第参願 弔い
朝。
目を覚ますと、悪夢を見た後のように胸の奥がずっしり重かった。
昨夜の声が、脳裏にこびりついている。
──帰ってきたのう──
あれは夢だったのか。
それとも。
俺の心の中とは裏腹に、家の中は普通だった。
台所では、親戚の女性達が朝食の準備をしている。
味噌汁の匂い。
湯気の立つ炊飯器。
誰かが湯呑みを並べ、そこに茶を淹れている。
祖父の家は、昨日よりさらに人が増えていた。
親戚だけではない、近所の人らしき人達も出入りしている。
そこで、ふと母の言葉を思い出した。
─一人やけど、ひとりぼっちとは限らんやろ─
そう考えていると叔父が声をかけてきた。
「お〜、恒一。よう眠れたか?」
「うん、ぼちぼちです」
「そうかそうか。今日は大変やけど頑張れよ」
叔父はそれだけ言うと、すぐ別の親戚の方へ行ってしまった。
母は皿を運び、忙しなく家の中を行き来している。
未咲も湯呑みを抱えて廊下を小走りしている。
親戚でもないのに、誰より自然にこの家にいる。
まるで昔から家族だったみたいに。
未咲は俺に気付くと、ぱあっとした笑顔で声をかけてきた。
「おはよ!ちゃんと眠れた?」
「…まあね」
そう答えると、未咲は少しだけ眉を下げた。
「あ〜、枕変わると寝られへん人もおるもんなぁ」
「…せやな。結構繊細さんやから、俺」
未咲はプッと吹き出しながら、イタズラっぽく笑う。
「あははっ。そんなタイプちゃうやろ〜」
「失礼やな」
その笑い方を見ていると、不思議と肩の力が抜ける。
覚えていないはずなのに。
それだけが、少し申し訳なかった。
「とりあえず顔洗っておいでや。朝ごはん冷めちゃうで」
「うん」
俺は軽く身支度を済ませ、居間に戻った。
テーブルには用意された朝食が並んでいた。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
ごくありふれた朝飯だった。
俺は箸を取る前に、少しだけ手を止めた。
こうして誰かが作ってくれた朝飯を食べるのは、いつぶりだろうか。
そこへ母がやって来た。
「おはよう。ちゃんとご飯食べときや」
「うん」
「こんな朝ごはんちゃんと食べんの、久しぶりやろ」
「うん。こんな時にアレやけど、ありがたい話や」
母はクスッと笑う。
「せいらい食べときや。今日はお葬式もあるし」
そうだ。
俺は祖父の葬式のためにここへ来たんだった。
味噌汁を飲み込む。
なのに、その温もりだけが少し遠く感じた。
朝食を済ませた後、車に乗りこみ村の集会所に向かう。
坂の下に見える集会所には、既に人だかりが出来ていた。
車を降り、集会所に近づく。
するとすぐに声が飛んできた。
「恒一かぁ」
「久しぶりやなぁ」
「おばちゃん、小さい頃よう遊んだってんで〜」
そう口々にする人達は、知らない顔ばかりだった。
だが向こうは俺を知っている。
嫌な感じはしないが、思わず伏し目がちになってしまう。
そうしている内に葬儀が始まった。
お坊さんの読経が終わると、参列者が次々と焼香を上げていく。
俺はその人数の多さに驚いていた。
祖父は一人暮らしだった。
だから勝手に、孤独な時間を過ごしていたのだと思っていた。
焼香を終えた人達は、静かに席へ戻っていく。
中には遺影を見つめたまま、すすり泣いて動けなくなっている老人もいた。
この場にいる誰もが、祖父を見送ろうとしていた。
祖父は、一人ではなかった。
葬儀が終わる頃になると、村人達は口々に祖父の話を始めた。
「清さんにはよう世話になった」
「のう。畑のことやったら何でも教えてくれたさかい」
「去年の台風ん時もそうや」
「我がんとこの畑ほったらかして、先にワシんとこ見に来よったしな」
「お前んとこ、毎回びちゃびちゃなるやろ~!言うてな」
「そら~ちゃんとせへぇんあんたん所が悪いやろ」
小さな笑いが起こる。
知らない祖父の話ばかりだった。
それを聞いているうちに、昨日までただの遺体だった祖父が、少しずつ輪郭を持ち始める。
祖父は、確かにこの村で生きていた。
そうして出棺の前、参列者達が順番に棺の周りへ集まっていく。
係の人が花籠を運んできた。
白い菊に、薄い桃色のカーネーション。
その中で、一際目立つオレンジ色のひまわり。
老人がぽつりと呟いた。
「清さん、ひまわり好きやったもんなぁ」
「最後のお別れになります」
静かな声が響く。
皆が少しずつ花を手に取り、棺の中へ置いていく。
俺は一輪、ひまわりを手に取った。
祖父の顔を見ると、穏やかな顔だった。
