第9話 十五
合鍵のことがあってから、数日は少し変だった。
その夜、環は珍しくギターを早めに置いた。
窓は少し開けてあるのに、残暑の空気はまだぬるい。外の音は遠く、部屋の中では水槽の機械音だけが一定に鳴っていた。
流奈がこの部屋へ来るのは、もう珍しいことじゃなくなっていた。
毎日じゃない。時間も決まっていない。少しだけ顔を出して帰る日もあれば、そのまま朝が近くなるまでいる日もある。丸椅子に座ったまま眠りかけた流奈が、次に目を開ける時には、もう少しましな場所にいることも増えていた。何か名前がついた感じはしない。ただ、そういう近さだけが先に当たり前になっていただけだった。
環はそれを、勝手に当たり前みたいに思い始めていた。
それが良くないことくらい、自分でも薄々わかっていた。
一方で流奈は、夜にふらつくことが少し減った。行く先に迷った時、環の部屋へ来ることが増えた。黙って水を飲んで、キャポさんを見て、環がギターを触っている音を聞いて、気づいたら朝が近くなっている。そういう夜が、前より少し増えただけだった。
流奈にとっては、それで十分だった。
環の部屋は、話したくない日に話さなくてもいい場所だ。黙っていても、追い出されない。朝までいても、文句を言われない。
それがありがたかった。
その夜も、流奈はいつものみたいな顔で部屋へ来た。
ノックをすると、少ししてから「開いてる」と声がする。ドアを開けると、ぬるい部屋の空気と、水槽の機械音が先に触れた。窓は少しだけ開いていて、夏の終わりの湿った風が薄く入っている。
「いた」
流奈がそう言うと、環はベッドに背中を預けたまま、少しだけ口を曲げた。
「そりゃいるだろ」
「キャポさん」
「オレじゃねえのかよ」
「見ればわかるし」
「魚も見りゃわかるわ」
そのやり取りに、流奈は少しだけ口元を緩める。
部屋の中はいつも通りだった。テーブルの端に灰皿。床に置きっぱなしのギターケース。冷蔵庫の上の雑誌。壁際の水槽の中で、キャポさんがぬるっと動く。
流奈は冷蔵庫から水を取って、丸椅子に座った。
環は少し前から、こういう時に時々じっと流奈を見るようになっていた。何か言いたいのに、まだまとまってない顔。合鍵の時もそうだった。勝手に先へ行って、勝手に刺さっているのが見える顔だ。
「何」
先に訊くと、環はすぐには答えなかった。
「別に」
「別に、って顔じゃない」
「じゃあどんな顔だよ」
「知らないけど、変」
流奈が水を一口飲むと、環は少しだけ息を吐いた。
「今日、遅かったな」
「そう?」
「いつもより」
「ちょっとうろうろしてただけ」
「どこ」
「駅前とか」
「誰と」
そこで、ああ、と思う。
この感じ、嫉妬だ。
環はそういう時、自分でうまく隠せているつもりなのかもしれない。でも、流奈からするとわりとわかりやすい。言い方が少し尖って、目だけ妙にまっすぐになる。
「……何それ」
「何が」
「訊き方」
「普通だろ」
「全然」
流奈はペットボトルを膝に置いて、少しだけ肩をすくめた。
「お小遣いくれる人探してるかな」
軽く言ったつもりだった。
冗談とも本気ともつかない、いつもの逃がし方で。
重くならないように、先にこっちで軽くしておく言い方で。
でも、環は笑わなかった。
「……金、要るのか?」
流奈は少しだけ肩をすくめた。
「……要るね」
「何で」
「何でって言う必要は無いよね?」
そこで環は言葉に詰まった。
踏み込みすぎたのはわかる。けれど、引くほど軽くもできない。少しだけ苛立ったみたいに、環は言った。
「普通にバイトでもしろよ」
流奈はそこで初めて、ちゃんと環を見た。
大人ぶった正論だな、と思う。
