83、夢境の愁
「ファドマちゃんのベッドはあちらです」
そうルルノイに案内されたのは、一目で頑丈に作られてると分かる鉄製のベッドが一つだけ、中心にポツリと置かれた部屋だった。
調度品はないけど、元々それらが置かれてたっぽい机とか棚は残ってる。
「迎賓館の方に無理を言ってお借りしてきたものなので寝心地は保証できませんが、寝るくらいなら十分だと思います」
「そ、そうですね………」
手をつけば沈み込んで、枕もフッカフカのベッドなら、寝るには十分でしょうね。
魔術学国でもここまでのは見なかったぞ。
ってか、それはいいとして、なんで………
「………なんで、枕が二つなんですか?」
「それは、そのぅ………」
途端にルルノイはモジモジし出し、そばにいたベイラさんとテンさんの目が生暖かいものになる。
なんだ、俺変なこと言った?
いや、そういうこと? ルルノイって確かサキュバスだから………
「えっと………同衾………?」
「どっどどどっど同衾じゃ………! いや、同衾なのはそうなんですが………!」
予想は当たってたみたいで、ルルノイの顔が真っ赤になる。
まあ、俺は別に気にしてないけど。
「もう寝るんですか? それともまだ何かあるんですか?」
「あ、え、ファドマちゃんは気にしてないんですか………?」
「え? まあ………はい」
「じゃ、じゃあ………」
ルルノイはテンさんに目配りすると、テンさんは小さく頷いて部屋を出ていった。
残ったベイラさんはルルノイに近づき、その豪奢な服を脱がせ始める。
当然、俺は目を逸らしておく。男じゃなくてもガン見はマズイっしょ。
しばらく、布の擦れる音だけが部屋に響く。
やがて着替え終わったのか、トントンと肩を叩かれて振り返ったら、薄い肌着姿のルルノイが真っ白な服を差し出してきた。
「あ、あの、ファドマちゃんもこれに着替えてください。外に出るだけで砂は付着しちゃうので、そのまま寝るのはちょっと………」
「分かりました」
ルルノイに従って、今着てる服を全部脱いでいく。
他の目があるのは………もう気にしないでおく。
まあ、ルルノイにはもう見られてるから気にしてもしょうがないけど。
何回かルルノイに手伝ってもらいながら、ルルノイと同じような服に着替えた。
ルルノイは終始顔を赤くしてたけど、風呂のときはここまで赤く………いや風呂上りだったから分からんわ。
「………はい、これでいいですね」
「ありがとうございます」
「あ、あと………私にはそんな固い口調じゃなくていいですよ。もっと砕けた話し方でいいです」
「は、はい、分かりました」
「………………」
一瞬でルルノイの目がジトッとしたものになったけど、普通はそんなすぐに切り替えられないからね?
いやまあ、俺の『普通』は他と違うから、それが正しいか自信ないけど。
とりあえずその視線から顔を逸らして、ベッドに上る。
片腕がないからか、若干バランスを崩しかけたけど、後ろから支えてくれたルルノイのおかげで上り切り、身を沈めて目を閉じた。
「あ゛あ゛ぁ………」
「ふふっ、気持ちよさそうですね」
この一日で色んなことがあったせいか、スッゴイ疲れてることに今気づいた。
それと同時に、風邪のときみたいな気怠さも襲ってくる。
これは多分、すぐに眠れる。
「えっと、じゃあ、お邪魔しますね………」
隣でごそごそと鳴り、やがてそれは小さな息遣いに変わった。
目を開けなくても分かるけど、これ枕無視して俺のすぐ横にいるな?
