3回裏
『船長、そろそろ用意しなきゃいけないですよ』
『まだそんなに慌てないでいいわよ。ただボールを投げるだけなんだから』
本当になんてことは無い。野球のボールを投げた数は、これまで食べたパンの枚数より確実に多い。実家も独立してからもうちはご飯派やからね。だから例えここが無重力であったとしても確実にストライク投球できる自信がある。
『でも地球へ電波が届くまでの時間も計算しないといけませんからね』
そうだよね。というかこの世界はおかしすぎる。
『そんなのもう何度も計算したでしょう』
ここは宇宙船、火星往還船「フォン・ブラウン」号。なんでこんなものが2020年に存在するのか? それは私が聞きたい。私がこれまで知っている世界にはこんなものは無かった。仮説だが、おそらく世界には私が思うより多くの天才がいるのだろう。ただ、その天才が本当に産まれて来るのか、成人を迎えるのか、その道に進むのか、よい師に巡り合うか、そして天才同士が手を組むか。それには多くの偶然があるのだろう。
そしていくつのかの歯車がかみ合ってこんな大国も小国も、多くの民族や種族が手と手を取り合う理想的な世界ができた。キーマンが誰なのかがわかっていたら真っ先に保護したいのだけど私にはわからない。
ともかく一番大きな違いはそれだけど、次に大きなものが人類の宇宙進出だ。この「フォン・ブラウン」は7年前に計画され、各国の積極的な協力によって設計を含みわずか4年で作られた。そしてホーマン軌道を用いて2年半前に地球を旅立つと、火星で採集や実験をした後、現在は地球への帰路についている。家に帰るまでが遠足なのは宇宙船も同じだ。
月に降り立ったアームストロング船長のように私が火星から地球に伝えた言葉も世界中の教科書に載るのだろうと思うと感慨深い。人類が初めて降り立った地球以外の惑星、火星は地球に一番近い時でも月の百倍遠い天体なのだから。
そして帰りの船の中でも実験などが行われているけれど、船長の私はあまりすることはない。というか船長がドタバタしているようであれば、その船は緊急事態に違いない。そして宇宙船での緊急事態は、発着時でも無ければ死に直面している時だ。幸い現時点ではそのようなことにはなっていない。最後までそういう事態にはならないで欲しい。
代わりに船長がやらなければならないのは、いわば広報活動だ。例えば今日はアメリカのメジャーリーグで試合がある。その試合の始球式はすべての球場で私が務める。アメリカでは時差があるので、開始時間がそれぞれ異なってしまうが、それらをなんとか合わせているのだろうと思うと関係者の苦労がしのばれる。
宇宙船の中でボールをカメラに向かって投げる。そのタイミングに少し遅らせて球場内にボールが落ちて来ると言う奴だ。そう、これまでにも何度かあった奴だ。これまでと違うところは、単純に地球からの距離であって、それ以外は大したことはない。だがその距離が今回のプロモーションの華ということになる。
国際宇宙ステーションは地球の高度4百kmを飛んでいる。月だと38万km。地球と火星は1番近い時で約5千4百万km、1番遠い時だとその倍。今の私たちは地球にだいぶ近づいているけれどまだ3千万km以上と少し離れている。私がもし光速で投げることができたとしてもボールが届くのは約100秒後だ。
確実に大気圏で燃え尽きるだろうけど。いやその前にぶっ壊れるか。
『船長、そろそろスタンバイ願います』
はいはい。わかってますよ。私を始めとするクルーが集まる。
『ところでカメラにちゃんと防護フィルム貼った?』
『一応貼りましたよ。不要だと思いましたけど船長が言うから。まあ光は99%以上透過しますから撮影には問題ないです』
そうか、じゃあストライクを決めないとな。ここのところ無重力生活が長いので、今なら地上よりもこちらの方が簡単だと思う。
『本番まであと30秒です』
無重力で自分が浮いている状態でボールを投げると、その反作用で自分が逆方向に飛ぶ。だから周囲のクルーが私の体を支えてくれる。最初は身体でベルトを固定することも考えたけど、お互いに支え合った状態の方が見栄えが良いだろう、ということになった。まあどちらの場合でも下半身を使えない手投げだからそんなに速度は出せないけれど。
『5、4、3,2』
『ベースボールを愛する皆さん、こんばんは。あるいはこんにちは。火星往還船「フォン・ブラウン号」船長、オオヌキ・エリコです。私は8歳の頃から野球に親しんできました』
1旦間を空ける。30Gmの距離を舐めてはいけない。この品質の映像が各球場にどのように伝わるのか、これは実験のひとつだ。
『野球でも宇宙でも、場面場面での状況を判断し、正確にプレイすることは最も必要なことです。これをご覧になっている現在と未来のメジャーリーガーに思いをはせてこの始球式をします。プレイボール』
周囲から体を支えてもらいながらなので、全力投球とは程遠いが、私はカメラに向けてボールを投げた。カメラに傷がつかなかったのは防護フィルムがちゃんと役にたったからだ。