別に間違ってはいない。間違ってはいないけど、何も知らないで言える側の言葉だ。
「無理だよ」
「何で」
「まだウチ十五歳だもん」
環が止まった。
水槽の音だけが、ぶくぶく一定に鳴る。
「……は?」
「高一」
流奈はまた水を飲んだ。環はそれでもまだ、うまく反応できていない。
「何、その顔」
「いや……十五って」
「十五だよ」
「ちょ、待てよ」
「何を」
環はすぐに返せなかった。
さっきまでの嫉妬っぽい空気が、そこだけすっぱり切れる。代わりに、違う種類の沈黙が落ちた。
流奈はその反応を見て、少しだけ冷める。
驚くのはわかる。けれど、そんなに、と思う。付き合ってるみたいな顔をしていたくせに、今さらそこなのか、とも思う。
「バイトだって、保証人いるとこ多いし」
流奈が言うと、環は小さく繰り返した。
「……保証人」
「出せないし」
軽く言ったつもりだった。
深刻にすると、相手が困るのがわかっているから。
でも、その軽さが余計に環にはきつかったらしい。顔色が少し変わる。血の気が引くって、こういうのを言うんだろうなと流奈は他人事みたいに思った。
「お前、今さらそれ言う?」
やっと出てきた言葉がそれで、流奈は少しだけ眉を寄せる。
「今さらだね」
「いや、今さらって……」
「だって今まで普通だったじゃん」
その一言で、環の顔がまた少し変わる。
普通。
流奈にとってはたぶん、そういう意味だ。この部屋に来て、水を飲んで、朝までいたり、途中で帰ったり、環が隣にいても黙ってキャポさんを見ていられること。それが、流奈の中では“普通に近いもの”として置かれている。
でも、環にとってはとっくにそうじゃなかった。
来る夜を待っていた。
来ないと少し落ち着かなかった。
朝までいるのが当たり前になりかけていることが、嬉しかった。
勝手に、もっと内側のものみたいに思っていた。
そこへ今、「十五歳」が落ちてきた。
環はしばらく何も言えなかった。言えないまま、額に手を当てる。顔を隠したいのか、考えたいのか、自分でもわかっていなさそうだった。
「……最悪」
ぽつりと落ちた声は、小さかった。
「何が」
「オレが」
流奈は少しだけ黙る。
その返しだけは、冗談じゃないのがわかった。
「別に、あんたが何かしたって話じゃないじゃん」
「そういう言い方すんなよ」
「何で」
「余計だろ」
環は顔を上げた。目がさっきまでと違う。怒っているというより、自分に腹を立てている顔だ。
「お前がここ来て、普通に水飲んで、普通に朝までいたりするから」
「うん」
「こっちも、そういうもんだと思ってた」
環はそこで一度言葉を切った。
「でも今、全然そうじゃねえじゃん」
流奈は返事をしなかった。
家のことは話したくない。
保証人が出せない理由も、夕方には家を出る理由も、いちいち言葉にしたくない。恥だと思っているし、母のことを他人に説明するのも嫌だった。
だから、言えるのはここまでだ。
「毎日ちゃんと学校行けてるわけでもないし」
それだけ言う。
環が顔を上げる。
「何で」
「朝だるい時あるし」
「それだけじゃねえだろ」
「夕方には家出るし」
環はそこでまた黙った。
もう、それ以上は聞くな、という意味は伝わったと思う。流奈はペットボトルの表面についた水滴を指で拭った。
「家、嫌なの」
しばらくして、環が低く訊く。
流奈は少しだけ考えてから、首を横に振った。
「嫌っていうか……長くいないほうがいい時間あるだけ」
それが限界だった。
母を悪く言いたくない。
家を笑い話にもしたくない。
でも嘘にもしたくない。
環はそれ以上聞かなかった。聞けなかったのかもしれない。
部屋の中が静かになる。
