰も何も言わなかった。
奇妙な沈黙が続いた。
やがて誰が声を上げる。
「なぁ」
少し間が空く。
「…ほんまに何も話してへんのか」
その瞬間。
またしても話し声が止まった。
ぴたりと。
まるで最初から誰も喋っていなかったみたいに。
しばらくして母の声が聞こえる。
「……しゃあないやろ」
やけに低い声だった。
「せやけどよぉ……」
誰かが言いかける。
「もうその話はええ」
母が遮った。
今までで一番強い口調だった。
再び沈黙が支配する。
その後は誰も、口を開かなかった。
やがて人の気配が遠ざかっていくのを感じた。
俺は天井を見上げた。
皆、俺の知らない何かを知っている。
そうとしか思えなかった。
その居心地の悪さを振り払うように布団へ入る。
遠くでは虫が鳴いている。
──未咲の「そっか」
──願いは叶ったやろ
──やっとやな
頭の中で言葉だけが反芻される。
その時だった。
──チリン。
小さな鈴の音が鳴った。
仏間の方だった。
思わず身体が強張る。
風はない。
窓も閉まっている。
それなのに、線香の香りだけが微かに流れてきた。
俺は襖の向こうへ目をやる。
暗い仏間。
祖父の遺影。
何も変わらない。
何も動いていない。
それでも妙な気味悪さだけが残る。
俺は視線を逸らし、布団を頭まで被った。
しばらくして。
ふと、仏間の方から声が聞こえた気がした。
親戚がまだ残っているのかと思った。
だが、さっきまでの話し声とは違う。
何かを呟いている。
だが聞き取れない。
思わず耳を澄ます。
すると、今度ははっきり聞こえた。
──帰ってきたのう──
俺は息を呑んだ。
誰の声だったのか分からない。
男か女かも分からない。
ただ、その言葉だけがやけに鮮明だった。
次の瞬間。
虫たちの鳴き声が戻ってくる。
仏間からは何の音もしない。
俺は布団の中で固まったまま動けなかった。
結局、眠りに落ちるその瞬間まで、俺は一度も襖の方を振り返ることができなかった。




