1回裏(2)
さて、試合が始まる。今日は映画のプロモーションで女優さんが始球式を務める。うちも始球式は何度かやったことがある。例えばこんな感じ。
『さて、今日の始球式は我らがスパイクスのチームドクターである大貫枝里子さん。そう我らが守護神、ミスタースパイクス、大貫智一の妻であり、元女子硬式野球日本代表の選手兼監督として4回の世界一を達成、現役時代には145キロという今なお塗り替えられていない女子速球のギネス記録保持者でもある、まさにミセススパイクスの登場です』
これだけ肩書を並べられると観客からすごい拍手を貰える。そろそろほとぼりが冷めたかな、という時に呼ばれることがある。というか毎年1回のペースで投げている。うちはボーイズで指導を続けているから、現役を退いた今も130キロ近くの球を投げることができる。
『変化球投げていいですか?』
これまで1度だけそう聞いたことがあるが止めてくださいと言われた。
今日は平日だけどどちらもチームもエースどうしの対決だからかお客さんの入りもいい。ヒットはどちらも2本だけで四死球はゼロ。この比較的小さな神宮球場では珍しく息詰まる投手戦になり、そのまま0対0で8回まで来た。幸いなことにケガ人が出るようなプレイは一度もないので、私の仕事は野球見物。当たり前だけど私がグランドに出て行くようなことが無い方がいいに決まっている。
そして8回の裏2アウトから8番バッターが粘って四球を選ぶ。この試合が無四死球試合になる可能性が消えた。スパイクスはこれが3人目のランナー。ここで打順は今日絶好調のエースになるのだけど代打が告げられた。
『スパイクス、9番、井上に代わりましてバッター大貫、ピンチヒッター大貫、背番号79』
いつぞやの夢で見た光景がよみがえる。今日はシーズン中盤の試合で、相手は下位チーム。スパイクスにしては下位相手に取りこぼしたくないし、相手にとっては切り札と言って良いエースで勝たないと3タテされる可能性もある。ペナントレースを勝ち抜くためにはその1戦1戦が大切だ。
この世界でも79番を背番号に選んだ夫に聞いたことがある。なぜ79番なのかと。高卒で入団しているからまだ結婚する前のことだ。
『空いてたから』
子どもの頃に見た夢のインタビューと同じことを言っていると思った。だけど露骨なぐらい目を逸らされたからぎりぎり高校生だった私でも気が付いた。
『へー』
『なんだよ』
『べっつにぃ』
その夫が代打でバッターボックスに向かう。その途中で私の方をちらっと見た。周りにいる私を手伝ってくれる看護学校の生徒さんに自慢したいぐらいいい顔をしている。
夫の本職はクローザーだけど打撃も評価が高い。代打専門なので、規定打席に達したことはないけれど、通算のOPS(出塁率+長打率)はなんと1.6を超えている。伝説のホームラン王のシーズン最高記録が1.29。規定打席に達したレジェンド選手と単純に比べるのは失礼だけど、この数字は大したものだと思う。
だから8回裏や9回にチャンスになれば代打で出ることも多い。場合によってはピンチヒッターでスリーランホームランを打って、その後も連打が続いたので、9回のマウンドに立たなかった場合もある。
まあ海の向こうには規定打席と規定投球回に達して双方でものすごい実績を出しているピッチャーもいるから、上には上がいるわけだけどそれでも凄いことだと思う。
私が球場で見ている時は良く打ってくれる気がしているのでここでも期待していたのだけど、夫はすぐにバッターボックスを出た。申告敬遠かあ。一塁ランナーが二塁に進むので、私が監督なら選ばない作戦だ。確かに今シーズン、夫は良く打っているけど、次のトップバッターでアウトを取れば、夫は同点のまま9回表のマウンドに登るだろう。そうすれば延長で有利になるという考えなのだろうか?
でも2アウト一塁が、二塁一塁になる。つまり得点圏にランナーが進むわけだし、打順も1番に戻る。そしてなによりここまで1人で投げている相手のエースが納得していないように見える。これはうちの医者ではなくて指導者目線で良くない采配だったと思う。
実際集中が切れたのか、トップバッターにヒットを許し、スパイクスに先取点が入った。その後は相手のファインプレイもあり最小失点に抑えられたものの、9回表はそのままマウンドに上がった夫がきっちり3人で終わらせた。これで今シーズンオールスター直前のこの時期でもう19セーブ目。年齢的にはいいじいさんだけど、夫は今年もこのまま活躍してくれそうだ。