夢に入るために必要なのか? じゃあ、枕もそれに合わせて近くに………いや、枕デカすぎて並べんか。んじゃあ………
少し位置を調整してそれとなく隙間を開けたら、またごそごそと鳴って枕が小さく引かれた。
こっちの枕に頭を乗せたらしい。
「………その、ごめんなさい。夢に入るには極力近づかないといけなくて」
「大丈夫です」
申し訳なさそうなルルノイの声が耳をくすぐる。
そう思ってるなら事前に説明すればいいと思ったけど、ここまでとんとん拍子で進んだし、タイミングがなかっただけでしょう。
特に大人数で話進めてたら、優先度の低いものはそもそも話題に出せないことあるし。
「ファドマちゃん、話を引き受けてくださって、ありがとうございます」
「それは、まあ………私にも得はありますし」
「それでもです。ファドマちゃんは私とともに神と対峙することに、一瞬の躊躇もなく選んでくれました。私は、それが嬉しかったです」
「………………」
「ファドマちゃんは、あなたはただただ巻き込まれた側です。断られることも覚悟していました」
「………………………」
「だから、本当に嬉しいんです。ですので………」
「………お嬢様、もう眠っているようです」
「え? ………あ、もうぐっすりですね。まあ、この一日色んなことがあって疲れているのかもしれませんね。ベイラ、私達が寝ている間、お願いします」
「ええ、お任せください。それでは、おやすみなさいませ」
「はい、おやすみなさい」
気づくと、真っ暗な空間の中で立っていた。
壁や天井はなくてどこまでも闇が広がり、冬のフローリングのように床はひんやりと冷たくなっている。
そして、その闇の中で自分の身体だけが、自ら発光してるみたいにはっきりと見えた。
「………どこ?」
少し思い返して、眠る前の記憶を思い出す。
ってことは、ここは俺の夢?
「どうやらここは、ジバが住みやすいように作り変えた意識みたいですね」
「うぇっ?」
急に横から声がしたので飛び上がると、ルルノイがくすくすと笑ってた。
その姿は眠る直前の寝衣姿で、それも光るみたいに闇の中でくっきり浮かび上がっている。
「さて、ジバはファドマちゃんを見ていたはずなので、ここにいるはずですが………」
「ご明察ー」
どこからか高い声が響いて、場を凍り付かせる。
ただの子どもの声なのに、それくらいの感情の無さを備えていた。
「………姿を見せてください」
「いいよー」
その無邪気な声が響いた途端、目の前の闇の中からずるりと、ナニカが這い出てくる。
それは、大雑把に言えばミミズ、詳しく言えばサンドワームに似ているムカデだ。
高揚した人肌みたいに赤く染まった肌が全身を包み、同じ色の鋭い虫脚が歩くことすらままならないほど無造作に生えている。頭部には大輪のように花開いた口があり、中には無数の人の歯が生えていた。
端的に言えば、化け物だ。どこからどう見ても神には見えない。
「それで、何の用ー?」
化け物から、少年のような少女のような曖昧な高い声が響く。
全く知的に見えない化け物から子どものような声が聞こえてくるのは、かなりシュールな光景だった。
ルルノイはそれに臆さず、しかし震える手を押さえながら声を張り上げる。
「取引したいです! あなたも聞いていたでしょう!?」
「そうだねー、奴らの転落劇なんてー、確かに面白そー」
「それなら!」
「でもー、応じるのは自由だよねー」
「へ───?」
ブォンッと風を切り裂く音が聞こえ、隣のルルノイの姿が消えた。
真っ赤な血霧を遺して。
「───え?」
「大丈夫ー、夢の中だからねー」
さっきまで抑揚のなかった声に、どこか楽しそうな雰囲気が混じる。
恐る恐るジバの方を見ると、その赤ん坊のような瑞々しい肌の尻尾に、淫靡なほど紅い血が滴っていた。
「さてー、次は君の番だけどー」
「やめっ───!」
さっきと同じ風を切る音が聞こえて、思わず目を閉じる。
「んふふー、そんなわけないでしょー? おもちゃを自分で壊すほどバカじゃないよー」
「んぐっ!?」
口になんか突っ込まれた。
目を開けたら、ジバの尻尾が俺の口まで伸びているのが見えた。
じわっと、鉄臭く生臭い味が口全体に広がる。
「「いやー、おもちゃが弱ってるのが分からなくてねー。ちょっと殺しかけちゃったけどー、殺すつもりはなかったからー」」
ジバの口と、さらにその奥から同じ声が響いてきた。