だが、その顔から何かを思い出すことは出来なかった。
そっと祖父の胸元へ置く。
未咲も俺と同じ花を持っていた。
そっと花を置き、俯いて手を合わせる。
その姿を見て、ぼそりと声をかける。
「じいちゃんと仲良かったん?」
未咲は棺を見たまま頷いた。
そして、少しだけ間を置いて。
「恒ちゃんが、村出てからもね」
その言葉に何も答えられなかった。
しばしの沈黙。
「ホンマに優しい人やったよ」
俺はもう一度祖父を見る。
その顔は、昨日ほど遠い人には見えなかった。
葬儀の後、集会所には再び人の声が戻っていた。
徳利を持って席を回る人。
大皿の煮物を運ぶ人。
あちこちで始まる昔話。
誰かの笑い声が上がり、それにつられてまた別の笑い声が広がる。
先ほどまでの静けさが嘘のようだった。
悲しみだけでは終わらない。
どこか生活の匂いがする、そんな時間だった。
その時、入口が開いた。
「ごめーん!遅なった!」
明るい声が響く。
振り向くと、金髪を高くお団子にまとめた女性が立っていた。
喪服姿だというのに目を引く。
小麦色の肌に、大ぶりのピアス。
一言で言うなら、ギャルだった。
その後ろから、日に焼けた男が入ってくる。
耳の上は地肌が見えるほど、短く刈り込まれていた。
少しだけ生えた顎髭。
喪服の上からでも分かる体格の良さ。
現場仕事の作業着が似合いそうな男だった。
「お〜夏奈絵やんか」
「相変わらず元気ええのう」
「なんや、仕事やったんけ?」
誰かが声をかける。
「そやねん。急に休んだ人おってさ〜。代わり出てくれ〜って泣きつかれてん」
夏奈絵は肩をすくめた。
「ああ〜、そらしゃーないわな」
その後ろの男も頭を下げる。
「すんません。俺も仕事で遅なりました」
「ほうけ〜。大輝も大変やなぁ」
「仕事あるんはありがたい話なんで」
「二人とも若いのにエラいなぁ」
そこへ未咲が近付いてくる。
「二人ともお疲れ!来てくれたんやね」
「うん、遅なってごめんな〜」
「仕事やったんやろ?」
「そやねん」
「しゃーないしゃーない」
大輝も軽く頭を下げる。
「ほんま申し訳ない」
「気にせんでええよ~」
未咲は小さく笑った。
そして、ふと思い出したようにポンッと手を叩く。
「あ!そういやね、恒ちゃん帰ってきとるんよ」
「え?」
夏奈絵が目を丸くする。
その隣で、大輝も顔をはっと上げた。
「えっ、マジで?」
未咲に呼ばれ、俺は軽く手を挙げる。
夏奈絵は一瞬固まったあと、
「うわ、ほんまや!」
と声を上げた。
「恒一やん!バリ久しぶり~!」
「ホンマ久しぶりやな。帰ってきとったんか」
「えらい雰囲気変わったなぁ。最初誰か分からんかったわ」
大輝は俺の肩をぽんぽんと叩いた。
夏奈絵は俺の顔をまじまじと見る。
そして首を傾げた。
「…ウチのこと、覚えとる?」
「ごめん、あんまり」
正直に答える。
夏奈絵は大げさに肩を落とした。
「え~!?ショックやわぁ~」
「…申し訳ない」
「え、川で遊んだやん」
俺は顎に手を当て、うつむき気味に答える。
「あんまり覚えてへん」
「神社にも行ったやん」
「覚えてない」
「裏山で虫取りもしたやん」
「…ごめん」
夏奈絵は口を尖らせた。
「うーわ、最低や。夏奈絵ちゃん傷ついたわ~」
大輝は苦笑しながら言う。
「十五年も経っとるしな。急に思い出せいう方が無茶やろ」
「え~、ほな大輝は分かったん?」
「俺も最初見た時は分からんかったで」
「そうなん?」
「おう、だって昔は眼鏡かけてへんかったやん」
「眼鏡だけかい!」
夏奈絵が大輝へびしっとツッコミを入れる。
思わず笑う。
夏奈絵も笑った。
未咲も笑った。
大輝はガハハハッと笑った。
俺も、つられて笑った。
覚えていないはずなのに。
その光景は、どこか懐かしかった。
それが、二人との最初の会話だった。
しばらくすると、話題は自然と奉願祭のことになった。
「今年も屋台出るんやろ?」
夏奈絵が天ぷらをつまみながら言う。
「おう、子供ら楽しみにしとるしな」
近くの老人が頷く。
「消防団の準備も始まるなぁ」
「まぁ毎年のことやし」
大輝が肩をすくめた。
「大輝、今年も駆り出されるん?」
未咲が聞く。
「そらそうやろ。若い男手は貴重やし」
「言うて若いか〜?」
夏奈絵がいたずらっぽくにやにやと笑う。
大輝は呆れたように返した。
「同い年のお前に言われたないわ」
「うち、まだピチピチギャルやで」
「お〜、きっつ」
二人のやり取りに笑いが起きた。
その様子を見る限り、奉願祭は村人にとって大切な祭りらしかった。
