1回裏(1)
「うん、まだリハビリするには早いわ。あと1週間ぐらいしてからリハビリやね」
私は不満そうにする男子高校生にそう伝える。彼は高校バスケの世界ではちょっとした有名人らしい。デカくて速くて上手い。だから膝を痛めてしまう。
「前にも言ったやろ? ケガはなおりかけが1番大変やねん。今無理したらまた振り出しに戻ることになんで」
「何回も聞いたのでわかってます」
体が大きいくせに、ぶっきらぼうに言うところも可愛い。
「ほなまた1週間後、同じ時間にね」
「ありがとうございました」
彼はそう言って診察室を出て行った。ああ見えても慎重な子だから、無理はしないと思う。さてこれで今日の患者さんは終わったね。
「じゃあ店じまいするよ」
私は大貫枝里子、40歳。東京の片隅で整形外科医を営んでいる。専門はスポーツ医学だけどメンタルケアもする。さっきのように上の息子とあまり歳の変わらない患者さんもいるし、普通に体を痛めた年配の方を診察することもある。あと私が女性だから、同性の患者さんも多い。そして今日みたいに午後が休診の日は契約しているスポーツチームの往診に行くこともある。
そして土曜の午後と日曜はボーイズの監督もしている。仕事がある日はコーチに丸投げしている日もあるけれど。
まあ名前が売れていると食べていくのに不自由しない。いや私は医者としての腕も悪くないと自負しているし、昔見た夢の影響でセルフプロデュースもかなりのものだと思う。
店じまいが終わった後、私は自家用車で神宮球場へと向かった。
「こんにちは~」
診察中もそうだけど、わざと関西弁のアクセントで話しているのは癖でもあるし、私の処世術でもある。なんとなくだけど方言の方が町医者としては相手の心の中に入って行きやすい気がしている。
今夜はこの球場で試合がある日でやることは大きく分けてふたつ。
ひとつは試合が始まってから、万一のために待機しておくということ。場合によっては命に関わることもあるので重要な仕事だ。何も無いにこしたことはない。
もうひとつはここのチームドクターのひとりとしての仕事。ケガを持っている選手たちの体と心のケアをすること。球団によって違うけれどスパイクスは複数の医師と契約していて、今日は私の当番日ということだ。選手によって担当が決まっている場合もあるし、チームドクターの間で申し送り事項がある場合もある。もちろんその両方をこなす。
私が担当している選手は実に様々だ。一軍の選手でケガをかばいながら試合に出続けている選手もいる。プレイにあまり支障はないが、何らかのダメージを負っている選手もいる。本来なら一軍なのにケガで二軍にいる選手が二軍からここに来る場合もある。体のケガは治ったけれど、メンタルに問題を抱えている選手もいる。ずっと試合に出ることができない選手もいる。試合に出ているしケガもないけど体のどこかが気になる選手もいる。
私は選手を次々に診ていく。私は結構多くの選手を担当しているので休む時間がない。ボーイズの練習が無い時などは、日曜日でも頼まれてここや練習場に来る程だ。それは多分私の経歴が影響している。私は女性だけど大学を出てからも数年間は野球をやっていた。キャッチャー兼ショート兼ピッチャーとして日本女子代表にいた経験を持っている。残念なことに女性の硬式野球は、今でもまだマイナーだけど、私の現役時代よりは向上していると言って良いだろう。
まだ20歳の頃から代表のキャプテンを務めていたし、そのうち監督を追い出して監督兼任とかやんちゃもした。あの監督は明らかにチームの重荷になっていたから勝つためにはしゃあないね。結局現役を引退するまで所属するクラブチームと代表の監督も務めていた。もちろん勤務医、その後独立して町医者をやりながらだ。私はそこそこのお金持ちなので、開業できるようになってからはすぐに独立して開業医になった。
チームも代表も何度も優勝したから兼任状態を止められなかった。そして現役を引退した今もボーイズの監督。関西でシニアにいたうちが、関東でボーイズの監督。普通は逆やろ。ともかくそういう経歴だから野球のことは普通の医者より良く知っているし、選手や指導者の気持ちも他の医者よりは共感できるからメンタルケアをすることができる。
『筋トレは負荷を下げた方がいいですね。およそ半分ぐらい。いや足だけじゃなくて全身に与える負荷を下げた方がいいです。回数は同じで良いですよ』
外国人選手も私が担当の日を狙ってやってくる。私は英語とスペイン語をほぼネイティブに話せるからだ。誰も信じないと思うから言わないけれど、小学校3年生の時に夢を見てから話せるようになった。大学では第2外国語として中国語を履修したけれど、こちらは使いこなせない。やはり言葉は普段から使わないとあかんのやろな。
ひとりずつ診断したり、メンタル面のカウンセリングをしている間に試合の開始時刻が近づく。途中から駆け足になったけど、最後にうちの旦那が来た。もう公式練習が始まっているけど先発じゃないから大丈夫なのだろう。
「どっか痛めたん?」
「笑われへん冗談はやめてや」
夫が笑いながらそんな事を言う。
「せやけど先週3連投。そっから中2日あったいうても昨日も投げてんねんで。しかもその期間、3回打席にも立っとる。ほぼ40歳のええ爺さんを働かせすぎやろ」
「『ええ爺さん』、というのもやめてくれ。同い年やん」
「でも野球選手の39歳はもうええ歳やろ? 痛いとことか気になるとことかないねんな? 肩は? 肘は?」
夫は誕生日がまだなので、一応まだ30代。
「大丈夫や。いつも枝里子が見ててくれてるからな」
そういうカッコいいことを言いながらも本人は恥ずかし気に私の顔を見ずに部屋を出て行った。こういうところは我が夫ながら可愛いところがあると思う。野球選手、特に高卒でプロに入った選手は、世間知らずが多く結構ピュアなのだ。
もちろん金を持っているから怪しい女にハマる選手もいるが、うちの夫の場合は中学を卒業する時から私と付き合っていて、そのまま私が開業する時に結婚したから女遊びもしていないはずだ。誤魔化せない性格だからこれは断言できる。
旦那がスパイクスの中心選手。そういう意味ではうちはコネ採用ということになるかもしれない。でも他のチームドクターより明らかに働かされていると思う。給料に反映されているから文句はないけどな。
うちは結構な金持ちやねん。せやからケチというわけやない。働いた分貰うのは当たり前のことや。うちの旦那は年収2億円も稼いどるけど、銀行口座を見たらうちの方が貯め込んでいる。医者だからではなくて大半は投資で儲けた金や。どうやって投資で儲けるかは秘密や。