学院のあの少女と似てるけど、あっちは同時に喋ってるのに対して、ジバの声は若干遅れて二つ目が聞こえる。
そして、ずるりずるりと、ジバの言葉に続けて嫌な音が鳴った。
それは、ジバの口の奥から聞こえていた。
「いやー、この姿も久しぶりだからねー、ちょーっと時間かかっちゃったー」
またジバの口の奥から声が響いたけど、ジバの口は動いてない。
だけど、口の奥からの声はどんどん大きく、どんどん近づいてくる。
「あーごめんねー? 結構奥にしまってたみたいでさー」
「………むぐ?」
しまってた? 何か取り出そうとしてるらしい。
だけど、どうやって………
「よーし、やっと出れたー」
人を一人飲み込めそうなジバの口、その奥の真っ赤な喉から、小さな手がズボッと出てきた。
続けて出てきたのは、中学生くらいの少女の頭。だけど、そこからまた出てきた少女の身体は、人と呼べるものじゃなかった。
「えへへー、これでやっと初めましてかなー? 煽動と愉悦の神ー、ジバだよー」
そう名乗る少女、つまりジバは、無邪気そうにその小さな手を振る。
だけど、それ以外は全て翼だった。
「おー、そこで混乱しないのは好きだよー」
そう、翼だけ。端的に言えば頭と手が生えてる翼のダルマみたいな感じ。
元はフサフサだったであろう翼は、ジバ自身の唾液でべとべとになってる。
そこから生えてる頭だけの少女は、黒よりの茶髪と黒い目の醜くも美しくもない、これが神?と思うくらい平均的な顔だった。
「まー邪魔者はいないしー、話し合おっかー」
「おげぇ………ごほっごほ!」
やっと尻尾が引き抜かれ、涎に混じった血が滴る。
ジバはそれを気にすることなく話し始めた。
「このままじゃー、怒られちゃうんだよねー。でもさー、せっかくのおもちゃを手放すのはー、誰だって嫌だよねー」
「は、はあ………」
ジバはその丸い身体を左右に揺らしながら、どこか不満気に言葉を漏らす。
誰に怒られるのかは知らないけど、神を叱れるほどの強さらしい。
「だからねー、君の代わりのおもちゃー、ちょーだい?」
「俺の、代わり………?」
そう言われても、俺が差し出されるものは何もない。
しかも、それはジバの呪いのせいだ。奪った挙句に何かを要求するなんて、どういう神経してるんだろ。
「だってー、君が持ってるものでー、まだあるでしょー?」
「ええ? まだ持ってるもの………?」
孤児院から持ってきたのは、身分証と渡り鳥の祈願だけ。どっちもおもちゃとは言えないし、そもそも渡したくない。まずこの夢の中にはないみたいだし。
「俺が持ってるもの………?」
考えれば考えるほど、何も持ってない。
ルルノイが交渉するって言ってたから、そこんところ何も考えてないし用意もしてない。
でも、ジバはまだ残ってるって言ってるし………
「あたしのことかね」
「うぇっ!?」
また横から声がして飛び上がると、俺とそっくりの少女が立ってた。
いや、この少女が元の身体の持ち主かも?
「この身体で面と向かうのは初めてだね。改めて自己紹介と行こう。あたしは『魔女の友』アリス。あんたの頭の中の声はあたしさ」
「え、な、は、はあ………?」
「………よく分かってない顔してるね」
そりゃ、こっちは何も知らないからしょうがない。
いきなり自己紹介されても、だから何?って感じになるしかない。
「まあいいさ。あの邪神が言ってる『残ってるもの』は、あたしのことだろうね」
「当ったりー。君がこの時代にいるなんてー、珍しーどころか君一人だけだろーしー」
「そりゃ、あたしはもう死んでるはずだからね。ただ、一つだけ確かめたいことがある」
「なーにー?」
「あんたは、最高神の妻の息子か?」
「サイコーシンー? そんなの知らないよー?」
「はあ? じゃああいつが間違えてたってのか? いや、テキトーなこと言う奴だったし、可能性としては半々だったか………」
「………何のこと?」
俺を蚊帳の外にして、ジバとアリスの話が進む。
アリスは色々知ってそうだけど、俺を一瞥したときの目は、あまり教えたくなさそうだった。
「あたしが生贄になるのはいい。だが、その後この子はどうなる? 砂蛇は返してくれるんだろうね?」
「そーだねー………」
アリスの問いにジバは少し口をつぐむと、手を軽く振った。
すると、その手の先に真っ裸の俺が現れる。これで三人目?
