プレイボール(2)
「お客さん」
そこで運転手さんが私に声をかけて来た。
「神宮に見に行かれるのでしたらラジオをつけましょうか?」
あっ、私はようやくボビーとの会話の余韻から覚め今の状況を思い出した。おそらく私の電話が終わったのを見計らって声をかけてくれたのだろう。
「お願いします。もう中盤ですよね」
スマホを見ればわかるのだろうけれど、その時の私はラジオが流れるのを待つことにした。
『6回の表、生垣の2点タイムリーで同点に追いつきました、大阪ウォリアーズ。これで2対2、ツーアウトですがなおもランナーを二塁においてこの回、逆転なるか』
『いやあ生垣、追い込まれてからも思い切ってバットを振り抜きましたね。このままどんどん続いて欲しいですね』
ちょうど試合が動いたばかりらしい。同点か……私はそれを聞いて少し複雑な気持ちになった。こう見えても私は大阪で産まれ大阪で育った女なので、ウォリアーズが同点に追いついたのは嬉しい。だが本当に見たいのはどちらのチームの優勝でもない。
『日本シリーズ第7戦。勝っても負けてもこれが今シーズン最後の試合。本日の実況は私、玉縄、解説はウォリアーズOB、日米通算2300本安打の黒木平太さんでお送りしております』
私が見たいのは今シーズンで引退を表明している男だ。大貫智一、高卒で神宮スパイクスに入団し、三冠王2回、本塁打王7回、打点王5回、首位打者2回。通算2500安打、500ホームラン。間違いなく偉大な選手だ。その栄光に満ちた25年間の現役時代すべてをスパイクスに捧げたため、ミスタースパイクスと呼ばれている。そんな彼と私、実は小学校で同級生だったりする。
なおスパイクスという名前には、私には違和感がある。いろんな意味を持つ単語だが、スポーツでいうならバレーボールではないか?
さておき、同級生と言っても、クラスが同じだったのは小学校の3年生から4年生の間だけで、その時はそれなりに仲が良かったと思うけれど、クラスが離れてからは特に接触がなかった。そんな彼が野球強豪校に進学し、そこでエースとなり甲子園に出場し活躍、そして高卒でプロ野球選手になった。高校時代に肩を酷使された影響で、プロではピッチャーからバッターへのコンバートを余儀なくされたがそちらで開眼した。昔のインタビューによるとコンバート前からバッティングも評価されていたようだ。左利きなのでファーストか外野しか守れないという欠点はあるものの、プロ野球史に残る選手と言ってよいだろう。
そんな彼も三十代半ばからはほぼファースト専門、40歳を迎えると打撃成績も急降下し、去年と今年はスタメンの試合は二桁に届かない体たらくでシーズンを過ごした。そして今シーズンが終われば……つまり今日の試合が終わればユニフォームを脱ぐという。どちらが勝つにせよ大差であれば彼が打席に立つかもしれない。だが接戦だと難しいだろうと私が考えている時に、タクシーはスタジアム前に着いていた。私はカードでタクシー代を払ってスタジアムに向かった。
私がバックネット裏やや三塁よりの席に着いた時、点差は2対4になっていた。会場は当然ながら満員で、私の席には荷物が置かれていた。私が座ろうとすると横の人がいそいそと片付け始めた。今頃来るなと言う声が聞こえてきそうだ。席が空くのを待っている間にスマホで調べたところ、どうやらあの同点タイムリーの直後に逆転ホームランがあったとのこと。まだ2点差やけど、まあウォリアーズが勝つんやったらそれでええか。
その後は今シーズン最後の試合ということもあり、両チームとも投手陣をつぎ込んで、9回表が終わるまであっさりとゲームは進んだ。後はこのウォリアーズの抑えがきっちり仕事をすればそれでゲームは終了するのだが、この抑えは点はなかなか取られないけれど、ランナーはそれなりに出すという、ネットスラングでは劇場型と言われるタイプのクローザーだから全面的に信用することはできない。
打順も3番からと悪くない。案の定この回の先頭バッターにあっさり外野に飛ばされてノーアウトランナー一塁。俄然盛り上がる一塁側スタンド。ランナーも俊足の代走に代わる。キープレイヤーを代えるので、延長になったら不利になるのは監督も百も承知だろうが、そもそも同点に追いつかないことには相手の胴上げを見る羽目になってしまう。
盛り上がる球場の中、私は試合を静かに見ていた。だがこの回ふたり目のバッターである4番打者をセンターフライに仕留め、5番打者は9球粘ったものの最後は三振。これで日本一まで後ひとり。だが6番打者は5番以上に粘り、12球も投げさせてフォアボールで二塁一塁となった。ここでも代走が出た。
2アウトだからランナーはすぐにスタートを切る。だから長打が出たら同点になってもおかしくない。ホームランならサヨナラだ。逆にアウトになっても試合は終わる。タイムがかかり内野陣がマウンドに集まる。球場の至る所から双方のチームの選手を応援する声が聞こえる。間違いなくここが正念場だ。球場内の誰もがそう思っているだろう。
そして私はそれを見た。ネクストバッターサークルにいたバッターがベンチに戻されて球審に代打が告げられるところを。ここで彼が出て来るのか? 出てきて欲しい。例え結果が伴わなくても彼の最後の雄姿をここで見たい。そんな私の願いが叶えられた。
『スパイクス、7番、後藤に代わりましてバッター大貫、ピンチヒッター大貫、背番号79』
一斉に湧くスタンド、私はその場で立ち上がってしばらく拍手をしてから、後ろの人を気遣って座った。興奮して立つのは仕方がないけど、立ち続けるのは観戦マナー違反だからだ。一時代を築いた選手なのに背番号が大きいのは、彼が入団した時から背番号を変えていないからだ。栄光はもう過去のものになってしまったが、去り行くスーパースターの出場に大きな拍手が沸き起こる。大貫ならなんとかしてくれる。スパイクスを長年応援しているオールドファンほど、そう自分たち自身を鼓舞する。
そんな球場の空気を察知したのかどうかはわからない。タイムがかかっている間、大貫は軽くストレッチをして、素振りをして打席に入る準備をする。そしてバックネットを振り返えると、私の方を見た。私と目が合った。嘘やろ? こっち見たのもたまたまやし、目が合ったんは錯覚やろ。
そして内野陣がポジションに戻る中、彼が左打者のバッターボックスに入る。球場は最高潮に盛り上がっている。ウォリアーズの抑えが投げた初球は私の位置から見るとストライクだったが、わずかに外れていたらしい。カウントは1-0、そして2球目は大貫が渾身を込めてスイングしたバットにボールが当たった。私は立ち上がった。私だけじゃない。多分球場のほぼ全員が立ち上がっているはずだ。
これは打ち上げすぎ? いやでも飛距離はありそう。届く? 本当に届く?
届いた。スタンドに届いた。
球場にいるすべての人々の感情が爆発する。今年の日本一のチームが決まった。そしてひとり、伝説となった選手の引退も決まった。彼が将来コーチあるいは監督としてユニフォームを着る可能性は高いと思う。だがもう現役の選手としてプレイすることはない。ホームベース付近で仲間たちから手荒い祝福を受ける彼を見ながら、私は少し泣いた。