水槽の泡だけが、何も知らない顔で上がっていく。
「……何か、ごめん」
環が言う。
流奈は思わず顔を上げた。
「何で謝るの」
「知らねえよ。でも何か、そうだろ」
「変なの」
「お前がな」
その返し方が少しだけいつも通りで、流奈はほんの少しだけ息を抜いた。
環はベッドから立ち上がると、冷蔵庫の前に行って、缶コーヒーを一本取った。開ける気配はしない。ただ持ったまま、また戻ってくる。
「……お前、ここ来ない日は、ずっとそんな感じなの」
「そんな感じって」
「うろうろして、学校も適当で、夕方には家出て」
「適当ではないし」
「いや、そういう意味じゃなくて」
環は言い直そうとして、また失敗する。
流奈はそれを見て、少しだけおかしくなる。さっきまで本気で固まっていたくせに、まだこっちをどう扱えばいいかわかっていない顔だ。
「大丈夫だよ」
流奈が言うと、環はすぐに首を振った。
「大丈夫そうに言うな」
「大丈夫じゃないとやってけないし」
その一言で、また少し空気が冷える。
環は缶コーヒーをテーブルに置いて、流奈を見た。
「……心配するだろ、普通に」
流奈は少しだけ目を瞬いた。
その顔は、正義感でも説教でもなかった。ただ、困っていて、気になって、放っておけない顔だ。今まであまり見たことのない顔だった。
「何」
「いや……」
環は視線を落として、少しだけ頭を掻く。
「今までみたいに、来るか来ねえかだけ待ってりゃいい感じじゃなくなったっていうか」
そこまで言って、自分で嫌そうに眉を寄せた。
「……めんどくせえな、オレ」
「知ってる」
「うるせえ」
流奈は少しだけ笑った。ほんの少しだけだ。
環はそれを見て、息を吐く。
それでも顔はまだ晴れない。
「帰る」
流奈がそう言って立ち上がると、環も反射みたいに立ち上がった。
「送る」
「いらない」
「いや、いる」
「何で」
「今はそうしたい」
前みたいな勢いだけの言い方ではなかった。ちゃんと心配している顔で、でもそれをどう扱えばいいかわからないまま言っている顔。
流奈は少しだけ呆れたように息を吐く。
「めんどくさ」
「うるせえ」
でも、そのやり取りのあと、流奈はすぐには玄関へ向かわなかった。
丸椅子にもう一度座って、水を飲む。環もそれ以上急かさない。床に座って、黙ったままキャポさんの水槽を見る。
こういう置き方ができるのが、この部屋だった。
何も説明しないまま。
何も約束しないまま。
ただ、少しだけここにいる。
環はたぶん、今さら初めてその重さを受け取っている。
流奈はそれを、黙ったまま感じていた。
しばらくしてから、今度こそ立ち上がる。
「じゃあ帰る」
「おう」
環も立つ。玄関まで行って、流奈が靴を履くあいだ、何も言わない。
ドアを開けると、外の空気はまだぬるかった。階段の下までついてきた環が、途中で言う。
「……また来いよ」
「行くよ、たぶん」
「たぶんって何だよ」
「キャポさんいるし」
「オレじゃねえのかよ」
「今日ちょっと重いし」
「お前な」
その返しに、少しだけいつもの環が混じる。
でも、目だけはまだ違っていた。
心配している顔。
放っておけない顔。
流奈はそれを見て、少しだけ不思議な気持ちになる。
「じゃあね」
「……おう。気ぃつけろ」
歩き出してからも、背中に視線が残る気がした。
振り返らなかったけれど、環はしばらくそこに立っていたのだろうと思う。
十五歳。
その数字が、今さらあいつの中で重くなったのだろう。
今までと同じ部屋で、同じ水を飲んで、同じように朝までいられるとしても、もうまったく同じ顔ではいられない。
そんな気がした。
そしてたぶん、それは当たっていた。