「これはねー、君の身体を外から見たときのものだよー。君に不満がないよーにー、色々改造した後の身体を決めよーかー」
「………どういうこと?」
「つまりは、あたしが抜けた後の稀の身体をどうするか決めるのさ。キャラメイクが一番近いかね?」
「なんで、それを………?」
アリスは俺にウィンクをする。
自分で頭の中にいたって言ってたし、記憶を覗いた?
色々と失敗ばかりの俺の記憶を?
「………そう恥ずかしがることもないだろう。大丈夫さ、あたしはもう二度とあんたの前に現れないし、誰かに言うこともない。あの邪神が外部との接触を許すはずがないしね」
「それって、どういう───」
「まずはあんたの身体だ。邪神に弄り回られたのでいいのかい?」
俺の言葉を遮ったアリスに渋々従い、暗闇の中で浮かぶ俺の身体を見つめる。
褐色肌の身体はまんま俺で、半開きになってる目からは何の意思も感じない。
「ただの人形だからねー。それじゃーこれにー、サンドワームを投入ー」
ジバがそう言いながら手を振ると、俺を模した人形にサンドワームの尻尾が生えた。
それに伴って肌も白くなり、薄ら見える瞳も砂色に変わる。身長も少し伸びて、サンドワームを抜かれる前の身体になった。
「これが前の君ねー。じゃあここからー、新しいおもちゃを抜くとー」
またジバが手を振る。
すると、人形の身体はぐじゅぐじゅと嫌な音を響かせた後、ボコボコと隆起して皮膚に包まれただけの肉塊になった。
これは………死んでる? ってか、アリスを抜いたら死ぬってどういうこと? アリスは………何なんだ?
「こーなっちゃうからー、少し手を加えてー」
ジバの手が、今度は複雑に振られる。
それに合わせて肉塊が蠢き、粘土細工みたいに何かに形を人型に整えられると、肌色のマネキンが出来上がった。
「んじゃー、君のよーぼーを教えてー?」
「………んぇ? 要望?」
「そー、君の身体だしー、取引は取引だからねー」
取引………『アリスを引き渡す』で、取引は成立してるらしい。
アリス自身はそれでいいのかと思って顔を見てみると、アリスはニカッと笑った。
「心配しないでいい。あんたは自分の心配だけしな。あたしはもう死人だからね、何されても平気さ。邪神がやることなんてたかが知れてるしね」
「そりゃー、君とは会ったことあるからねー」
「………え、あるの? いつ?」
「そんなことは気にしないでいい。あんたはほら、自分の身体を作りな。キャラメイクと一緒さ」
「そう言われても………」
俺はキャラメイクが一番苦手だ。最近のキャラメイクは自由度が高すぎてめっちゃ難しいし、結局は鎧でガチガチに固めちゃうし。
「んー、できないみたいだねー? じゃー新しいおもちゃと一緒でいーいー?」
「………えっと、はい、それでお願いします」
「りょーかーい」
よくよく考えれば、顔を変えたら周りの人からしたら「誰!?」ってなるし、下手に変えない方がいいと思う。
そもそも今の顔も十分可愛いし。いや、この身体になるって考えたら複雑だけど。
ん? ってか、新しいおもちゃ………アリスと同じってことは、やっぱりこの身体の持ち主はアリス? だからアリスを抜くと死ぬってこと?
「んじゃー、こねこねー」
俺の思考をジバの言葉が中断して、その手がマネキンをどんどん人間らしく、アリスらしくしていく。
だけど、どこか変………………いや、変とかじゃないわ。これ本当にアリス? 亜人のときより背が高くなってるし、顔もなんか………大人びてる?
「はっ、邪神のわりには、粋なマネをするね。あたしが成長したら、こんな感じになってたんだね………」
アリスがどこか感慨深げに、そう呟く。
話し方的に俺より年上だと思ってたけど、本当は見た目相応の歳?