「そんな大事な祭りなんですか?」
俺が聞くと、老人はもう一度頷いた。
「そらそうや。加美鳴村で一番大事な日や」
「五穀豊穣の祈りを神さんに届ける日やからな」
未咲も懐かしそうに言った。
「子供の頃は楽しみやったなぁ」
「願渡りの日だけは、夜遅うまで起きてても怒られへんかったし」
「あー、それな!」
夏奈絵がすぐに食いつく。
「夜店めっちゃ出るし!」
「りんご飴とか最高やん!」
「お前、食うことしか考えてへんな」
大輝が呆れたように言う。
夏奈絵は俺の方を向く。
「そうや恒一」
「せっかく帰ってきたんやし、見ていったらええやん」
「でも、仕事あるしなぁ」
俺がそう言うと、
「有給使え。有給」
大輝が即答した。
「おいおい、簡単に言うな」
「祭り終わってから帰ればええやん」
「そんなん言うて、準備も片付けも手伝わされるんやろ?」
「バレたか」
大輝がガハハッと笑う。
「まぁ、考えとくわ」
そう答えると、
「考えるな」
夏奈絵が即座に返す。
「絶対おもろいから」
「…強引やなぁ」
「うちは優しいから誘っとるだけや」
「どこがやねん」
祭りの話は、そのまま他愛のない雑談の中へ溶けていった。
夕方。
精進落としも終わり、人は少しずつ帰っていった。
俺は祖父の家に戻り、仏間の片付けを手伝っていた。
台所からは食器の触れ合う音が聞こえてくる。
覗くと、母と未咲が並んで後片付けをしていた。
「未咲ちゃん、今日はありがとうね。ホンマ助かったわ」
「いやいや」
「せっかくやから、晩ご飯も食べて帰りよ」
「でも、美幸おばちゃんも疲れてると思うし」
「何言うてんの」
「これぐらい平気よ。ご飯くらいお礼させてよ」
「じゃあ…、お言葉に甘えます」
そんなやり取りが聞こえてくる。
俺は片付けがひと段落したところで、縁側へ出た。
ひぐらしが鳴いている。
畑を渡る風が心地良かった。
夕焼けに染まる庭を眺めていると、自然と肩の力が抜けていく。
昼間の賑やかさが、まるで嘘みたいだった。
しばらくすると、ガラス戸が開く音がした。
振り向くと、未咲が麦茶の入ったグラスを二つ持って立っていた。
「お疲れ、恒ちゃん」
そう言って隣に腰を下ろした。
「そっちこそ、今日はありがとう」
未咲はグラスを一つ、差し出してくる。
麦茶を飲みながら、しばらく二人で庭を眺める。
穏やかな時間だった。
「思ってたより、ええ村やな」
そう言うと、未咲は少し驚いた顔をした。
そして、にこりと笑った。
「うん」
「もっと閉鎖的なとこかと思ってたわ」
「なんよそれ、自分の地元やん」
二人で笑う。
少し間が空く。
俺はグラスを傾けながら言った。
「じいちゃん、慕われとったんやな」
未咲は静かに頷く。
「ホンマに、優しい人やったから」
昼間のことを思い出す。
祖父の話をする村人達。
笑いながら昔話をする老人達。
泣きながら棺を見つめていた人。
「知らんことばっかりやったわ」
そう呟くと、未咲は庭の向こうを見つめながら、少し笑った。
「恒ちゃん、長いこと帰ってへんかったもんな」
俺は返事ができなかった。
しばらくして。
「来週、願渡りやねん」
未咲がぽつりと言った。
「さっき話してた祭り?」
「うん」
「結構盛り上がるらしいな」
「一年で一番のイベントやからねぇ」
楽しそうに話していた村人達。
夜店の話ではしゃぐ夏奈絵。
有給使えと言い切った大輝。
気付けば、村は思っていたよりずっと身近な場所になっていた。
「せっかくやし」
俺は麦茶を一口飲む。
「見てみてもええかもな」
未咲は俺の方を向き、目を丸くした。
「ホンマに?」
「なんや、その反応」
「いや……」
未咲は目尻を下げて笑う。
「嬉しいなって思って」
その笑顔は本物だった。
「そんな大層なことちゃうやろ」
「ううん」
未咲は首を横に振った。
「嬉しいもんは嬉しいもん」
そう言って笑う。
けれど。
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ別の感情が見えた気がした。
未咲は夕焼けの空を見上げる。
「恒ちゃんが帰ってきた年の、願渡りかぁ」
ぽつりと呟く。
「どういう意味?」
短い間の沈黙。
ひぐらしの鳴き声が響く。
やがて未咲は、こちらを見て微笑んだ。
「別に」
「ただ、なんか不思議やな~って思っただけ」
その答えは、どこか誤魔化しているようにも聞こえた。
けれど、それ以上は聞けなかった。
夕焼けに照らされた未咲の横顔が、なんだか遠く見えた気がした。