「よしー、しゅーりょー」
ジバの言葉でまた人形に目を向けると、そこには少女ではなくもはや女性が浮かんでいた。
腰まで伸びる艶やかな黒髪に、それに合わせるような褐色肌、前世の俺より一回り大きい180cmはありそうな身長と、それに伴って今より大人びて可愛いより美しい方の端正な顔、尻尾はより短くより細くなって、サンドワームと人間が合わさった亜人というより、人間にサンドワームが入った亜人になっている。
そして、一番重要なサイルガ家の紋章は、少し小さいけど腹と胸の間にあった。
「サンドワームの歳とー、新しいおもちゃをくっつけたらー、こんな感じかなー」
「まあ………いいんじゃないか? 少なくとも剣は振れそうだ」
「そこ判断基準なの………?」
アリスの言葉は置いておいて、俺が思ってたのとなんか違うけど、子どものあの小ささを考えると、身長は高いに越したことはない気がする。腕も二本あるし。これ、治してくれるってこと?
「あー、そーそー、胸はそのまんまでいーのー?」
「む、胸?」
言われて見ると、人形の胸部装甲は、身長を考えればだいぶ慎ましいものだった。
だけどまあ、結局自分の身体になるし、大きいのは肩が凝るとか聞いたことあるし、このままでいい。というか、このままがいい。アニメとかでもブルンブルン動いて邪魔そうだったし。
「りょーかーいー。それじゃー、これで決定ねー」
ジバが手を振ると、人形が闇に溶けるみたいに霧散する。
これで、取引は完了………なのか?
「一応ー、転落劇とー、殺しかけちゃったお詫びも入れてー、これで公平かなー」
「元の対価と詫び、さらにあたしまで入れてそれだけかい?」
「………まだ何が欲しーのー?」
「あのサイルガ家の娘が元々交渉しようとしてたことは?」
「もちろんー、それも込みだよー。それで転落劇と相殺かなー」
「稀を殺しかけた詫びは?」
「新しー身体で相殺だねー。腕も直すしー」
「じゃあ、あたしは?」
「この取引に応じるー、それで相殺ー」
「………そうかい」
アリスの質問攻めはそれで終わりなのか、そこで口を閉じた。
アリスとの話が終わったジバは、今度は俺の方を向く。次は俺らしい。
「これで取引は終わりー。あの三馬鹿からは手を引くしー、しばらくは新しいおもちゃで遊ぶからー」
「え? は、はあ………」
そもそもこっちもルルノイ達がジバに対して何をやりたかったのか詳しくは聞いていないので、頷くしかない。
というか、俺はジバよりアリスの方が気になる。
いや、本当に、誰? ずっと俺の頭の中にいたみたいだし。
「ん? 何だい?」
俺の視線に気づいたアリスが目を開ける。
この際だからさっきの質問をしようとすると、それよりも先にジバの声が響いた。
「じゃー、これで取引はしゅーりょー。元気でねー」
「あ、少し待ってくれ」
俺の方に手を向けたジバを制止して、アリスがこっちを向く。
何か伝えたいことがあるらしい。
「覚えてるかい? 取引が上手くいったらご褒美をあげるって話」
「………あ、そういえば」
「あたしとはここでお別れだから、今伝えとくよ。三つしかないが、一度しか言わないからよく聞いといてくれ」
そして伝えられたのは、不思議な言葉の意味のなさそうな並び。
だけど、元がアリスの身体………かどうかは分からないけど、すんなりとその言葉を覚えることができた。聞いた直後に復唱できるくらいに。
「………っと、あたしが教えてもらったのはこれだけだ。もっと欲しいなら、『魔女の道導』を自分で唱えてみな」
「わ、分かった」
「それじゃあ、また………じゃないな。これで永遠にお別れだ。ここはバイバイ、だね」
アリスとの話が終わったと見るや否や、ジバがまた俺に手を向ける。
その瞬間に周囲の暗闇が塗り替えられるように真っ白に輝き始めて、思わず目を閉じたくなる。
だけど、それを我慢してアリスを見た。
これで永遠にお別れなら、見ず知らずでも俺を助けてくれた人にちゃんとお別れをしたい。
それが礼儀ってもんだろう。
「ばいばい、アリス───!」
今だけ恥を飲み込んで、アリスに向けて大きく手を振る。
何も書かれてないノートみたいな白が視界を染め上げていく中、最後に見えたアリスの顔は、俺には出せないような満面の笑みだった。
「───嬢様! お嬢様、起きてください!」
「───っは!?」
誰かの呼ぶ声で飛び起き、高鳴る胸を押さえます。
大丈夫です。手足はちゃんとついていますし、血も出ていません。どこにも、傷はないです。
ですが、じっとりと汗ばんだ服は、私に起きたことを如実に表していました。
「はあ………はあ………あ、ベイラ、ですか………」
「お嬢様、大丈夫ですか? 今水をお持ちします」
「待ってください」
どこかへ行こうとしたベイラの手を握ります。
貴族としてこれは相応しくないと分かっていますが、そうせざるを得ないほど、怖かったです。
怖かった、んです………
「………お嬢様、少し休みましょう。動けますか?」
「………………いえ、私だけ休むなど許されません」
隣を見ると、ファドマちゃんはまだ目をつむっていました。
これはつまり、私の代わりにファドマちゃんが頑張っているということです。
それを置いて休むなど、許されません。いえ少し違いますね。私自身が許せません。
ベイラから手を離して、今度はファドマちゃんの手を握ります。
その手は驚くほど冷たく、まるで死体のようでしたが、瞼の裏で忙しなく動く目がそれを否定してくれます。
そして、目が動いているということは、まだ交渉は続いているということです。しかし、ファドマちゃんに交渉の詳細は教えていません。
ファドマちゃんが私達がジバに求めていることを察して交渉を継いでくれているか、もしくはジバに何かされているかの二択です。
どっちにしろ、私達はもう祈るしかありません。
「もう一度、入れたなら………」
サキュバスは、一度否定された夢、つまりは殺された夢にはもう二度と入れません。
新しい夢になら入れますが、それをするにはファドマちゃんが一度起きなければなりません。ジバがもう一度現れてくれる確証もないのに、です。それは折角の機会を捨てる行為です。そんなこと、できません。
そもそも、無理やり起こせばジバが激昂する可能性もあります。
だから私達は、何もできないのです。
「………お嬢様、浴場の用意はしておきますか?」
「ええ、お願いします。精神的な疲れを癒すのならお風呂が一番です」
「かしこまりました」
ベイラが静かに部屋を出ていき、重い静寂が部屋全体を包みます。
二人の息遣いしか聞こえないこの空間で、私はひたすらにファドマちゃんの手を握り続けます。
最初、この子がファドマちゃんと聞いたときは、耳を目を疑いました。
だって、どこからどう見ても人族の女の子です。私が紋章を刻んだのはサンドワームであり、この少女とは似ても似つかない魔物です。信じろという方が無理な話ですよ。
でも、私は信じました。あの名前は、私が頑張って考えてつけた名前で、他の誰も知りようがないものです。
なぜ人族になっているのかは本人から言わない限り分からないですが、私達が誠意を持って接していれば、いつか話してくれるでしょう。私はその日を待つだけです。
「ですから、その日が来るように、生きて帰ってきてください………」
なぜジバが私を殺したのか、理由は分かりません。
取引に応じないというのであれば、ファドマちゃんも追い出すのが道理です。
しかしジバはそうしなかった。つまり、ファドマちゃん自身に用があったということです。
嬲られていないと、いいのですが。
「頑張ってください………」
私はそう、手を握り続けます。握り続けるしか、ありません。
「頑張って、ください………」
いつまでそうしていたか分かりませんが、部屋の扉が開く音で目を覚ましました。
振り向くと、ベイラとテンが心配そうに部屋を覗いていました。
私はそれに小さく手を振って大事ないことを伝えながら、身体を起こします。いつの間にか寝ていたようです。
「ん、んん………」
そこで、ファドマちゃんが小さく声を漏らしました。
強く手を握ってしまったかと思いファドマちゃんの方を見ると、もうファドマちゃんではありませんでした。
「………ふえぇ!?」
「お、お嬢様、どうしましたか!?」
「何かありましたか!?」
ベイラ達が駆け寄ってくる音が聞こえますが、私はそちらを見る余裕はありませんでした。
なぜなら、ファドマちゃんがいたはずのその場所には、見知らぬ女性が寝息を立てていたからです。




